共犯者・4

まだ耳慣れていない言葉を話す。何度も繰り返して練習したけど、それでも意味は合ってるのか、発音は大丈夫なのか、不安で声が震えて、でも目の前の人はふんふんと頷きながら手元のページから顔を上げない。
「自分、結構うまいやん」
たった十日程でここまで覚えられたんや、才能あるでと言われてようやく一息吐く。
「そうかな?難しいし、これで正しいのか、よくわからないんだけど」
「言葉なんて通じれば問題ないやろ。別に覚えんかったって、今の生活に支障はない」
でも上手なのはほんまやよと俺の頭を撫でる。目の前にあるのは、どこかでみつけてきたらしいドイツ語の教本だ。
教えてくれるって言う彼について少しずつ、声に出して読んでみている。外国の言葉を覚えるのはこれが初めてだから、右も左もわからないんだけど、間違えても少しずつわかればそれでええやんと彼は言う。
幕府の交易上オランダ語通訳者がいるっていうのは知ってたけど、あんな所で勉強してた人はこんな感じだったのかな。自分とは遠い場所の人たちだったから、どんなだったか、あんまり記憶にないんだけど。
「んじゃ、頑張ったしちょっと休憩しよ?」
そう言うと戸棚からティーポットと紅茶を取り出す。コーヒーやビールが盛んに消費される国だって聞いたんだけど、彼は紅茶の方が好きらしい。

「飲めんことはないよ、けどさ……苦いやん」
理由を聞いたらそう返ってきた。確かに苦いし、自分もそこまで好きなわけじゃないから、それはいいんだけど。
「ああでも、ケーキとかお菓子に使われてるのは平気やよ」
まあ保存に気をつけるか、買って来たらすぐに手を付けんと勝手に食われてんやけどねと、苦々しい口調で言ってた。また仲間に冷蔵庫に入れてたプリンを食べられたとか。
なんだか、それを聞くと平和なんだなって思ってしまう。作戦に出て、銃を撃つ彼も俺も本当にいるのかななんて思ったり。
そんなわけないって、わかってるんだけど。

「今日のは大丈夫だったんだ」
「まあな。買ってそのまま部屋まで来たし」
茶色い紙の包みからお皿へと中身を移していく相手の手元を覗き見ると、小さい花のような形をした物が並べられていた。
「これは?」
「カヌレっていうフランスの焼き菓子なんやけど、評判いい店が町にできてな」
それまで話題にもならんかった地味なお菓子が突然、女の子に人気とか言われ出すの不思議やわ、なんでなんやろうなと首を傾げる彼に、そっかと返す。
「味見してみる?」
「え、いや、いいよ」
お茶淹れてるんでしょと返すけど、どうせ食べるんなら一緒と引かない。
「ほら、口開けて」
指で一つ摘まんで差し出されたケーキを前に、どうしようと迷ったけど、こうなったら絶対に引いてくれないのも知ってるから、諦めて一口いただく。パリッとした表面の感触に反して、中はふわっとしていて甘い。
「ん、美味しい」
「そう?ならよかった」
なんか味も色々出てたけど、あんま冒険するのもなと思ってと言うと、俺の食べかけだった残りを自分の口の中へ放り投げる。
「ああ、確かに評判なだけあって、美味しいわ」
別に食べかけをどうしようがいいんだけど。いや、うん、いいんだけど、なんだかちょっと恥ずかしい。
「自分さ。結構、人にいじられるタイプやろ?」
「えっ、ええ、なんで?」
「反応が可愛いから」
「う、そんなこと言うの、あなたくらいだよ?」
嘘やと笑うので本当だってと返すと、それならそれでもええわと頭を撫でて言う。
「ワイだけが知ってるっていうんなら、それも気分ええし」
準備できたしお茶にしよ?と声をかける相手に、怒る気も削げてテーブルに着く。
いい香りのお茶に甘いケーキがすごく合って美味しい。とっておきのアールグレイやよと言う相手に、紅茶も色々あるよねと返す。
彼にもこだわりがあるみたいで、茶葉はいつも数種類をストックしてあるのは知ってる。味の違いとか、わかるようになってきたのは最近だけど。どれも美味しいなと思う。
「自分一人だけならここまでせんよ、きみがおるからね」
自由にさせてあげられへん分、少しでも喜んでほしいんよ。
「あの、本当に気を使わなくていいんだよ?無理、させたくもないし」
「そんなこと言わんと、もうちょっと贅沢言ってもいいんやで」
「今も、充分すぎるくらい、贅沢してるから。俺からお願いなんて、そんな」
「謙虚やねえ。らしいっちゃらしいけどさ、でも」
今は少しでも我儘言って欲しい気分なんよと相手は苦笑する。
どうしてと聞くと、大きな溜息を吐いてしばらく、思い切ったように言った。
「またな、しばらく長期で作戦に行かなあかんねん」
「あ、そっか。そうなんだ」
一週間から二週間は下手したら帰って来られへんかもと続ける相手に、そんなにと小声で呟く。

