共犯者・6
髪を梳いてもらう、伸びてきたかなと聞くとそうやねと櫛を流しながら髪の束を手にする。
「そうやね、少し伸びたかも」
「やっぱり?切った方がいいよね」
あんまり長いとだらしなく見えちゃうしと言うと、なら切ってあげようかと彼は言う。
「え、あなたが切るの?」
「しゃあないやん、きみにハサミ持たせるわけにいかんやろ」
それはそうなんだけど、人に切ってもらうのって緊張するから苦手なんだよね。
あの慣れない感覚をどう説明しようかなって思ってたら、髪を梳いていく彼はくっと少し後ろに髪を引っ張る。痛いよと文句を言って振り返れば、ちょっと不機嫌そうな彼がこちらを見ていた。
「レジスタンスではどうしてたん?まさか自分で切ってたわけちゃうやろ」
「前髪とかは自分でやってたよ、後ろは仲間にしてもらってたんだけど」
そういう細かい作業、得意な人がいたから全部任せてたんだった。ちゃんとそういう仕事の人に依頼した方がいいぞ、なんて何度も言われてたんだけど。
「ちゃんとしてないと、高貴じゃないって怒られるから」
「細かいなあ。でも、伸ばしてみるのもいいかもしれんよ?」
きみ結構、綺麗な色してるんやしと言う相手に、そんなこと言われても慣れてないからなと困った声で返す。そりゃゴーストさんみたいに柔らかい髪なら伸ばした時に綺麗かもしれないけど、俺の髪って硬いし、伸ばしても微妙な気がするんだけど。
「そうかな、いいと思うで?実際、今の髪もそんなに悪くないし」
伸びてきた髪を梳いていきながらもうちょっと時間かけて伸ばしたら、結べるようになるかもねと言う。
「後ろで結んだり。ほら、日本の髪留めあるやん?ああいうの似合うんちゃう?」
「そういうの女の人が似合うだろうけど、俺なんて」
「そんなこと言わんと。ちょっと待って」
えっとなと彼が取り出してきたのは、真珠の付いた髪留めで。少し鬱陶しくなってきていた髪を慣れた手つきでまとめて留める。
切るのとはまた違う、なんだかくすぐったい感じがして顔をそらそうとするけれど、鏡を置かれてほらちゃんと見てみてとうながされ、拒否しにくい。
ちょっと赤くなった自分の顔と、上の方でまとめられた髪と飾られた真珠の飾りを見つめて、ううっと声を上げる。
「ええやん、似合ってるで」
「そ、そうかな?」
髪を引っ張られる感じが慣れなくて、それ以上にもう恥ずかしくてうーんと首をひねる。綺麗に留められたそれは、繊細な作りだし自分には浮いてる気がするし。
「これ、ゴーストさんの?」
「そうやで。髪が鬱陶しくなった時とか、あとはお偉いさんのとこ行く時に、ちょっとでも綺麗にしておいた方がいい時とかに使うの」
「それ、高いんじゃ」
「別に高いもんちゃうよ。つか、それ買ったのはいいけど、ワイ髪が白すぎてイマイチ合わんかったんよ、きみにあげるわ」
「え、もらっても困るんだけど」
俺じゃまとめられないし。
「簡単やよ、きみでもできる」
つか自分、むっちゃ器用やしどうにかできるやろと言う相手に、そうかなと自信なく返す。
「まあできなかったら、ワイがいつもやってあげるわ。あ、待ってその方が楽しいかも」
その方が楽しいから、やっぱ覚えんでええわと話を進めていくけれどやっぱ慣れないから、切りたいんだけどと告げると、なら鬱陶しいところだけ切ってあげるわと言う。
「前髪のとこ切って、あと少し横と後ろを整えたる」
それでいい?と聞かれて、うんと返す。
でも髪を飾るのはほぼ決定だったみたいで、それから彼はいくつか髪留めを買ってきて俺の髪を触っていた。その指の感覚とか、優しくてくすぐったくてあんまり得意じゃないんだけど。そう言っても笑顔に負けちゃって、結局好きにさせたままになっちゃったんだけど。
