陽の当たる場所で笑えるなら・4
コルさんの体調は日によって異なる、調子のいいときは心を病んでいることすらも感じさせないほど普通だが、そうでない日には起きあがるのも辛いという日もある。そういう日はそれでもいいのでと、野外で日光浴をして一日を終える日もある。
こんなのでいいのかとぐずるような声で聞くものの、別に急ぎの旅でもないですし構わないのではと返す。
「小生のカジッチュくんも、光合成できて喜んでますし」
晴れてよかったですねと声をかけると元気な声が返ってくる、そういうものだろうかと不安そうにつぶやく彼に、なにもしない日があったっていいじゃないですか、気が済むまで休めばいいのではないかと思いますよと言う。
「頑張っただけ成果が出るなら、神は休日なんて作りませんでしたよ」
「それはそうかもしれないが」
なにもしない時間も人には必要なのです、今こうして過ごしていることで遅れを取っているわけではない、時間は有限だと人は言いますけれども、じゃあそれをどう使うのかは自分の好きにしていいはずだ。
好きに使っていいのならばそれこそと続く言葉を遮り、そろそろ昼食の用意でもしましょうか、と話題を変える。
「用意しますので、待っててくださいね」
「わかった」
複雑そうな顔を見せる彼を残して、さてと手持ちの材料を探すふりをする、今のはよくなかったかなと考えるものの、どんなふうに接するのが正解なのかは見えてこない、本当に人の心はわからないものだ。
「難儀なものですね」
エスパータイプの一族には、それこそサイキック能力を持つかたもいらっしゃるとか、あんまり交流が深いわけではないから詳細は不明だけれども、他人の心が読めるような力があれば、もっと彼に的確な言葉をかけられるのだろうか。
「どう思います」
問いかけたカジッチュくんは丸い体を揺れ動かして首を横に振るだけ、特に意見はないのかそれとも問いの意味がわからなかったのか、どちらであったとしても、きみのこともまだまだ理解が及んでいませんねと揺れる頭を撫でる。
「大きくなってきたら進化先を選ぶ日も来ると思いますが、そのときは是非ともきみの意見を聞かせてくださいですよ」
まだもう少し先のことにしようと思っているものの、流石に進化先を勝手に決められているのは心地いいものでもないでしょう、一度しか選択できない問題なのだから、本人の希望は大事である。
ここが分岐路かもしれないという医師の言葉を思い出す、彼を生かす道をと選び取ったこの決断は、本当に正しかったのだろうか。
「ハッさん」
「なんでしょう?」
「鍋にパンを入れるのか」
なにを作る気なんだと疑問を投げかけられ、これはいけないと苦笑して返す。
「なんだか心ここにあらず、といった様子だったが」
「カジッチュくんの進化先をどうしようかと考えてまして」
この子のポテンシャルを引き出せる進化とはなんだろうと考えていたら思わず、指摘してくださってありがとうございますと言えば、それだけかと聞かれる。
「いや草ドラゴンタイプなんて初めてで、それに進化先が別れる子というのも珍しいでしょう」
なによりコルさんから任された身の上なので、一人前に育てあげたいというのはある。
「なんだかんだ言って、ハッさんはドラゴンタイプが好きなんだな」
「そうですね最も身近な存在だったので、今更になって別のタイプのトレーナーになるのは、考えられないといいますか」
家から逃げるのなら、いっそ断ち切るという意味でも転向すべきなのだろうか。しかし苦楽を共にした仲間たちと縁を切ることもできない、結局は中途半端なのだろう、そういうところが大成しない理由かもしれないなんて言えば、自分が情熱を捧げるものに理由が必要かと問われる。
「それにわかるよ、ハッさんが別れを告げられないのもそうだし、ポケモンたちがあなたを一人にはしないだろう」
得難い繋がりだから大事にしたほうがいい、ただ考えすぎている姿も心配になる。
「ワタシに相談してもしょうがないだろうが、それでも声をかけてしまった」