そういえば、レジスタンスだけじゃなくて世界帝軍の支配に逆らってる国や地域も、まだいくつかあるんだよね。作戦って言っても色々あるわけだし、ね。

「きみと話がでけへん、顔も見られへんって思うと、どうにもやる気なくて。でもな、そうとも言ってられへんし」
仕事はちゃんと果たすつもりやけどさと言う彼を前に、なんと言っていいかわからず、ただ黙りこむ。
「きみを一人にしておくのも、心配やし」
「俺は大丈夫だよ?」
「前、まともに寝られへんかった奴の言うことちゃうで」
でもなあ、流石にトランシーバーを持ち出すわけにはいかんし、てか電波届かんわなと諦めたように言う相手を前に、あることを思い出して、ものは試しと指先で机を叩く。
トントンツー、トントン、と覚えている音を何度かなぞれば、それに気づいたようにはっとした顔でこちらを見て、すぐに笑いかける。
同じく机を指で叩いて返してくれる音に、心地よく耳を傾け、それに返事をすれば。へえと感心したように笑って、また指先で返事を打ってくれる。硬い音と振動に手を触れて目を閉じて感じ取っていると、机からテーブルに乗せた俺の手の先へ触れられた。ビックリして目を開けると、悪戯っぽく笑う。
「随分と旧式な方法やん、つっても自分がおった時代には主流ちゃうやろ?よう知ってたな」
「レジスタンスで教えてもらったんだよ、何かあった時のためにって」
例えば戦場でどうしても口を開いて話せないような状況や、なんらかの問題に巻き込まれた時に、仲間同士で連絡を取るために教えてもらった。モールス信号の符号は万国共通だって聞いたけど、本当にちゃんと通じるみたいだ。
そうしているとまた彼は俺の掌へトントンと信号を打つ。その意味を解読してくすぐったくなって、やめてよと赤くなって返せば、やっぱ可愛いわと喉を鳴らして笑う。
「でもま、それなら話は別やね。きみでも使える機械くらいあると思うわ。用意したる」
これで会話できるってわけや、と彼は嬉しそうに言う。
「直接の声は、無理だけど。でも、少しは気分がまぎれるかなって」
「充分な。本当は連れていきたいくらいなんやけど、そっちのが無理やろうし」
その分、いい子にしててなと言う彼にうんと頷き返す。
おかしくなかったよねと心の中で問い返す。上機嫌にお茶を飲む彼の様子から、大丈夫そうっていうのはわかるんだけど不安で仕方ない。