自分の手元にある少し歪な形をした折り鶴を見て、溜息混じりの声を上げる。
「自分、やっぱめっちゃ器用やん」
「そんなことないよ?初めての割にすぐ折れたし」
ちょっと気をつければすぐにできるようになるんじゃないかな、そんなことを言っても信じてもらえなかった。
ずっと俺が折ってるから、それ楽しいのって聞かれて。教えてあげたんだけど、思い通りにいかないのが物を作る時の楽しみだよと言う。
「思い通りにいかんことがね。まあそうかもな」
そういばゴーストさんは開発途中で断念されちゃったんだっけ。嫌なことを思い出させちゃったかもしれないと、うつむきがちに謝れば、そういう気遣い別にええからと俺の頭を撫でた。
「全部過去のことやん。終わったことはどうしようもないし」
「そうは言ってもさ、悲しくなることってあるでしょ?」
思い出して胸が痛むこと、それはきっと自分が嫌だったこと、苦しかったことの証なんだよね。
どうしてかそういう思い出ばかり、頭から離れてくれないものだったりする。
「そんなこと言うってことは、きみには忘れたいことがあるんやね?」
「別に……誰にだってそれくらい、あるんじゃないかな」
俺一人の問題じゃないんだ、きっと。苦しんでる人なんてそれこそ沢山いるんだろうし、誰かはもっと苦しい思いをしてるのかもしれないし。
「でもきみの痛みはきみのものや」
他の誰かのものではない、きみ自身にしかわからんもの。
そう言うと、俺の後ろに立つとぎゅっと強く抱き締められた。
「それは誰にでもあることやって、みんな同じように苦しんでるって、誰かに知った顔でわかるとか言われたくないわ」
励ましてるつもりなんかもしれんけどさ、ようはおまえの悩みなんか些細なことって痛いって言うてるのん無視してるだけやん。そうちゃう?
「人の痛みをわかったふりする、無神経な奴は嫌いや。どたま撃ち抜きたくなる」
「そこまで、しなくてもいいんじゃないかな?」
「それくらい嫌いってこと。せやから、きみの痛みがわかるなんて言ってあげられへん、でもな、苦しんでるんなら全部吐き出してや?どこが痛いって、ちゃんと教えて」
抱き締める力が強くなる。相変わらず、彼は心配しているんだろう。俺が自分のことをまた傷つけるんじゃないかって。
そうすることは同時に彼を酷く痛めつけることなんだ、っていうのは俺でも流石にわかった。でなきゃこんなに悲しい声で、懇願するように言ったりはしないだろう。血を洗う時も、傷の治りを確かめる時も、まるで自分が傷ついたかのように痛々しい顔をしていた。
あんな顔をさせるのは、嫌だなって思う。
「誰にも理解してもらえないって思ってる痛みが、あるんだよね?」
優しくされても傷つくと吐き出した夜を思い出して、強く抱き締める腕に手で触れる。
「それに少しでも触れてしまったなら教えてね?何もできないかもしれないけど」
一緒にいることくらいしかできないけど。それでもいいんなら、気が済むまで一緒にいるから。そう伝えると、きみは甘ちゃんやわと背後で苦笑したのがわかった。
「ワイだけに優しくしてくれればええのに」
「今は、あなたくらいしか優しくできる人はいないよ?」
「そうじゃなくて。ま、ええか」
この間作ってた羽で繋がってた鶴、もっかい見たいとリクエストされて、わかったと応える。折り辛いから隣に座ってもらって、三つに切り分けたから鶴を折っていく。
前にもこうして、誰かにせがまれて折ったような気がする。あれは誰だったんだっけ。思い出そうとするけれど、なんだかうまくいかない。そんなに遠い思い出じゃないはずなのに、カーテン越しに窓を眺めてるような、そんな暗いベールに包まれていて顔も、姿も思い出せない。