「いえ、びしょ濡れのパンにならずに済みました」
これは軽く焼いてサンドイッチにしましょうかと告げると、それがいいかなと返してくれる、食欲はそれほどないので軽めだと嬉しいとも。
「わかりました、そういえばオリーニョくんがきのみを集めて来てくれましたよ」
そこの籠の中にあるので、どれか選んでくださいと告げると中を確認していた相手が、わっと驚いた声をあげるのでどうしましたとたずね返す。
「きのみが動いた」
「そんな馬鹿な」
野生のホシガリスくんでも紛れこんでいるのでは、と問題の籠の中を覗きこめば、確かにきのみの山が左右に揺れ動いている。なにかがいるのは間違いないものの、果たして誰が飛び出してくるのか、二人して身構えていると中から顔を出したのは、甘い香りを振りまく果実のようななにか。
飛び出したその子が机の上に落ちるが滑って転がり、落ちそうになる寸前でコルさんがなんとか受け止める、よほど怖かったのか涙を流す相手を見つめなるほどと納得する。
「アマカジくんでしたか」
オリーニョくんは進化してから少し活発に動くようになった、どこでみつけたのかはわかりませんが、おそらく昼寝でもしている間に、珍しいきのみと勘違いして拾われて来てしまったのだろう。野生に返すべきかと思ったものの、当の本人はその場から身動きせずに、じっとコルさんのほうを見ている。
「ワタシに、なにか用だろうか?」
「コルさんのことが気に入ったのでは?」
戦ってもいないんだがと言う彼に、でも危ないところ助けてくれたわけですし、この子にとってはそれで充分だったのではないでしょうか。試しにあなた彼について行きたいのですかと聞いてみれば、甘えるような声をあげるので、やはりそれを望んでいるようですよと告げる。
「こんなことあるのか?」
「稀に自分から人の仲間になりたがるポケモンがいる、というのは聞いたことありますよ」
加えて彼自身が育成しているタイプが草なのを考えると、自分にとってよいパートナーになれると判断したのかもしれない。単純に好みだっただけの可能性ももちろん否定できませんが。
「ワタシについて来て、キサマにいいことがあるとは限らんぞ」
それでも構わないというようにそばへ寄るので、せっかくですから連れて行ってあげたらいいじゃないですか、旅は賑やかなほうが楽しいものですよと明るい声で返す。
「期待されても困るが、それでもついて来ると言いそうだな」
ではよろしく頼むとボールを差し出すと、自分から望んで中へ入っていく。やはり気に入られているようですねと指摘すれば、あんな簡単に人について行くことを決めてしまって、大丈夫なんだろうかと不安そうにつぶやく。
「まあまあ、それだけコルさんが魅力的に映ったのですよきっと」
せっかくですから新入りさんも入れてお昼にしましょうと、少しだけ賑やかになったテーブルを囲む、突然現れたアマカジくんにコルさんの手持ちの二匹は驚き、距離の近さも含めてムッとしたようではある。
「コルさんも好かれてますね」
「やめてくれ、あんまり慣れてないんだ」
こういう純粋な行為を向けられるとどうにも苦手だと言う、与えられた分だけ自分にも応える必要があるのではないか、なんて勘繰ってしまうから。
「植物が好きだというのは、まあそういうのもある」
木も草も花も、自分の思うままに育つがものを言わない。人が手をかければそれだけ結果はくれたりもするが、基本的には自分の自由を優先する、より陽が当たるほうへ枝を伸ばし、好きに花をつける。気難しくあったとしてもそのほうが自由でいいと。
「でもあなたを好きだという感情もまた、彼女の自由なのでは?」
「それはそうなのだが」
コルさんの手から分けてもらうきのみを、嬉しそうに口にしているアマカジくんを見るに、この選択に迷いも後悔もなさそうですよと言えば、今来たばかりだからなにも見えてないだろうさ、と汚れた口周りを拭ってあげながら返す。
「途中でいやになってしまったとき、この子は帰る道があるのか」