次の日にはもう、信号の送受信ができる通信機械を用意してくれていた。机に置かれたボタンの並んだ機械に電源を入れて、手気際よく設定していく相手の手元を見る。
「面白い?」
「あ、ごめん。レジスタンスだと、もっと大きいのだったから」 「確かに、旧式の機械はもっとデカイやろな」 軍用でかなり小型化が進んでいるみたいで、持ち歩き用の受信機なんて鞄に入る大きさなんだって。本当にビックリした。 使い方を教えてもらっいながら、ヘッドホンを付けてテスト通信を行ってみると問題なくゴーストさんの手元にある機械と交信できている。基地にあったのは中古の少し錆びた音がしたけど、こちらはそんなこともなく、すごく綺麗に聞こえる。これなら大丈夫そうと、一人で触ってみていると、また彼が手元の機会を使って何か打ってきた。 通信音を聞きながら、意味を理解して、そういうの恥ずかしいから、もういいよと返すとそうはいかんやんと笑う。 「長すぎる言葉は送られへんねんよ。そもそも通信できる時間も限られるやろし」 だから送りたい言葉は短く、簡潔にと続ける相手にそんなことわかってるとぼそぼそと呟く。
「わかってる。ゴーストさんの、都合のいい時でいいから」
「嫌や、きみからもなんか送って?これちゃんと受信した記録も残るようにできてるし」
ええやろと問いかけられて、バレないようにならと返す。
「別に、きみにこれ渡すのは許可取ってるで?」
「あの、聞かれたくないんだ、何打ってるか、わかる人いるってこと、だよね?」
確かに兵士ならおるかもしれんけどと続けるので、なら人がいない時にと返す。
「絶対やで?」
「うん」
「待ってるで?」
「うん」
嬉しいわと笑って俺を後ろから抱き締める相手の手に触れて、心の中でごめんねと呟く。
あなたの甘さにつけこんで、ごめんね。
「あの、作戦、頑張ってね?」
「勿論。きみのためにも頑張るわ」
ごめんね。ごめんなさい、ゴーストさん。

レジスタンスの使う通信用の信号は、相手にバレないようにって不定期に変えている。とはいえ、使える電波には限りがあるから、上手く乗ることができれば、基地に連絡が届くかもしれない。
一筋の希望を抱いて、ゴーストさんが作戦に出た翌日から必死の捜索が始まった。今日使う電波の数値がどれかもわからないから、とにかく手当たり次第、使っていた番号を思い出してはメッセージを送る。
そもそも電波とか届くのかって疑問もあるけど、これ軍用ので精度はかなり高いって言ってたし、広範囲でも大丈夫なはず。問題はその日使っている電波を見つけられるか。
どうかお願いだから届いて、そう願いながら何度も送る。周波数を変え、繋がるかどうかわからないレジスタンスへ向けて、記憶している通信用の合言葉を。
ごめんなさいと何度も心の中で謝った。でも、どうしても迷いは断ち切れない。マスターやみんながどうしているか、気になるんだ。
見張りが特にいないことが功をそうして、食事や着替えを持ってくる兵士がいない間はずっと機械にかじりつくように探し続けた。
何日もかけて、何度も通信を試してみたけど、すれ違ってばかりでどうしても基地に繋がった感覚はない。縋るような思いで手元の機械を操って、雑音だらけの信号を聞いては自分からメッセージ発信してを何度も繰り返す。
どうしてもやりたいことが、やらなきゃいけないことがあると思うと、正気を保っていられた。
それでも、誰からも返事は来なかった。通信兵がいるはずなんだけど、不審な電波だから答えてくれないのかな。
みんな、俺はここにいるよ?なんとか、壊れないでちゃんとあるんだよ?
ねえ応答してよ。
誰か、答えてよ。