「あっ」
考え事をしていたせいか、手元が狂って一羽切り離してしまった。ごめんねと謝ったけれど、これはこれでいいんちゃうと彼は言う。
「二羽で手を繋いでるみたいやん」
にしてもよう綺麗にできるもんやねと感心してる彼の傍で、俺は苦笑した。
同じように喜んでくれた顔を知ってる気がするんだけど、どうしてかそれが誰なのかわからないんだ。俺がすることで喜んでくれる人なんて中々いないから、普通は覚えているはずなのに。
あなた以外の笑顔がなんだか思い出せないんだよ、ゴーストさん。
自分の心がわからない。
そりゃ、見えるものじゃないから、いつだって把握できているわけじゃないけど。でも、わからない。
ゴーストさんと一緒にいる時は凄く穏やかで、普通に話もできる。でも触られるとダメだ。前までは気恥ずかしいとか思ってて、それも少しは慣れたんだけど、今は違う。触れられるとビックリする、心臓がウルサイくらい鳴るし、少し体温が上がる。でも離れられると寂しくて、自分の手を伸ばして求めたりした。
彼が任務で外にいると、ぼうっとして頭が働いていないような、体に穴が開いたような感じがしてどうにも落ち着かない。居たらそれはそれで、頭が騒がしくて落ち着かないというのに。
ゴーストさんは眩しい人だ。だけどなんというか、焼きつくような輝きじゃなくて、月のように静かで、でも全身を包み込むような光というのかな。とにかくそういう人。
煙草の煙を吐き出し見上げる月についつい重ねてしまうので、また溜息が増える。
今日は夜遅くまで帰れないから、先に寝てていいよって言われたんだけど、律儀に起きてる。というか、眠れないから起きているしかなくて、暇な時間を誤魔化すように煙をくゆらせている。
どこかでピアノが鳴っている、遠くから響く音に耳を澄ましていると廊下を歩いて来る足音がした。できるだけ音を立てないように気をつけている、それがドアの前で止まって振り返るとドアが開いた。
「おかえりさない」
「ただいま。また起きてたん?」
寝てていいっていつも言うのにとガスマスクを外して苦笑する彼に、眠れないからと告げて、吸いかけの煙草を捨てようとしたら勿体ないから最後まで吸いやと制止の声が入る。
「もういいよ、寝ようかなって考えてたし」
「なら早く寝ればええやん。ワイのこと待ってなくても」
そう言って窓際に座る俺の傍へ来ると、なに考えてたんとたずねる。
「眠れないんじゃなくて、眠りたくないんやろ」
「なんで?」
「きみは嘘が下手って、前に言うたよな?なにか悩んでるんやろ」
聞かせてと続ける彼に、なんて言えばいいのか自分でもわからないんだと返す。嘘でも誤魔化しでもなく本当になんて話せばいいのかわからない。
それでもいいから話してみせてと彼は言う。
「でも……」
「苦しんでることは話せば楽になる、きみが言うたんやで?それに、きみの痛みはきみだけのものや」
まあ、無理には言わんよ。少しお茶でも飲もうやと彼はいつもの棚から厚手のマグとティーパックを取り出して、お湯を沸かす。二人分のハーブティーの甘い草の香りが漂う頃、あのねと彼に声をかけた。
「俺、ちょっとおかしいなって、最近、思うことがあって」
「うん、どういうとこ?」
なんて言おうか迷う俺の前にマグを置いて、ゆっくりでええからと微笑む。
温かいお茶を一口いただいて息を吐く。
「前に言ったよね?レジスタンスのみんなの夢を、見るって」
「また、なんか恐い夢でも見た?」
「えっとね、夢は見るんだけど。人の声、とか、顔とか、上手く思い出せなくて」