「そういうことは言わないものですよ」
出会ったばかりなのに別れ話をされては、この子だってショックを受けてますよと指摘すれば、すまないと不安そうに揺れる相手の頭を優しく撫でて返していた。
片づけを手伝ってくれるカイリューたちに、明日は出発しましょうねと声をかけていると、新入りの彼女を連れたオリーニョくんがそばに来て小生の服の裾を引く。視線の先にあるのは、チュリネくんを膝に乗せてスケッチブックに向かっている彼等の主。
「そうですね、教えておくべきでしょうか」
不思議そうな顔をするアマカジくんに、実はコルさんは病を患っていらっしゃいましてねと言うと、ビックリしたような声をあげる。
「彼が病んでいるのは心なのです、薬や治療ですぐに治るものではないようで、彼が苦しみから逃げられるよう旅をすることを提案しました」
半ば強引に連れ出してしまったようなものですが、それでもいやがらずについて来てくれています、きっと彼が生きたいからだと信じていますが、コルさん本人がどう思っているのかは到底わかりません。今もずっと死の影に飲みこまれているのか、それとも陽の当たる場所を望んでもがいているのか。
「なのでお願いします、彼がもし自分の死を望むようなことをしていたら、どうか止めてくれませんか」
それが本当に心からの願いで、もう他に道がないと納得しきるまでは絶対に、衝動的に断つようなことはあってはいけないと思うのです。
「力を貸してくださいますか?」
任せておけとばかりに力強く応えてくれる相手に、ありがとうございますと返した。
南5番エリアに入り海辺へ向かって走る、町に近いところでは人も多いが少し離れるとまばらになる、行き先を示す看板はたまに立っているものの、基本的には地図を片手に行く旅なので、迷うこともままあるものだ。
「海風はあちらから吹いているので、方角としては合っていると思いますが」
参りましたねと笑って返すと、やっぱりさっきの道を右だったのではと疑問を投げかけられる、でも方向としては間違ってないはずなんですよと念押して言えば、どこを見ても湿地帯だがと呆れたようにつぶやく。
「この先ですよ、ほら地図にも湿地帯はありますから」
「だが道はないぞ?」
方角だけ合っていてもこれではどうしようもないのでは、と言う彼にぐうの音も出ないでいると、もう少し先まで行ってみるかと声をかけられる。
「いいんですか?」
「ここで引き返すと、ハッさんの気が済まないんだろう?」
最後までつき合うよと言ってくれる相手に、嬉しくなって現在地はおそらくここなのでと、歩きやすい道を選んで湿地帯のぬかるむ地面をできるだけ避けるように進む。沼の縁で休むウパーとドオーたちのゆったりした姿もあれば、群れをなして空から降りてくるカラミンゴの明るい羽音もある、それらを興味深そうに眺めている相手が足を取られないように前を歩いて、石や段差に注意するように声をかける。
もう少し先まで行けば目の前が開けるはずという希望を持ちながら進む、ここまでつき合わせてしまって、間違っていたらという心配はもちろんあるが、きっと大丈夫だと信じていた矢先に、きらりと光るものが見えてあっと声をあげる。
視界が開けた先に広がるのは海へと繋がる道だった、パルデアの東側の海、十景の一つひそやかビーチへ至る道だ。
緩やかな坂道をくだり、白砂の広がるビーチへ降り立つと心地よい波の音と穏やかな風が迎えてくれる、温暖な気候ではあるものの海に入れる季節ではないので、観光客の姿もなく景色を独り占めできることに、彼の目にも光が映っているのがわかる。
「これは、想像してたより美しいな」
「ええ」
光を受けて穏やかに輝く海を見つめ、諦めずにここまで来てよかったと言えば、もしかしてわかっていたのかとたずねられる。
「いいえ、完全に迷ってました」
「なら戻らなくて正解だったな」