ゴーストさんからの連絡は定期的に来た。朝と夜には必ず、時間が合えば昼にもメッセージが入る。挨拶から始まって、何してるのといった雑談をいくつか送り合うだけ。
それでも、誰かと通じてるってことが嬉しくて、望んでいた通信じゃなくても嬉しくて涙が出た。
「ちゃんとご飯食べてる?無理はせんように。こっちはまた雨。進行に影響はない、でも下手すると帰るの遅くなるかも」
「ちゃんと食べてる。無理なんてしてない。こちらは晴れてる。煙草吸ってたら、風が気持ちいいよ」
早く帰って来てほしいとは打てない、ボタンに指をかけたまま溜息を吐く。自分の声が聞こえないのは、救いだな。
「早朝から作戦開始、だからもう寝る。おやすみ」
きみが恋しいと一言添えられる電波に、胸が痛む。
それを押し殺しておやすみなさいと、返事を打つ。作戦開始から五日は過ぎたけど、俺からゴーストさんへはメッセージを送れていない。そんな気力がないと言った方が正しいんだけど。
悪いとは思ってるんだ、これは明確な裏切りだから、でも彼と敵なのは相変わらずの事実だし。俺の目標はここから出て、レジスタンスに戻ることだ。
それができないなら、せめて。マスターの元で壊れたい。湧き上がってくる涙を拭いて、再び椅子に腰かける。
海へ砂を流しているようなもの。それが望みの場所へ運ばれるなんて、わかるわけないのに。そう思ってても、投げかけずにはいられない。通信の切れた機械を手元に引き寄せて、また電波を合わせてメッセージを送る。
ねえ、そこに誰かいるの?そこに、誰か、誰か、ねえ。

煙草の煙を吐き出して、食べかけた食事を放置していることを思い出す。何度となくメッセージを送り続けたのに、何の回答も得られないまま時間だけが過ぎていく。十日を超えた頃から、望みはもう薄いのではないかと思い始めた。どうしたらいいんだろう、煙草を吸い込んで肺に煙を満たす。
「失礼します」
食事を下げに来た兵士は俺を見て、あのもう少し食べられた方がと言うが、もういらないからと下げてくれるように頼む。
「しかし、食べられていないというのがゴースト様に知られると、その、我々も処罰がありまして」
「それなら、痛まないもんだけ置いてってくれ。今は何か食べる気分じゃねえ」
人の気配がしたからサングラスをかけたのだが、まだ威勢を保てているのか自分でもよくわからない。仮に疲れて映ったとしてもそれはそれで、ゴーストさんの計画が上手くいってるってことだろうし。別に問題ないよね。
どうすると相談して、パンと飲み物を置いて立ち去ろうとする二人に待ってくれないかと声をかける。
「な、何か?」
「いや、余ってる紙、何かもらえるか?さっき丁度、切らしちまった」
あんたらの上司と通信するのに、メモ書きが欲しいんだと言えばそれならと持って来てくれる約束をしてくれた。流石にゴーストさんを出せば従うより他ないんだろう。また心の中で彼に謝り、引き続きレジスタンスとの交信を試みる。

誰もいない。
手渡してもらったメモには、周波数の数字が並ぶ。これもダメ、これも違うと試した分だけ端書が増えていく。どれだけ交信しても、何も返って来ない。
「ゴーストさん」
繋がるのは唯一、彼の端末だけだ。すっかり見慣れた数字を入力する。何を打ち込むかも決めてないのに。
電波の海の音に疲れてしまった、何度やっても遠すぎてみつからない場所。本当はもうとっくになくなってしまってるんじゃないか、なんて思えてくるくらい、遠くの故郷みたいな。あるかないかの返事を待つのに、完全に疲れていた。
「ごめんなさい」
結局迷って一言そう送った。申し訳ないとはつくづく感じているから、嘘でもなんでもない。本音だし。
しばらくして返ってきた返事には「もっと可愛いこと言ってよ」と打たれてた。
なんでいきなり謝るんだと、遠くにいる彼の困惑した顔が浮かぶ。
「言いたいこと、決まらなくて。迷惑だったよね」
「そんなことない、きみからはなんでも嬉しい」
寂しいのかと聞かれれば確かにその通りなんだけど、でも違うんだ。呼びかけに応えてくれる人がいる、それを確かめたかっただけ。
「心配になって」
あなたがまだちゃんといるのか、知りたいと思った。顔も声も届かないから。
「こっちは無事、心配してくれてありがとう」
笑ってくれる?俺のことを見て、いつもみたいに優しく頭を撫でてくれる?抱き締めてくれる?
その腕と体温が、息遣いが懐かしい。
「ごめんなさい」
「もういいから、ゆっくり休み」
全て眠ってしまえば一瞬で過ぎ去ってしまうからと、優しいメッセージに涙が溢れてくる。