色んな人がつぎはぎに混ざり合っているというか、この人だってわからない時がある。声や顔、話し方が一致しなくて、おかしいなって首を傾げることが増えて。起きてからこんな人だったっけと、記憶を辿ってもなんだかはっきりしない。
マスターのことはわかる。それに貴銃士のみんなはなんとか記憶を辿って、こういう人だって改めて思い出せるんだけど。
「毎日、少しずつ思い出せな人が増えてる気がする。自分がそこにいたんだって、核心がないというか、なんだろう。誰か別人のことみたいに、感じて。おかしいよね?」
「そんなに頻繁に会う人じゃなかったってことちゃう?記憶って、それこそ形ないもんやし」
「でも、もっと昔のことは覚えてるんだ。江戸の町のこととか、元の持ち主のこととか……暗殺とか、人を殺した時のこと、とか」
なんで最近の記憶だけと呟くと、だから形のないものって言うたやんと俺の頭を撫でて言う。
「辛いこと、思い出したくないこと、そういうことに対して苦しまんようにっていう体の反応やわ。それだけきみにとって忘れたいものがあるんやろ」
「どうしたらいいの、かな?」
「ワイとしては『忘れてしまいや』としか言えんな。きみが苦しむ顔は見たくない、ましてや、傷つけるようなことはもうしてほしくないし」
手の傷があったところを指でなぞる。もう跡形なく消えたそこを、無意識の内に自分で傷付けてえぐったのはもう二週間は前のことだ。
そういえば、その前後から更に強まった気がする。思い出せなくなることが増えてきて。
「きみにとってあのメッセージは、それだけ衝撃が強かったってこやね」
「あ……ごめんなさい」
「別に、終わったことやし。それより、今のきみが大事やん」
今の俺と言われても、そう呟いたところで、いつまでもどこか遠くばっか見てられても困るんよと指を絡めて手を握る。
「心ここにあらずっていうのは、寂しいやん?」
「別に、そんなつもりじゃないんだけど」
目の前まで迫っていた彼の綺麗な顔を見て、やっぱり目を伏せる。こんな間近で見ると、ますます眩しいなって思う。
「きみの方が眩しいんやけどな」
「そんなこと、ないから」
ありえないでしょ?俺なんかが。
「眩しいよ、充分に」
こてんと俺の肩に頭を乗せるゴーストさんに、どうしたのか聞くとちょっと疲れが出たとこぼす。ならもう寝ようとマグを置いてベッドへ促すと、きみもと手を差し伸べられる。
「一人寝は嫌やよ」
「うん、俺も。だからあなたのこと待ってるんだ」
ふっと息を零して笑うと俺の手を引いてベッドに雪崩れこむ。後ろから腕を回されて、ぎゅっと強く抱き締められるとようやく生きてるんだって、そう思えた。
顔のわからない誰か、声の聞こえない誰か。人の影がたくさん取り囲んで何かを言う。
多分、あれは仲間だった人。裏切り者だ、恥晒しだって何度も繰り返して言われているから、大体の発言はわかってるんだけど。声が遠い、無線を挟んだみたいに、ざらざらした雑音が混じる。
最後にはそれは意味のなさない機械信号になって、カチカチと飛び回るだけ。
抗議したいのか、怒っているのか、はっきりしとしないけどとりあえず文句があるのはわかってるんだけど。じゃあ俺はどうしたらいい?
涙目になる視界を、ふいに黒い靄が覆った。頭の上からしっかりと被せられた薄織の布に遮られて、影が一つ二つ消えていく。
そうしている間に誰もいなくなってしまった。それでいいのか悪いのか、わからないけれど、ほっとした自分がいるのは確か。
目立つ場所には居たくない、後ろ指を差されるのがわかっているから。おかしな奴だってひそひそ語られるのは、慣れてるけど、でも傷つかないわけじゃないんだ。
この中にいれば、そんな人達はもう見なくていい?誰の声も入ってこない?