波打ち際近くを二人で散歩してどこまでも続く海の青さと、晴れ渡った空を見あげて高いなと手を伸ばしている、思っていたよりもここは気に入ったらしい。見るからにはしゃいでいるように映る相手に、このまま帰ってしまうのは勿体ないと感じて、今日はここで休むのはどうでしょうと提案すれば、いいなゆっくりできそうだと機嫌よく返してくれる。
「しかし海辺は、波にさらわれたりしないか?」
「今夜は満潮でもないですし、明日までずっと晴れの予報ですから」
波打ち際はダメでしょうけれども、それなりに距離を離しておけば濡れるような心配もないでしょう、近隣のポケモンセンターの位置を確かめ、あのくらい距離を取っておけば心配はないのではと返す。
どこがいいだろうかと浜を歩いていると、ここからの眺めが一番いいと平らに開けた一角を指すので、それでは準備をしましょうかと手分けしてテントの準備をする。旅の中で少しずつ準備をするのにも慣れてきたのか、ポールを立てて幕を張るのを手伝ってくれる。
すでに陽はゆっくりと傾き始めているものの、暗くなるまではまだ時間がかかる。ボールからポケモンたちを出してやれば、海を前に子供のようにはしゃぐもの、ゆっくりしていいのだと判断して昼寝をするものと反応は様々である。一通り海を堪能した我々は流木に腰かけて、柔らかにオレンジに変わっていく空を眺めながらコルさんはスケッチブックを、自分はギターを手に軽い気分で曲を弾いていた。
「なぜだ」
今日はいい気分なのに筆が進まないと頭を抱えるので、無理になにかを描かなければと思わなくてもいいんじゃないですか、と声をかける。
「素晴らしい景色にインスピレーションを得て、きっといいものができると思ったのに」
頭で描いたものが自分の手で出力できない、手が動かない見えているし掴めているはずなのに、どうしてと涙混じりつぶやく相手に、今日は観察することに留めたらどうですと声をかける。
「観察」
「はい、自分の一番好きだと思った瞬間が、まだ訪れていないだけかもしれませんし」
もう一歩足りないのならそれを待ち続けてもいいじゃないですか、刻一刻と色を変えていく空も、無限に打ち寄せる波も二度と同じ形になりはしない、どれも完璧に見えていてもまだ足りないものがあるのでは。
「これ以上のものを求めていると?」
「小生にはわかりませんが、描けないということは、無理に描くなということもあるのでは?」
よく観察して記憶に残った中で一番きらめくものを形にする、それもまた創作ですよと告げると、そうかと納得してくれたのか抱えていた頭から手を離し、閉じたスケッチブックとペンケースをそばに置いて、青から群青へ染まりゆく世界へ視線を向けるが、ややあってから体を少しこちらへ寄せる。
どうしたのかとしばし黙って様子をうかがっていると、更に少し近づいて肩へ頭を預けられる。邪魔にならないように気は使ってくれているのだろう、それほど重くはないのだが、それでも心拍数は少し跳ねあがる。
緊張が手元に現れるのを悟られないように、演奏する曲をゆったりしたものへ変える。自分の隣でただまんじりとも動かずに手元を見ている相手に、その体勢は疲れませんかとたずねると、悪いがここが落ち着くんだと小声で言う。
「離れたほうがいいか?」
「いいえ、コルさんがそこでいいのなら、小生の肩くらい貸しますよ」
そうかと隣にいる彼が持って来ていたピックを光にかざす、あまりに気に入ってくれたので、透明なケースに入れ細い紐を通して首から下げられるようにした。これなら落としたりはしないなと本人も気に入っていたそれは、空の色を反射して濃い青色に変わっている。
「実はセグレイブの鱗で出来ているんですよ」
「ハクリューのものかと思っていた」
「あるんですけどね、ただ小生ではうまく扱えなくて」
ポケモンによって鱗の質は変わる、ハクリューの場合は薄くて扱い辛く繊細な演奏を求められるので、使いこなせる人は一部のかたに限られますね。
「材質と演奏方法、曲の内容によって持ち変える人も中にはいらっしゃいますよ、それもまた個人のこだわりが出て面白くて」
