涙を流し、叫んで掴んだ自由に、なんの意味があったのか。
それは本当に自由だったのか。
カルディアの回顧録・3
「キャプテン!今日はお天気いいよー」
外出ようよと明るく声をかけてきたベポに、そうだなと返して船員達に浮上するぞ!と声をかけた。
敵船の多い危険海域のために潜り続けていたので、久しぶりの青空に船員の気分も上がったようだった。
「風の匂いはどうだベポ」
「うーんとね、雨雲の匂いはしないから嵐の心配はないし。潮の流れからは暖流の匂いがするから、近くの島はきっと暖かいところだよ」
泊まろうよーと声をあげる相手に、舵をどこに向けるか考える。
「キャプテン、お昼寝しようよ」
天気いいから気持ちいいよと言うとベポに、天気いいから洗濯するぞとペンギンの声が響いた。
「晴れてるからこそ、仕事しないといけないことがあるだろう」
「すいません」
しゅんと項垂れて言うベポに、いいからと背中をぽんと叩いてやると。ペンギンが近づいてきた。
「ベポも手伝ってくれ。船長も、片づけるものあるでしょう?白衣とか洗濯しちゃいますよ」
ついでに甲板の掃除して、シーツを天日干ししてと段取りを決めてくれる船員に、ここは任せられるなと思い、溜まった洗濯物を取りに部屋に行った。
ここしばらく、昔のことを思い出すことが増えてきた。その理由が頭に思い浮かんで、苦い顔と共にため息を吐いた。
「あんた達は、ドクター・カルディアの船の者かい?」
港に船をつけて、買い出しのためにペンギンとシャチを連れて降りた際、爺さんが声をかけてきた。短く刈りこんだ白髪に、よく日焼けした肌と長い年月をかけて刻まれたんだろう皺、おそらくは船乗りだったんだろう風格を持っている男は、長いコートを着て、白熊の子供を連れていた。
中古の船を医療船に改造して出発してから半年、噂になり出したのか声をかけられる事も増えた。評判が増えてくれた方が、こちらも助かる。
「ご老体、こちらがそのドクター・カルディアです」
ペンギンが一歩前に出て紹介すると、そうかあなたがと老人は関心したように声をあげた。
「若造だと聞いていたが、こんなに若い子だとはね」
「……悪いがあんたのその病は俺でも治せない」
末期状態だから手術したところで無駄だ、そもそも手術に耐えられる体でもないだろうし、成功しても生命維持装置に繋がれることになる。
出会い頭に失礼ですよとシャチは止めるが、老人はいいんですよと笑いかけた。
「ドクター、あなたは本物だと見ましたよ」
一目でわかるかね、とたずねる相手に俺ならなと返す。
「それで、治せないことはわかってて、俺になんの用だ?」
「治してほしいわけじゃない、ちょっと自由に歩けるだけの寿命を、伸ばせないかと思ったんですよ」
できないかね?とたずねる相手に、どうしますと聞くペンギンへ買い出しメモを渡し、買い物を二人に任せて老人を船内に招いた。
「寿命を伸ばしてなにをしたい?」
「なに、死に場所は決めているんでね、そこまで辿り着ければいいんですが、生憎と今の医者だとそこに至る前にくたばってしまいそうでして」
寿命を延ばしてくれる人を探していたんですよ、と彼は朗らかに告げた。
「少しなら機械に頼らずに延命することは確かにできる、だがどこに行こうとしてる?」
今の状態だと、持ってあと三ヶ月といったところだ。それも歩ける状態でではないだろう。どこに行きたいんだとたずねると、彼は笑いかけて、航海途中に寄った港町ですよと告げた。
「ここからだと、早ければ三ヶ月ほどあれば着きますかね」
「三ヶ月な……今の状態だと確かにギリギリだ、それで延命か?」
「ええ、上手く三ヶ月で着くとも限りませんからねえ」
「事情はわかった、だが……治療費は高いぞ、あんた払えるのか?」
そうたずねると、男は今の所持金はこれくらいですかね、と小切手を差し出してきた。
「まあ、期待してなかったがそんなに貧乏か?」
身なりはいいように思ったのだが、その金額にため息が出そうだ。
「今までの治療費がかさんでいましてね、これが最後の所持金ですね」
「悪いが、処置には足りねえな」
代償が出せるなら別だけど、と言えば彼は笑ってここの航海士さんはどなたで?と聞いてきた。