奇特な視線も、噂話も、誰かの期待も羨望も、軽蔑や侮蔑も全部、全部感じなくてもいいのかな。
それならずっとここにいようか。
でも、それじゃあ彼の声も届かないんじゃないかな。それは嫌だ。
嫌だ、嫌だよゴーストさん。
ゴーストさんどこ?どこにいるの、俺、嫌だよ。このまま、あなたのことまで忘れたくないよ。
目の前を覆う黒はどんどん深くなる、自分の体も何も見えなくなるくらい強く、濃くなっていって、あらがえそうにない。
なんだろう変だ、すごくおかしいっていうのはわかる。夢だからとか、そういうことじゃなくて。
「あなた近づきすぎたのよ、行ってはいけない方に」
誰かがそう囁いた、姿の見えないその声はなんだか馴染がある声で。
「共犯になることを認めてしまった、その時点でもうあなたは罪人」
「それは美しい罪だけれども、我々が認めるわけにはいかないもの」
どうしましょうかと囁き合うその声に、どうしたらいいのと聞き返す。
「あなたはもう捕らわれている。体ではなく、心の方が」
「そして解放を望んでもいない、ならばもう救う術などありません」
「あとは堕落していくだけです。より深く、遠く、手の届かない場所まで」
待って、そんな所へ行きたくないよ。一人でいたくないんだ。
そんな情けない俺の声に、一人でないならよいのですかと相手はたずねる。
「共に堕ちる相手がいるならば、あなたはそこへ行くのですか」
一人じゃないなら、誰がいるの。
「あなたの望む人がいます」
「あなたと罪を共にする人がいます」
「あなたは、そこにいきますか。彼を一人にしないと誓いますか」
それは、それなら?
「やはり、あなたは救われない」
「闇の底から伸びる手に捕まえられたまま、光ある場所へ行こうなんて無理な話ですもの」
「あなたはもう、こちら側には戻って来れない」
高貴であったあなたはもういない。
もう誰の声も聞こえないでしょう、誰のこともわからないでしょう。
時間が経つほどにあなたは全て、忘れていく。
堕ちるあなたが苦しまないように。罪を重ねるあなたが、それでも幸福でいられるように。
我々からの最後の加護です。
「待って!」
叫んだその声に驚いて目を覚ますと、同じように驚いて目覚めた相手がこちらをうかがっていた。
「どうしたん?えらいうなされてたけど」
「あ、うう」
震える手で彼のシャツを握れば、その上に手を重ねて大丈夫と囁きかけてくれる。
「忘れたくない」
「どうしたん?」
「夢で、違うかな。あの、俺」
震える体を抱き締めて大丈夫と何度も言ってくれる。やめてよ、優しくしないで。
「俺、やっぱりおかしくなる」
「なに言うてんの?」
また悪い夢のせいやって落ち着きと背中を撫でてくれる相手に、違うんだって首を振る。
「違うんだ!俺、やっぱり見放されて、もう、帰れないって」
「落ち着きキセルくん、ちょっとほんまに落ち着いて」
「どこにも帰れないって。もう、どこにも……全部、忘れちゃうって」
「キセルくん、キセルくん、ほんまに一回落ち着き!ええか、ほらまず深呼吸」
両肩をしっかり掴まれて、ほらとうながしてくる相手に浅くなった息をゆっくり長めに吐き出す。それを何度か繰り返して、落ち着いたと聞かれて小さく頷く。
「また恐い夢見たんやろ?それなら大丈夫、もう覚めたから」
「ううん、違う。夢じゃないよ。恐い夢だったけど、あれは続くんだ」
忘れさせられる、全部、全部、なにもかも消されて、わからなくなっていくんだ。
「どうしよう、どうしたらいい?ねえ、ゴーストさん」
忘れたくない、あなたのことまで忘れたら俺は。
「ちょっと何言うてんの?」
何か言われた?何かされた?わかるところからでいいから、話してみて。
それから何を話したのか、混乱した頭と口で、そもそも言葉になっていたのかも怪しいんだけれど。とにかく、わかったことを彼に向って一つずつ話していった。