使い手が減っているのは間違いないので、余計に同じ楽器を持っていると思わず声をかけてしまうことがある、新しい発見や自分と違う意見に出会うこともある、そうしてまた一つ新しいことを知るんです。
「面白いな」
「そうですか」
誰かの批評に素直に耳を傾けられるのがハッさんの偉いところだ、ワタシはどうしても自我が強過ぎる、押しつけられる評価には争ってしまうし、万人のための制作とか誰もが触れられるものを求められると、間違っていると反抗してしまいそうになる。
「わからなくなるんだ、なにが正しいのか」
そう言ってより強くもたれかかってくるので、ギターを弾く手を止めて頭を優しく撫でてみる。
「芸術の道に正解なんてないでしょう」
無理に合わせる必要はありません、人から言われただけのものを作るだけならば優れた技術を持とうとも、自立して立つことはできなくなってしまう。絵を生み出すだけの道具であってはいけないのです、それならばカメラだけでよくなってしまう。
ただ時折は耳を貸してみてもいいかもしれない、それが自分に取って役に立つと思えるものならば。
「まあ耳に痛い話も多いんですけれどもね」
ただ否定されているのか、意志を汲んだうえの意見なのかは中々に区別がつきにくい、コルさんの作りたいもの描きたいものの真意を知るのは、やはりあなただけですし。
「ときには自分の心すらも見えなくなったりするくらいです、誰の声を聞くのか、それに自分はどう思っていてなにを叫ぶべきなのか、わからないまま別の声に惑わされたりしないか。ずっと不安で仕方ない」
だから正解がほしくなる、誰かと一緒だと安心できる、でもおそらくコルさんはそういう人ではないんでしょう。誰かと同じじゃなくて、もっと違う形で生み出されるものに美しさを見出している、勝手ながらそんなふうに思っていますと伝えると、うつむいていた顔をあげてやっぱりハッさんはすごいなと力なく言う。
「他の誰よりもワタシのことをよくわかっている」
下手すればワタシよりもわかっているんじゃないか、と言う相手にそんなわけないじゃないですかと返す。
真にわかっているのならこんなに苦しんではいない、明日もあなたがここに居て、なにも苦しめられず安らかに幸福に笑っていてくれればそれでいいのに、どうすれば些細な願いを達成できるのか検討もつかないんです。
「そろそろ夕飯の用意をしましょうか」
「そうだな」
焚き火を囲んでみんなで食べる夕飯は賑やかで好きだと思う、自分の連れているドラゴンポケモンたちもすっかりコルさんに懐いている、特にカイリューやドラミドロは彼を気に入っているらしい。余ったきのみを食べさせていいだろうかと聞かれて、いいですよと告げると嬉しそうに貰い撫でることを許している。
その姿を微笑ましく思うのだが、彼の手持ちの仲間たちからすると少し嫉妬の対象になるらしい、構ってほしいアマカジくんに裾を引っ張られて、伸びるから順番にと困ったように言い聞かせている。助けてほしそうにこちらを一瞬見るので、膝に乗せてあげてはどうでしょうと提案してみた。
「そんなことでいいのか?」
「自分もまた特別だと知れば、落ち着くかもしれませんよ」
それならばとぐずる相手を両手で抱きあげると、膝の上に乗せて頭を撫でるので、よかったですねと声をかけると一声嬉しそうに鳴く。そんな様子を眺めて古株の子たちは、仕方ない奴だと言わんばかりに小さく息を吐いていた。
「皆さんよりも過ごした時間が短い分、彼女はまだコルさんの心を欲して仕方ないんですよ」
どうか大目にみてあげてくださいと言えば、チュリネくんが赤い目でこちらをじっと見返す、どうかしましたかと聞けば自分の主と小生の顔を交互に見る。
「心配しないでください」
別に彼を独り占めしたいなんて考えてないですよ、皆さんと一緒にいられればそれで構わないのですと告げると、不満そうに揺れる。なにかを見透かされているようで、心の底で不安の波が立つものの、気のせいだと頭を切り替えて食後のコーヒーを入れてマグカップを差し出す。
「ありがとうハッさん」