「今は俺が船長兼航海士だ、他の奴等もまあ航海技術はあるが、一番扱えるのが俺なもんでね」
「ほう、お若いのに随分と物知りなうえに優秀なお方なのですね。ではどうでしょう?私を航海士として置いていただくというのは」
名前を申し上げておりませんでしたが、私は航海士のツキノと申しますと男は頭を下げた。
ツキノ、その名前には聞き覚えがあった。航海士としてはかなり有名な人物である。彼の海図や航海の書籍は未だに心得として出回っているくらいだ。俺自身も彼の海図や航海術についての文書を読んだことがある。北の海の天候や海流について、非常に詳しく書きこまれていた。長年の航海の末に身につけたものの一部ですよと、彼は恐縮したように頭をさげた。
「ツキノ屋、あんたがこの船の航海士をしてくれるのは助かる。確かに報酬としては申し分ないが、しかしその島までたどり着いたとして、その後、俺達には見返りがないぞ」
「それについては心配されるな、ここに私の弟子がおります」
そう言って彼が膝の上の小熊を撫でた。
「ベポというのですがね、珍しい白熊族の小熊でして。この子は潮風や海流の機微を嗅ぎ分ける能力に長けているんですよ」
私が直々に航海術を教えています、いずれ立派な航海士になるでしょうと告げると、彼の膝の上で小熊はアイ!と可愛らしい声で鳴いた。
そっと手を伸ばすと、最初はためらったもののしばらくして、その小さな前足を俺の手に重ねてきた。握手のつもりなんですよと言う老人に、そうかと返して小熊の手を柔らかく握り返した。
「アイ!」
「今はこうやって返事することが多くて、人の言葉もつたなくしか話すことができませんがね、大人になる頃には人語も不自由なく扱えるようになりますよ」
「めずらしいな、そんな熊がいるのか」
「ええ、グランドラインの果ての方には」
そう言ってツキノ屋は微笑んだ。
「この子にはわたししかおりません、亡くなった後にどこぞの見世物で売り物にされるくらいならば、誰か有能な方に預けた方がよろしいでしょう」
「いいのか?こんな行きずりの闇医者相手に、そんな珍しいもの渡して」
そう言うとツキノ屋は柔らかい笑みを崩さずに、あなたは信用できますよと言った。
「長生きしてくるとね、わかります。わたしも色んなものを見てきましたから、あなたからは深い悲しみの臭いがする。同時に、憎悪と恨みの臭いも。随分と若いのに、苦労を重ねてきたようですね」
「だとしてなんだ?」
「しかし、人に慕われている。あなたはおそらく、冷徹な人間ではない」
合理的な人ではあるのかもしれませんがね、とツキノは続けた。
「この荒くれが集う海の中で、人の血が通う臭いがします」
そんな方は信用できますよと言うと、小熊の頭をゆっくりと撫でた。
「いいだろうツキノ屋、あんたをこの船に乗せてやる。そのかわり治療費のかわりに、
鮒働きの報酬は出さない、あんたの航海してきた記録や海についても可能な限り教えてもらおう。三食の食事と薬代も含めているからな」
「それで良いのであれば、構いませんよ。死ぬ間際に財産なんて持っていても仕方ないものです」
荷物をまとめてきましょう、ついでに少し必要なものもありますのでね。と言うとツキノはベポを連れて船をいったん降りた。彼が帰って来るのを待って、ここを出立することにした。
「あのじいさんを仲間にするって、本気なんですかドクター?」
「仲間とは少し違う、治療の代償にここで働いてもらうだけだ」
同乗するなら仲間じゃないですか、と買い出しから戻って甲板掃除をしていたシャチは呟いた。俺と一緒に買い物に行きたかったのに、ペンギンと二人にされたことを少し怒っているらしい。普段からよくペンギンに戦闘術について稽古をつけてもらっているためか、変なライバル意識が芽生えているようで、なにか勝てるものがないか少しでも探っているのだ。
俺からの信頼をどちらが得ているか、そんな事でくだらない言い争いをしていたのを止めたのも、記憶に新しい。
「ああ見えて、名前のある航海士だ。必ず役に立つ」
「でも海賊とかと戦うことになった時、どうするんです?」
「昔は海賊船にも乗船していた人だ、勘が鈍っていなければ自分でどうにかするだろう」