貴銃士を守る妖精とその人から見放されたであろうこと。俺がもう苦しまなくていいように、罪を重ねなくてもいいように、記憶を消すって言われたこと。
ただの夢だって笑い飛ばされるかもしれない。でも、本当に俺はなにもわからなくなっていってる。頭の中にかけられた布で、記憶がどんどん消されていくような、見えるはずのものが見えなくなっていくような、そんな感じ。
自分が誰なのかはっきりしない。目覚めて今まで何をしてきたのか、実感できない。宙に浮いたような感覚。どこにも俺なんていなかったんじゃないかって。
「大丈夫、きみはここにいる」
微笑んで頭を撫でてくれる優しい手に、うんうんと頷くけど、でもと返す。
「だけど……だけど、俺は。俺が、俺でなくなるかも」
「もし本当に忘れてしまうんなら、それはもう振り返りな。きみはここにいる、今ここに居ることを、これからも続けていく。それじゃあかん?」
「嫌だよ、だって恐い」
恐い、嫌だをずっと繰り返す。死とか破壊とかそういうものへの恐さじゃない、自分が何か別の物になっていくことが恐い。
なにより、ゴーストさんを忘れてしまうかもしれないのは嫌だ。
「ワイを忘れること?」
「忘れたくないよ、だって、だって……」
だってなんだ、言葉が続かない。涙が滲む目をこすると、無理せんでええからと彼は優しく声をかけてくれた。
「もう寝たくないよ、今日はもう」
眠るのが恐いとぐずる俺の背中を撫でて、そうか、そうかと俺の呟きに相鎚を返す。
「そんなに寝たくない?なら、このまま一緒に出かけようか」
背中から手を離し、両手を握りしめて彼は言う。
「どこへ?」
「どこか、起きてたいんやろ?」
そう言うと腕と足の枷を外して、呆然とそれを見つめる俺を置きざりに部屋のクローゼットから洋服と帽子、使っていないガスマスクを手に戻る。
「とりあえず、これ被ってたら基地を抜けるのはいけるやろ」
「でも、危ないんじゃ」
俺、捕虜だよねと聞けばそうやでとなんてこともないように返される。
「今、枷もないよ?なんで逃げないって言い切れるの?」
「きみがどこにも行かんって信じてるから」
行こうと差し伸べられる手を取って、導かれるようにふわふわした足取りで外へ出た。
慣れないガスマスクの中だと、呼吸する音がやけに大きく聞こえて、それも怖くて。前を歩く彼の手をぎゅっと握りしめて、ほとんど足元ばっかり見ながら基地の中を通り過ぎた。
裏口らしいところから外へ出た時、自分の足が震えているのに気づく。
今この手を振り払えば逃げられるんじゃないかって、そう思うんだけど。実行に移す勇気が出ない。
簡単じゃないか、枷もない、今なら暗闇で闇雲に逃げてもきっとみつからない。そのはずなのに、体は動かない。
この人以外に、導いてくれる人はいない。自分の味方で居てくれる人はもう。
「キセルくん、もう大丈夫やって。顔上げてみ?」
この辺まで来たらもう誰もおらんからと言われても、怖くて俯いたままだった顔を指ですくって上へ向ける。
白い月が出ていた。大きな満月に照らされている、彼の髪やマスクや衣服からのぞく肌は透けるようになめらかで、本当に人じゃない何かみたいだ。
「どうかした?」
「ううん、ちょっとまだ、恐い、だけ」
もっと近くに行ってもいいかと聞けばどうぞと引き寄せられるので、隣に立って引いてくれている手を更に強く掴む。
「別に怖がらんでも、離れへんから」
腕を組んで更に手を繋いで、これで大丈夫?とたずねられて、少しだけ落ち着いた息をゆっくり吐いて、再び足元をぼんやり見つめながら引かれるままに歩いていく。
着慣れない黒いジャケット、肩が少し落ちたシャツ。俺が普段着ていた物とは違ったそれに、やっぱり慣れないなんて思っている間にどんどん暗闇の先を歩いて行く。
どこまで来たんだろう、わからないけど、ここらで休もうかと行って止まったところは少し開けた草原のような場所だった。これもう取ってもええよと手が伸びて、ガスマスクを外すのを手伝ってくれた。
「あの、ゴーストさんも取って?」