「いえ」
穏やかな夜だった、波は静かで風もそれほど強くない。コーヒーを飲む間にも夜の色はどんどん濃く深くなっていく、夕飯時には薄らとした雲が覆っていたものの、マグカップの中身を飲み干すまでの時間に晴れてきた。
人里から離れた分だけ空は墨を流したように黒く、海は反射する光をなくして闇が詰まった鏡のようで、しばらくポケモンたちと遊んでいたコルさんの目を奪うほどに見事な星空が、水平線の端まで垂れ落ちてきている。
「素晴らしい」
立ち上がった瞬間に転がり落ちたアマカジくんに怒られているものの、そんな声も届かないほどに、空に夢中になっている彼に少し見てきたらどうですかと声をかけると、いいのかと嬉しそうに返される。
「ええ、片づけはこちらでやっておきますから」
すまないと謝る彼を見送り、使っていた道具と食器を洗って片づけて就寝の準備をする、皆をモンスターボールに戻していると、ふいにぐっとズボンの裾を強く引く手に気づいた。
「どうしました?」
泣き出しそうな声で必死に呼ぶアマカジくんの指すほうを見れば、ふらふらと波打ち際の近くまで軽い足取りで進んでいくコルさんがいて、背筋に冷たいものが駆け抜ける。誰もいない浜辺を走る、砂に足が取られて早く走れないのをもどかしく感じる暇さえないほど、ただ走った。
「コルさん!」
打ち寄せる波は凍えるほどではないが、ただ冷たい。そんな中に膝下まで浸かって、それでも前へ行こうとした相手の背後から抱き締めて、その場に押しとどめる。
「どうしたハッさん?」
そんなに慌ててと不思議そうに後ろの様子をうかがって聞く、あまりに純粋な疑問の声に心配しすぎたのかと思ったものの、荒くなった息を整えながら頭の中に覆う不安と恐怖の声はきっと大事だと信じて、なにをしているんですかと震える声でたずねる。
「ああ見てくれ、とても綺麗な星だ」
山にも木々にも遮られない完璧な空、昼に見たときはあんなに遠くに思えたのに、不思議なことに星が出ただけでとても近くに感じる、手を伸ばせば触れられそうだと無邪気に語るその声から、きっと本心からの言葉だろうと思う。
「そうですね、今夜の星は特に素晴らしい」
「ああ、もっと近くで見てみたくなって」
そう言いながら手を伸ばす彼の、自分よりも小さくて細い指が真っ黒な海の中へ拐われていくのを想像した。いくら浅瀬だといっても波はある、打ち寄せる海は口を開けて一息に彼を飲みこんでしまうだろう、こうして繋ぎ止めていなければ。
波に濡れて少しずつ重くなっていく服を気にすることもなく、コルさんはただ空を見あげて、やっぱり素晴らしいなと溜息を吐く。星が光るほど空は暗く、正にあれこそが夜の姿だと喜ぶ。
背中越しで表情は見えない彼に、星が見たいならもっといい方法がありますよと返す。
「本当に?」
「ええ、小生のカイリューならば、あなた一人を抱えて飛ぶことは、簡単にできると思います」
あの子はあなたに懐いていますから、お願いすれば喜んでつき合ってくれるでしょう、きっと海面から見るよりも近くまで連れて行ってくれると思います。それにあんまり長い時間、空を見あげるのは大変でしょう、星空を観察するときは、横になって見るほうがいいんですよ、首を痛めてしまうので。
「ですから戻りましょう」
風に消えそうな声でそう言えば、わかったと承諾する声が前から戻ってきた。
「ちょっと苦しいから離してもらってもいいか?」
「すみません」
不安であまりに強い力で抱きしめていたらしい腕を離すも、足元も悪いですし手を繋いでいたいんですが構いませんかと聞けば、確かにそうかとなんの疑問も挟まずに空へ向けていた指を小生の前へ差し出してくれる。それを掴んでしっかりと繋いで歩き出せば、時折波に足を取られそうになりながらもすぐ隣をついて来てくれる、そこでようやく安心してまともに呼吸が戻ってくる。
「どうしたハッさん」
「いえ、なんでもないんです」