そう簡単に言いますけどと更に続けようとしたシャチに、心配は無用ですよと声がかかった。
「これでも、まだまだ腕に自信はありましてね」
気配もなく現れたツキノ屋に、シャチはかなりびびっていた。背後から近づいてくるのが見えていた俺は別段と気にも止めず、船に乗りこんだ男に荷物はどうした?とたずねる。
「ペンギンという方が下で待っていてくれましてね、他の物と一緒に大きな物は運び入れてくださるそうです」
ベポと小さなカバンだけを提げて、彼はゆっくりと微笑んだ。
なにも言わなくても自ら仕事をしてくれるとは、根回しに関してはあいつは本当に気がきく奴だと、出会えたことと救っておいた命を無駄にしなくて済んだことに安心する。
「それじゃあツキノ屋、早速だが処置室の方へ来てくれ」
かしこまりましたと頭をさげてついてくる相手は、シャチの前で立ち止まるとこの子をしばらく見ていてくださいと小熊のベポを預けた。
「ベポ、この人の言うことをしっかり聞くんですよ?」
「アイ!」
「えっ、ちょっとじいさん。これクマでしょ!俺に預けるって」
「わたしの弟子ですよ。なに、賢い子ですから人を傷つけることはありませんよ」
ただ力は強いので、怖がらせないように気をつけてくださいねと付け加えて、処置室へと入ってきた。
「あんた、よっぽど手慣れているな」
「なに、長生きしているだけですよ」
ところで先生、わたしの命はどれほど伸びますかね?と診察を受けるために手術着に着替える相手に、そうだなとしばし考える。
「短くて半年、もっても一年はないな」
「それは歩ける状態でということでよろしいでしょうか?」
「発作はあるし、痛みが出ることもある。緩和剤は打ってやるし、発作を治める薬も摂取してもらうが、その頻度が増えていくだろうな」
それまでに辿り着きたいものです、と手術用の衣服に着替え終わったツキノ屋は笑った。それを見て俺は溜息を吐き、手術台に横になるように告げた。
「あんたの死に場所には、一体なにがあるんだ?」
「大したものはありませんよ、単純に過去を清算したいだけです」
その言葉にそうかと返し、すぐにオペができるように整えられた部屋で静かに息を吐いた。
ツキノ屋の航海術は長年の勘からくるものであり、確かな風と海流の読みで、これまで以上に安心な航海ができた。これには船員の誰よりも俺が助かった。舵取りをするのは俺だが、どう動かせば良いかきっちりとした指示を飛ばしてくれるお陰で、航海の実務記録として非常に役に立ってくれた。
それだけではなく、今まで乗ってきた船の記録について詳細につけた航海日誌も貸してくれたし、質問すれば航海の話も聞かせてくれた。
「そんなに気に入ったのでしたら、あなたに差しあげましょうか?」
航海日誌を読みふける俺に向けて、ツキノ屋はそう言った。いくらなんでも人の物だ、長年大切に保管してきたところをみると、大事なものなんだろうからそれはいいと遠慮すれば、私が亡くなった後のベポには必要でしょうと笑って言った。
「では、あなたにいったん預けますので、私が死んだ後にベポに返してください」
「……いいだろう、それなら俺がしっかり預からせてもらう」
潜水艇の日誌を読みながらそう返した。五十年以上の間、様々な船に乗り続けた男の書いた記録は、生きた知識と力を俺に与えてくれる。
「海軍にいたことがあるのか」
「遠い昔の話ですよ、まだそれは若い頃ですね」
下っ端の海兵をしていました、そこで航海術について学んでいましたとツキノ屋は穏やかな口調で語る。
「その後、どうして海賊の船に三十年も?」
「海兵の仕事はわたしの性分に合わなかったんですよ、色んな海を渡るには海賊船に乗る方が良かったんです」
一筋縄ではいかない人生をすごしてきたのはよくわかった。しかし、この日誌は非常にためになる。医学書のように読みふけることができる書物も珍しい。
興味のあるものにはのめりこんでしまうために、どうしても時間を忘れてしまう。船員ではなく患者の前なので、一応は診察のついでにと思っているのだがつい長居してしまう。
「ドクター、あなた若いですけれど。おいくつですか?」
「今年、二十になる」