それ被ってると、落ち着かないんだと告げるとそうやねと、彼は慣れたように簡単に取り外す。見慣れたはずの顔も、月の光の下で見るとなんだか違って感じる。
城の中庭に連れ出してもらったのが、はるか昔の気がしてきた。
「何を考えてるん?」
そんな悲しそうな顔してと頰を撫でていく相手の指が暖かくて、手を伸ばしてその上に重ねる。
「周り見てみ?」
言われるままに周囲を見回してみると、白い花が咲いていた。凛とした姿が綺麗なそれは、俺も知ってる花。
「百合の季節、だったんだ」
「そう、日本でも咲いてるんやろ?」
元気になるかなって、目線を合わせて笑う相手に、ありがとうと小さな声で返す。
気づいてしまえば香り立つ花の強い匂い、懐かしいそれを胸いっぱいに吸いこんで息を吐く。ちゃんと呼吸できてるんだって、こうしているとわかる。
「ああ、ちょうどええわ。休憩しよ」
近くに設置された古ぼけたベンチに腰掛けて俺も隣に座る。上着のポケットから丸い缶を取り出すと、中から一粒赤い飴を取り出した。
「ほら、口開けて?」
言われた通り開けると、放り込まれたイチゴ味の甘い飴玉。香りの高いそれを転がしていると、気に入ってるんよこれと彼も一粒自分の口に入れた。
「果物の味がしっかりしてて、悪くないやろ?」
「うん、美味しい」
そっかと笑った吐息に、甘い香りが混じる。百合の強い芳香と相まって頭がくらくらしそうだ。
「どうかした?また顔色悪いけど」
「ううん、なんか。なんだろう?不思議だなって」
こうして何か食べていれば、しっかりと味がわかるし、香りだって感じてる。夏の夜に吹くひんやりした風の心地よさだって、しっかり感じ取っているのに。
その全てが、もしかしたら色を失って、何も感じない物へ戻ってしまうかも、って。元々俺は物なんだから、そんなの恐いことじゃないはずなのに。長年かけて、人とその感情に触れてきて、こうして今は肉体なんて持って、そのせいなんだろうか。本当だったらなかったはずの心が、感情が、自分の存在の異質さを浮き立たせてる。
罪を犯したら、罰を受けなきゃいけない。俺をここに呼んでくれた人を裏切ったなら、当たり前だよね。
俺はいつだって罪人なんだ、後ろ指を差されて生きてきた。それが今更嫌だなんて、虫のいい話じゃないか。
「それがきみの心の痛み、やね。でも忘れんといて、きみには共犯者がおるってこと」
そんな風にしてしもたのは、ワイやんか。きみを傷つけたくない、恐がらせたくないって言いながら、結局は自分のエゴで繫ぎ止めるなんて暴走して。結果きみは今、感じなくて良かった痛みをここに持ってる。
伸ばされた震える手が、胸の上に触れる。もう片方は頭に触れて撫でていく。
「ごめんなあ、許してもらえるとは思ってない。でも、きみに選択肢なんてなかったやん、最初から、全部、仕組んだのは自分や」
「謝らないでよ?本当なら、最後まで抵抗するか、それか、拒絶して壊れればよかったんだ」
でも、もう壊れていくのと同じかもしれない。なにもかも、忘れてしまうなら。
あなたとのことも、夢みたいにいつかわからなくなってしまうんだ。
目が熱くなって涙が溢れていく、それを優しく拭い取っていく指はやはり綺麗だ。そして、触れられてるってことを今はまだ感じていられるんだな、なんて思った。
「なあ前にきみを外に連れ出した日、あの時の花壇に咲いてた花の名前なんやったっけ?」
「ラナンキュラスって、言ってなかったっけ?」
「そうやったね。なあワイがきみ一人残して作戦に出た時、初めてお帰りって言ってくれたよな?」
「恐かったんだ、あなたが帰って来ないかもしれないって思うと。不安で眠れなくて、だから戻って来てくれたのがすごく嬉しかった。お守りなんて、ほとんど意味ないの、わかってたし」
「そんなことないで?嬉しかった、きみがワイに心を向けてくれてることが、ほんまに嬉しくて、何が何でも早く帰ってやろって思ってん。それに、えらい可愛いしいじらしいやん。最初こそ豪胆な兄ちゃんやと思ってたのに」