不要な心配をかけたと思われたくなかったが、暗がりの中ですっかり目が慣れたのか、小生の顔をじっと見返して空いている手を伸ばし、目元に浮かんでいた涙を拭われる。
「もしかして、ワタシが行ってしまうと思ったか?」
どうしてと聞くより先に、そんな顔をさせてしまってまで気づかないほど、鈍くはないと隣から言葉が戻ってくる。
「自分でもわからないんだ」
「なにがですか」
「どうしたかったのか、わからない」
ただあの先へ行ってみたいと思ったんだ、吸いこまれそうな星空と真っ黒な海の先に、静かで穏やかでなにも心を蝕むものがないような所へ、行ってみたいなって思って。そうしたら歩き出していた、自分でも驚くほど素直に海へ向かって行ってて。
「包丁を握ろうとしたときは、もっと怖かったのにな」
カイリューに止められたときも、オンバーンに抑えられたときも、どこか心の端で恐怖している自分が残っているのはわかっていた。今日は不思議とそれがない、だから成し遂げられるような気がした、きっと死ぬのにうってつけの日なんだろうなって。
とうとうと語る相手の声に不安はないらしい、止めなければ先へ踏み入れてたのは違いない、黒く深く静かな海の中へ一人で。
「あなたが死に誘われているのは、わかっているんです」
その声はまだ消えることはないんですね、こうして手を引いている今も向こうへ心が傾いているのではないか、引き止めているこの声は小生のエゴであって、本当の意味で救いになっていないのではないか、と思わないことはないのです。
「だからもう一度だけ確認させてください、行かないでいいんですよね?」
「ああ」
とてもいい夜だから、もう少しだけ今夜は空を見ていたいと言う、本当ですねと念押しでたずねれば、そんなに心配なら今日はずっと手を繋いでいればいいと返すので、お言葉に甘えてと繋いだ手を引き寄せる。
「歩き難いぞ」
「それなら、これでどうでしょう」
波に足を取られそうになる相手の体を抱きあげる、ハッさんまで濡れてしまうぞと抵抗する相手に、すでに濡れてますと返して抑えこんでしまう。こうしてみると以前にも増して、細く軽くなったような気がするものの、まだ生きている。
体温はあるし息もしている、心臓が間違いなく動いているのだから当たり前のこと、でも手を離したら最後、またふらりと消えてしまわないか心配で仕方ないのです。
「泣かないでくれハッさん」
もう行かないからと頬に触れてくる手に擦り寄せて、我儘で申しわけないと首を振る。
「いいや、さっき全部言えなかったんだけどな、死が見えてたのは本当なんだが」
流れ星を見たんだ、大きく尾を引いて流れていった光の筋を見ていると、なんだかハッさんのことを思い出してしまって、この先へ行っていいのかわからなくなった。
「それで困っていたところに、あなたが来たから」
心のどこかで止めてくれると思っていたのかもしれない、または引き止めてくれるのを望んでいたのか、どちらにせよ迷惑なことをしたのは自分だからと彼は謝る。
「だからあなたが泣くことはない、ましてや自分を責めないでくれ」
ワタシの心は風に吹かれても折れるし、星が流れる時間に様変わりする、それであなたを振り回している自覚はある。決して泣かせたいわけじゃないのに、うまくできなくて申しわけない。
「そうでしたか」
ちゃんと間に合ってよかったと言えば、意外にも星は願いを聞いているのかもしれないと彼は言う。
「いや、それならば願ったのは小生のほうでしょう」
あなたに死んでほしくない、それしか考えてなかったのは自分のほうだ。星は見えてなかったけれど、願いは叶ったのだからそれでいい。
「欲がないな」
「これ以上、欲を出してどうするんですか?」
一番大事なものが波に拐われなかった、それだけで充分なくらいの結果なのだけれども、腕の中に収まっているコルさんはそっと顔を寄せる。あっという間にすぐ近く、触れ合えるほどの距離から、正面から重なる。柔らかく唇を重ねて優しくキスをくれる相手に驚き、ただ硬直しているとすぐに離れてしまう。
「なにを?」