日誌から顔をあげずにそう答えると、そうですかわたしはてっきり現在、十七くらいかと思いましたと言われた。視線だけあげて相手を見れば、そっと微笑んで机にある紙になにかを書いた。
「人を見る目はありましてね」
と無言のまま差し出された紙を受け取り、その下に、だとしたらどうする?と返す。
「別に詮索はいたしませんよ、あなたの腕を信じていますので」
「若造を信じていいのか?」
「天才に年齢は関係ありませんよ」
「褒めてもなにも出ないぞ、あんたの寿命もそれ以上は伸びない」
「構いませんよ、最初から長くは期待していませんので」
ただと書き記した後で、そうですねと小さな声で彼は呟いた。
「ドクター、安楽死の方法をあなたは持っていますか?」
「ないわけはないが、なんだ?」
「わたしの目的が完了したら、眠らせていただけないかと思いまして」
それ以上の延命は必要ありませんのでと、彼は言う。
「医者に、患者を殺せとあんたは言うのか?」
「これも治療の一つだと思えば、医者にしかできないことではありませんか?」
しばし無言で見つめ合う。どう返してやろうかと考えるも、安楽死については色々な意見があり、俺自身も時と場合によりけりだとしか思えない。
だが、望まない治療を受けさせる必要はないというのが、結論だった。
「安楽死したいのなら、その費用は上乗せさせてもらう」
「死にかけのおいぼれからほしいものがあるのならば、いくらでもどうぞ」
「なら、この船について詳しく教えてくれ」
読んでいた日誌の潜水艇についてのページを出し、船の設計図や通ってきた航路を広げる。
この船が気に入らないわけではないが、長くは持たないのは目に見えている。どうせ乗るのであれば頑丈な船を探したい。色んな船の知識はあって悪いことはなかった。
「これで、代金になるならば喜んでお話しますよ」
今ならもっと優れた技師が、良い船を作ってくれると思いますがと前置きした上で、過去の航海した船について彼は語ってくれた。
それをつぶさにメモに取り、やはり船の新調は必要かと感じた。
「それを取ってくれるか?」
山と積まれた航海日誌の中に埋もれた小熊に指差してたずねてみた。
「アイアイ、どくたー」
つたない口調でそう答えるとベポは、俺が頼んだ日誌を手にやって来るとそっと渡してくれた。お礼と一緒に頭を撫でてやると、嬉しいのか掌にそっと頭を擦りつけてくる。その仕草が可愛らしくて、膝の上に乗せてやって毛並みを撫でるようにして本を読んでいるとしばらくして、小さな寝息が聞こえてきた。
「可愛らしいものでしょう?」
「ああ、そうだな」
わたしにとっては、子供のようなものなんですよとツキノ屋は笑いかけて言う。
「人の言葉も喋れるようになってきて、あと五年もすればすっかり大人になるんでしょうけれどね」
立派な姿を見れなくて寂しいですよと、老人は言う。
「ツキノ屋、あんた家族はどうしたんだ?」
「さてねえ」
それ以上は答えなかったところをみると、答えたくないなにかがあったのだろう。
「ドクターも家族はいないのでしょう?」
もという言葉に、暗に彼の家族の行方も知れた。
「誰がそんなことを言った?」
「そんな臭いがしますよ、長年の勘ですけれどね。わたしも色んな人に出会ってきたので、人の背負ってるものの臭いというのか、そういうものには敏感になりましてね」
ドクター、あなたかなり重いものを背負ってらっしゃるね。
だとしたらなんだと無言で見返して問い返せば、老人は笑顔のまま無言を貫く。どうするつもりもないと、そうはっきりと意思表示をする。
「人は神様から生まれる時に使命を与えられて産まれてくる、と言う神職者に会ったことがあります」
「俺はもう神を信じていない」
「老人の昔話ですよ。その人はね、その使命というものは望むと望まざるとに関わらず、必ず与えられるとおっしゃっていました」
あなたには、なにか目的があるのでしょう。そんな臭いがしますよとツキノ屋は言った。
「私があと三十歳でも若ければ、貴方について行くこともできたんですけどね」
「それは仕方ないな」
時間だけは人にはどうにもできないと言うと、それは確かにその通りですと返された。
「まあ、もしもの話ですよ」
白い髪を揺らして、彼は笑った。