「サングラスかけてたら、自分が変われると思って。あなたと初めて会った時は、本当に先を急いでたし、下手に攻撃を受けて負傷するのは嫌で」
「なんや、覚えてるやんか」
あっと声を上げる、彼はただふわりと笑っただけだ。
忘れてしまったわけじゃないんだ、彼と過ごした時間はまだ心に残ってる。
見放されたって思った時も、許してくれた。裏切ったのに、それでも傍に居てほしいって言ってくれるのが嬉しくて、求めてもらえることが嬉しくて。
俺なんてもう、誰にも必用とされていないのに。あなただけは、欲しいって言ってくれるんだ。優しくしてくれる、甘えさせてくれるだから、溺れそうで恐いんだ。
溺れてしまったらもう何も考えられなくなりそうで、恐い。
「もしもきみが、これからもどんどん忘れていってしまうって考えてるなら。今思ってること、全部言って」
その方が後悔しなくて済むんちゃう?そんな言葉にうながされて、一つずつ声に出してみる。
「あなたと一緒にいたい」
「うん」
「どうなるかわからないけど、これからも俺のこと見捨てないでほしい」
「当たり前やん」
なんでそんなこと心配すんのと、俺の頭を撫でる。
だって当たり前がそうじゃなくなるかもしれないって、思ったら。
そう考えてしまったら、もうダメだ。
「ゴーストさん。あなたのことが好きなんだ」
できればずっとずっと好きでいたい。この感情を忘れたくない。そう叫ぶ俺に、彼は優しく笑いかける。
「忘れさせへんよ」
「でも」
「絶対に忘れさせへん。きみが毎日でもワイを好きになってくれるように、その心全部ワイがもらうから」
ずっとずっと傍におってな。
それで平気と聞かれて、首を縦に振ろうとした。でもできなかった。
「どうしたん?何か、他に望みがあるん?」
「いや、その、これはただの、我儘だから」
自分の心に巣食ってる、どうしようもない感情だ。誰かに寄りかかるのならば、それを許してくれるのならばと、ついつい望んでしまうこと。
これ以上は、もう迷惑をかけられない。
「今更すぎん?好きな子の我儘は大歓迎やで」
ほら教えてと額に口付けて、先を促される。ゆっくりと息を吐き出して、強い百合の香りと一緒に息を吸ってを繰り返す。
「できるなら」
できるなら、もしも本当にそれを望んでいいんなら。
「何?苦しまんでええよ、ほら教えて?」
両手で優しく頬を包まれる、その温かさに安心して涙がこぼれた。
「ねえゴーストさん。俺を愛して、ほしい。誰よりも俺のこと、愛して、ほしいな?」
それを聞いて目の前の人はふっと声を漏らして笑った。
「アホやなあほんまに、何言うんかと思ったら」
「え、あの」
「愛して欲しいって?そんなん喜んで。むしろ、溺れても知らんよ?」
強い力で抱き締められた、と思ったらそのままベンチに押し倒される。
覆いかぶさった彼の真上に、満点の星空を見た。月明かりに透けた白い髪、肌、その全てが爛々と輝いてこちらを見据えて。
「きみのこと愛してる」
熱い息と一緒に吐かれた言葉に、胸の穴が熱く甘く満たされていく。
「愛してる」
もう何度となく触れた唇でキスをする。彼の首に縋り付いて、抱き締めて、もっともっと、そばに居させてほしい。
溺れる程に熱く甘い、愛をちょうだい。
もしもそれでいいというのであれば、俺の愛も全て奪ってもいいから、どうか。
あいをくれ。
妖精の加護は仕組みがどうあれ、帝軍に堕ちる=屈服するのは高貴じゃない判断されそうですよね。
妖精は精神攻撃しそうだなって。
さて次回、二人で結婚式させたらいったん終わろうかと思います。間に合え6月。
この二人の新婚生活とか、キセルくん攫われた当時のレジスタンスとかも書きたいんですが……その前に現パロとかやりたいです。
バンドものを、書きたいです。
ベーシストのキセルくんが見たいんです。
2018年6月26日 pixivより再掲