「今夜はいい夜だから、ちょうどいいかなと思ったんだ」
この間はあまりにも情緒にかけていた、場所もタイミングもなにもかも、あなたを無駄に怒らせてしまったし、自分もあまりにも幼すぎた、だからやり直しの機会はあっていいだろうと。
「やり直しって、なんの?」
「ファーストキス」
いやハッさんは違うのか、まあでもどちらでもいい、ともかくあんまりにも身を尽くしてくれるのだから、少しは真っ当に綺麗な思い出くらいあってもいいだろう。
「あなたはまた、そんなことを」
むしろそんなふうに情けをかけられることのほうが苦しいのですが、しかし逃げられないのだろうと相手はおかしそうに笑う。この腕とその願いから、今の自分はどうやらまだ逃げられないらしい、ならば最後がくるまでにあなたに少しでもいい思い出があるほうがいい。
「今日はあなたの勝ちだ、こんなワタシを大事そうに抱えこむ勝者には、ちゃんと祝福されないと意味がない」
暗がりでもはっきりとわかるその表情は、どこか自分のことなんてもうどうでもいいように映って、まだまだ自分の願いは遠く及んでいないのだと気づかされる。
「それじゃダメなんですよコルさん」
あなたが心から自分を愛してくれているのでないのなら、触れ合って優しくされても傷ついてしまう。愛する人があまりにぞんざいに自分を売り払ってしまう、そんなの許せるものじゃないんです。
「でもいつ次があるかもわからないだろう、またふらりと死に向かってしまうかもしれないし、こんないい夜はもうないかもしれない」
あなたが常に勝ち続けるわけもないんだ、どんな天才の勝負師であろうとも勝率は七割ですごいという、なのにワタシときたらゲームにもならないほどに心変わりが早い、ずっと勝てる見こみはないのだから、早々に降りるか諦めるかしたほうがいいぞ。
「小生がきらいだというわけではないんですか?」
「きらいな男に抱かれようと考えるほど、流石にワタシも酔狂ではない」
残念なことに同じ感情を抱いているわけではないと思うが、この手を振り解いて逃げようと考えることができるほど、心から拒絶しているわけではないらしい。自分でもこの感情はわからない、死にたくなるのとは違う意味で理解できないでいる。
海に向かって歩く理由を語るのと同じ声色で、彼は語る。
「どうしたらいいハッさん」
「それは」
その後に続くべき言葉が出てこない。あなたが隣に居て笑ってくれるならそれでいい、本当にそう思っているんだ、彼のポケモンたちに告げた言葉は嘘じゃないさ、ただ同じときを生きてくれるならそれでいいと。でも願いが叶うのならばこの想いが報われるときがあればいいと、確かに心の底では思っている。
この願いを押しつけたなら、生きていてくれるだろうか?
「確かに小生の我儘につき合っていただいてますが、形の伴わない感情を向けられても、傷つくだけなんです」
旅立ちの前にあなたは言った、小生から向けられる優しさの理由がわからないから、それすらも傷ついてしまうと。その正体を明かしてみればなんてことはない、ただの自己満足でしかありませんでした。そんな相手が同じ傷を返してくる、あなたを想い愛する男に向けて自分の犠牲を思い出だという、つくづく似た者同士なようで。
「勝ちますよ、小生は」
あなたの死の影からこれからも勝ちますよ、だから思い出を綺麗にしようなんて思わないでくれ、明日がこなくてもいいみたいな考えを肯定することはできないのです。
「勝利こそが全て、ではないんじゃなかったのか?」
「それがコルさんのためになるのなら、全霊を賭けて勝ちを取りますとも」
そうかと一言つぶやいた、信じてくれているのかどうなのか、その後に続く沈黙からは推し量ることはできなかった。
100万ボルトの夜景までいく予定だったのですけど、あまりに海が似合いすぎてしまって、色々と書いてしまいました。
おまえはいつも長編の予定を見誤るな、と作者は反省しております。
すみません、残り八箇所も頑張って書きます。
2022-12-13 Twitterより再掲