俺が手にした新しい航海日誌を見て、ああそれはと止めに入る声がかかった。
「どうした?」
「わたしは街や島ごとに日誌をファイル分けしていますので、わかるんですよ。あなたが今手に取られたその街は、もうない場所です」
読んでもあまり役には立たないでしょうと言う相手に、なぜだと返す。
「その街と周辺海域そのものが、世界政府によって閉鎖されていますので、通るなら回り道をしなければいけないのですよ」
行く術のない場所です。悲しそうに告げる相手に、なんとなく手にしたこのファイルが、なにを背負っているか考える。
「どこの記録だ?」
「白鉛病と言えば、医者のあなたならばおわかりになられますかね?」
その言葉に、俺は息をするのを一瞬忘れた。
「……フレバンスの記録」
「三十年ほど前でしたかね。私が行った当時はまだ、美しい白い街だったんですが」
その末路はご存知で、とうかがう相手にしばし黙り、この日誌を貸してくれと頼んだ。
「部屋でゆっくり読みたい」
「ほしければ差しあげますよ。わたしにはもう必要のないものですし、治療の代金には、まだ足りないでしょう?」
「悪いな」
そう言って彼の部屋からファイルを手に、患者のカルテを持って処置室へ戻った。
「ドクター、最近ずっとあのじいさんの部屋にこもりっきりですけど」
少しはこっちも手を貸してくださいよと文句を垂れるシャチに、甲板掃除は終わったのかとたずねる。
「もう!ちゃんとしてますよ。そうじゃなくて、ドクターがあんまりにも患者の往診をしてくれないから、ペンギンや他の船員が苦労してますよ!」
「そんなに重症の患者はいないからいいだろうが、船の海路に暗雲もない。代金を支払ってくれるいい乗客だ、ああ十五番の患者には追加料金を請求しろ」
昨日、処置について文句を言って点滴を引きちぎったおかげで、隣の患者に怪我させていると言うと、ドクターがいつも通り巡回してくれたらそんな問題起きないですよ!とシャチは口を尖らせて言った。
「あの患者達、俺達が何言っても聞かないのに、ドクターを見たら途端に言うこと聞くんだから」
「なんだそれ。まるで俺が独裁者みたいな言い草だな」
「充分、あなたは恐怖の対象なんですよドクター・カルディア」
そう言いながら食堂に現れたペンギンは、頼んでいたおにぎりとコーヒーを俺の前に置いた。
「白衣を着た死神だと、噂をする者もいますからね」
「うへえ、白衣の天使じゃなく死神かー」
白い死神とかドクターにピッタリじゃないですかと言うシャチに、黙れと一言静かに返す。
「俺は、白が好きじゃない」
普段は使わない、憎しみを含んだ声を感じ取ったのか、シャチが怯えたようにすみませんと小さく謝る。
「……とにかく、ドクターが見回るだけで無駄な患者を作らなくて済むのは本当ですよ」
この船だと、あなたに逆らうと本気で命がありませんからと表情を変えずにペンギンは言う。
そんなに俺は恐れられているだろうか、しかし親しみやすい医者を目指すつもりもなかった。どちらかというと、畏怖の対象であってくれた方がこちらとしても商売はしやすい。海賊やそれに似た相手に対しては、恐怖で支配している方が何倍も効果があるのだ。
「それはいいとしてドクター、この間お願いされた薬ですけど。あれ、なにに使うんですか?」
この間というのは、俺が別件で頼んだもので間違いないだろう。カルテに記入したり、処方箋としてしっかり記録を残さずに頼んだのだから、いぶかしんでいるのかもしれない。
「安楽死させるのに使う」
「誰を、ですか?」
「ツキノ屋だ、目的を達成できたらそうしてほしいと、本人からの依頼だ」
まさか暴れた患者に使ったりはしないと告げると、ほっと安心したような顔をしてみせた後で、でもそれいいんですかとシャチはたずねる。
「一応は、仲間として乗船している人ですよ?」
「ツキノ屋は船員じゃない。治療費のかわりに長年積みあげてきた自身の知識と経験で、代金を支払ってくれているだけだ。その患者が望んだんなら、処置を施すまでだ」
「でも」
「通常の医者にできないことができる、それを見越してあの人はドクターに頼んだんでしょうね」
食い下がろうとしたシャチを遮ってペンギンがそう言った。
「そうだろうな、普通の医者なら患者の望みとはいえ、安楽死の薬を投与することはまずほとんどない。闇医者であれば、できることだ」
その分の代金はしっかりもらうと言いながら、出された昼食に手を伸ばした。
「しかしドクター、巡回の方もできればしっかりお願いします」
「わかった」
そう答えると、なんでペンギンの言うことには聞いてくれるんですか!とシャチが膨れ面をしてみせる。こういうところは本当にかわらない。
「お前よりも、ペンギンの方が付き合いが長いだけだ」
「ではその長い付き合いの自分からもう一つ。ドクター、今日こそ徹夜はしないでくださいね」
それは約束できないと告げて、昼飯のおにぎりを食べきると白衣とカルテを手にして自室に向かう。
見覚えのある故郷の地図、そしてその周辺海域の海流、気候、産業やどこが発展しているのか、どこへ立ち寄ったのか、事細かに記入されている。
あの教会はこの頃からあったのか、この場所にはあの頃からこの店があったのかと、懐かしい風景が思い浮かぶ。
地図の上をなぞり、この辺だとそっと指を置いた。ここに、俺が産まれた病院があった。そしてそこが俺の家だった。
ファイルをめくると、古い写真や絵が何枚か出てきた。懐かしいその姿に目を細める、父の病院はこの頃からこの場所にあった。
無性に泣きたいと思った、やけに喉の奥が乾いて目が霞むだけで涙が出ることはなかった。
波の音が聞こえる。風も相変わらず吹いている、どこかで足音も患者の叫び声と船員の怒鳴り声もする。全部遮断して、静かな場所に行きたい。
白は嫌いだった、悲しいこと辛いこと、嫌なことばかり思い出させる。だから黒いコートを着た彼は俺を抱きかかえると、なにも見えないように歩いてくれた。痛いところはないか、苦しいと感じたりしていないか、少し進めば心配そうにそうたずねてくる。優しくて暖かい夜の背中が懐かしかった。
ある日、夜が暗いのは見なくていいものを見せないためにあるんだとコラさんは言った。
「心配なこと、怖いこと、悲しいこと、それを全部見ないために夜は暗いんだ」
だから安心して眠れ、外の音なら全部消してやるからと微笑んだ。
自分のことはあまり話さないくせに、俺のことはやけに詳しく聞きたがった。どうでもいい話から始めて、気がつけば昔のことを語っている自分に、ああ誘導されているのだと気づいたのはしばらくしてからだ。
そうして話をしている間に、俺の中にあった形のない感情の温度が上がり雲から雨がふるように、しっとりと体に落ちてきた。蒸発していた感情やなにかが、どんどん枯れた体に戻っていく。それと同時に体は白く塗りつぶされていった。
隣で眠る彼を見たときに、まだ生きたいと思った。もう白い色は見たくない。そう言葉にしなくても気づいたのだろう彼が、黒いコートで体を包んでくれた。
「大丈夫だから、眠れ」
そう言って笑いかけると、おまじないだと言って額にキスをしてくれた。昔、小さかったころに母がしてくれたおまじないと、同じだった。
「そうか、俺の母さんもしてくれたんだ」
笑ったコラさんがそう言った。家族の話を聞いたのは、数える程しかないからよく覚えてる。
「コラさんは、家族が好きだったのか?」
「ああ、好きだよ」
だから生きてる、そう言って目を閉じた両方の瞼にもキスしてくれた。もう寝なさいという合図だった。
俺が色を取り戻した時、あの人が真っ白に消されてしまった。
眠るのは怖い。見えない間に俺の大事なものが白く塗り潰されないか心配になる。無理をしてでも、必要最低限の睡眠だけで俺は生きている。
目を閉じればそこにあなたがいる。
どうして、手を振っているんだろうか。まだ傍にいたいのに。
ああと声を漏らしたところで、アイという可愛らしい声がした。足元を見れば、どうやって入って来たのか白熊のベポがそこに座っていた。
「なんだ?ツキノ屋のとこからついてきたのか?」
「アイー」
ぎゅっと俺のズボンの裾を握る小熊に頬をほころばせて、どうしたとたずねる。
「どくたー、きらい?」
「なにを?」
「しろ、きらい?」
どうやら食堂での会話を聞いていたらしい。部屋の鍵は閉めたはずだったが、もしかしたら患者の往診をしている間に先に忍びこんでいたんだろうか?
自分のことは嫌いかと、そう聞きたいんだろう小熊に、お前が嫌いなんじゃないと頭を撫でてやる。
「俺はな、白い町で産まれたんだ」
膝に乗せて頭を撫でてやりながらそう言う。
「もう、その町はなくなっちまった。白い色は、俺にとっては悲しい色だ。だけど懐かしい色だ」
だからお前が嫌いなんじゃないと、再度つけ加えて言う。
「俺自身が白いと言われるのが嫌なだけだ、お前が嫌いなんじゃない」
安心しろと言ってやると、わかったのかそうでないのか、ベポはそれでもアイと元気よく返事をした。
ツキノ屋の目的地だと言っていたのは、小さいながらも交易が盛んな港町だった。
「いやはや、四ヶ月ほどですかね」
あなた方がいなければ、ここには辿り着けませんでしたと船員達に丁寧に礼を言うと、港に降り立った。
「なにをするつもりかは知らないが、その体だ、俺も付き合うぞ」
「ありがとうございます」
延命したとはいえ、体の痛みや発作がいつどこで起きるかわからない。目的を果たすまでは死ぬ気はないと言っていたのだ、最後まで見届けてやるしかないだろう。
彼は港の繁華街を抜けて真っ直ぐに反対側にある岬を目指していた、途中で花屋に寄って小さな花束を買った。この島の名産品だという白い大輪の百合の花を、青いリボンで巻いてもらっていた。
目的地への道が変わってしまったらしく何度か島民に話を聞いていたものの、その昔に訪れた時と島の形は大きくは変わっていないという。
「わたしがこの島に来たのは、まだ海軍に居た時期でしてね。海賊が根城にしていまして、それの一掃のために多くの海兵が駆り出されたんですよ」
しかし、相手が強くてねなかなか太刀打ちできなかった。
まるで独り言のように、ツキノ屋はゆっくりと語る。
「そこで軍の下した方針が、島ごとの一掃でした」
この島の住民達は非常に武器を作るのに長けていました、職人街というのか、鉄砲鍛冶に刀鍛冶、色んな武器を作る者達がいました。その島民達は、海賊に武器を売ってそれで稼いでいたんですよ。
軍に守ってもらえないのであれば、生き残るにはそうするしかなかった。勿論、彼等だって本意ではなかったでしょう、仕方ない選択だったんですよ。しかし、悪党に加担した島民を軍は許さなかった。
「それゆえの、一掃です」
武器に罪はありますかね?それを作る人達に、罪はありますかね?
そう言いながらツキノ屋は目的地の岬にやって来た。先端に白い朽ち果てた十字架が立てられていた。
その前に座り、花束を添えしばし無言で彼は手を合わせていた。
「わたしの妻です」
ようやく立ち上がって告げた一言がそれだった。
「ここはわたしの故郷です。今ではほとんど移民が移り住んで、違う島になってしまいましたが」
あれは人災でしたと、その場に座ってツキノ屋は呟いた。
彼女はここで花を育てる母親を手伝いながら、父の元で刀鍛冶を学んでいました。それ故に軍の討伐対象に入っていました。
「何度も助命嘆願を入れたのですが、聞き入れられることはありませんでした。わたしは待機していた船を飛び出して、ここにやって来ました」
百合の花が咲いていた、島の特産品だと言っていたがそれは昔から変わらず咲いているという。
「わたしはここで軍を辞めました」
その後は、気の向くままに色んな海を見て回ったんです。
「復讐する気はなかったのか?」
「約束していましたからね、妻と。世界中の海を見て帰って来ると」
なので見れるだけの世界を見ました、彼は墓と海を眺めながら言った。
「でもわたしの故郷は。生まれた街も人も、どこにも、もう残っていません」
ここだけが変わりませんと、彼は遠くを見つめ続ける。
「ドクター・カルディア。ベポのことを頼みます」
「任せろ、あいつはウチの立派な船員に育てる」
岬の端にある体が、ふいに力に満ちてくるのを感じた。
それと同時に、ああ今かとも思ったので、手に提げていた鞄を降ろした。黙ってこちらを振り返ると、どちらの腕を差し出せばよろしいでしょうか?と静かに聞いた。
「右腕でいい。気を楽にしておけ、感じるのは針の痛みくらいだ。眠りに落ちるよりも楽に逝ける」
「そうですか」
申し訳ありませんが、この下に埋めてもらえますか?
そうたずねた老人にお安いご用だと返す。
「埋葬料は、取らないんですね」
「俺は葬儀屋じゃないからな、そういうものの相場は知らない。それに、埋めるだけなら誰でもできる」
それとも祈りの言葉が必要かと問いかければ、いりませんと彼は笑って言った。
「わたしの妻も、ただ埋めてやっただけですから」
同じでいいですと、ツキノ屋は笑った。
「ありがとうございました」
薬品の入った注射器を取り出し、針をセットする。覚悟はとうにできているのか、満足したのか、その顔はやけに穏やかだった。
「おやすみ、ツキノ屋」
こうして笑って死んでいく人間が、どうにも俺は苦手だ。
伝電虫でペンギンを呼び、岬の上に穴を掘った。
用意のいい事に、どこからか人が入りそうな大きさの木箱を抱えてシャチを連れてやって来た。湿っぽくなるから、連れてくるなと言いたかったが、こいつしか手が空いてる奴がいなかったのだと、先に釘を打たれた。たぶん嘘だろう、こいつが一緒に行くとついて来たのだと思う。
箱の上に乗っていたベポは、目にしたツキノ屋が死んでいることを察知したらしい。そこは子供でも動物なんだと思った、人の子供はこういう時にきょとんとしている。死を認識できる歳がいくつなのか、はっきり比べたことはない。
自分はどうだっただろう、生命活動が止まる状態を認識していたのはいくつだ?不思議に思ってカエルを解剖した時に、父さんから感謝を述べなさいと言われたのは記憶している。
勉強のために、死んでからも手を貸してくれたのだから、ありがとうと言いなさい。
あれを勉強だと教えてくれた父さんは、理解のある人だったんだろう。不気味だと言われたことも多かったのに。
人の死体は、もう見飽きてしまった。
ほとんどの者は喋らなかった、時折シャチが鼻をすする音が聞こえただけで、静かな中にツキノ屋の遺体は埋葬された。
埋め終わった墓の上に、ベポが近くに生えてきた花を添えた。埋葬の仕方をどこかで覚えてきたらしい。
「ベポ、海にも花を投げてやれ」
それが船乗りの埋葬方法だと教えてやると、彼はアイと答えて白い花を海に投げ入れた。
「ドクターしろ、かなしい?」
「ああ、悲しい色だ」
お別れの色だと教えてやれば、アイと小さく言った。
「でも、大事な色だ」
頭を撫でてやれば、小熊はぐしっと前足で顔をぬぐった。
お昼寝しようと言う声に誘われて、晴天の下、白いシーツがはためくのを見ながら横になったベポの腹を枕にしていた。
大きくなったもんだと、しみじみと思う。
約束通り、立派な船員にできたろうか?
そう思いながら目を閉じると、陽の光を透かして赤い血のが見えた。
生きているのかと思った、まだ。
こんな風に、あなたがそばに居てくれたら本当は嬉しかった。なにもしないでいいから、そばに居てくれれば。
そう思うのは、俺だけだろうか?あなたはもう、俺になんて会いたくない?
「船長、寝るならちゃんとベッドで寝たらいいんじゃないですか?」
目を開けると、ペンギンが俺を見下ろしていた。
「寝るつもりはない、休憩だ」
「甲板の掃除をしたいんですが」
休憩するなら中でと告げる相手に、ならベポに言ってくれと言って立ちあがった。
「船長、島が見えますよ!」
嬉しそうにこちらへ飛んで来たシャチにどんな島だとたずねる。
「平和そうな島ですよ!なんか白い花の畑が広がってます」
「白か……」
その呟きにしまったという顔をしたシャチに、寄ろうと言ってその頭を撫でた。
「久方ぶりに、ツキノ屋をしのぶぞ」
その言葉にベポが耳を少し動かして反応した。
ツキノさんは「ツキノワグマ」から名前をいただきました。
たまに突然変異で白いツキノワグマが見つかるそうで、それいいなあて気分でした。
ベポがなんで航海士なのかなーと思いつつ、こういう風に誰かから預かって航海士として日々勉強中してたらいいなあと思っています。
若干、地図の書き方が下手なのは、まだまだ勉強してるからだといいなってことです。
次回はジャンバールを出したいと考えております。
2015年1月18日 pixivより再掲