十三日目の夜、今日もダメかと諦めて寝ようかと考えた時、ようやくプツリと通信の繋がる音がした。
早まる鼓動を抑えつつ、レジスタンスの合言葉を打つ。それに応えてくれる途切れがちな音を拾って、どうにかして通信を保つ。
「どこの者だ」という質問に「キセル」と返すと、しばらく返答が途切れた。怪しまれているのかもしれない、そりゃあそうだよね、俺がいなくなってもう三ヶ月は経とうとしてるんだもん。
あるいは俺のことを知らない人なのかも。人が入れ替わっていてもおかしくない。レジスタンスの基地も一つじゃないから、他の支部に繋がってしまったことも考えられる。
「本人だというなら、食堂裏にいる動物を答えろ」
「猫、ゲベールくんがお世話してる、黒と白の、野良猫」
そんな質問がいくつか続いてから、今どこにいるんだと質問された。
「世界帝軍の基地の中、その一室にほぼ監禁状態」
「どうやって通信している?」
「敵の機械を使って、監視の目を盗んで」
何で今まで連絡しなかったと聞かれても、その手段がなかった、監視の目を盗んで通信機を使える機会を伺ってたとしか返せない。
「壊されたというわけではない?」
「まだ、壊されてはいません」
「わかった、だがこちらからの救援は難しい」
下手に出撃して、レジスタンスに壊滅的な被害が出ないとも限らないためと言われて、そうだよねと一人納得する。
「監視の目を盗んで脱出をはかれないか」
「不可能です、そこまでは」
「それならば……で、その後……」
ノイズが混じって聞き取れない、もう一度お願いしますと打ち直すが、何度打っても返事が上手く届かない。

「この通信は敵軍に傍受され……いる可能性がある、これ以上……のため、通信を終了す……」
待ってと打とうとしたら、「これはマスターを含む、全会一致の判断である」と先に返ってきた。
全会一致、じゃあそこにマスターもいるの?
「……貴銃士の行いとして……生き恥をさらさず……正しい選択を、己で判断せよ」
その言葉を最後に、ノイズばかりになって何も聞こえなくなる。待って、ねえ待ってよ、お願いもっと答えて。何度必死にボタンを押しても、手元でカチカチと虚しく空回る音が鳴るばかりで、一向に状況は変わらない。
生き恥をさらす、俺が?そう、かもしれない、けど、じゃあどうしろって。
自害しろって、ことかな。

「あ……あ、う」
俺はここにいる意味がないの?何の役にも立てない、何の力も使えない、今の俺は、ただそこにいるだけ。
置物として朽ちていくだけだった、あの頃と変わらない。何十年も、百年だってそうして過ごしてきたっていうのに。今この瞬間に、息をするのが苦しい。
乱れた呼吸の中で、軋む指先を動かす。
「ゴーストさん、ゴーストさん、こたえて」
震える声が口から洩れる、情けないというのはわかってる。わかっているけど、止められない。
何度目かのメッセージの途中で、プツッと音が入って、電子音が流れてくる。
「何かあった?」
こちらを気にかけてくれる通信の言葉に、うっと声をあげて溢れてくる涙をぬぐう。
「寂しくて」
「そっか。外見て」
メッセージの通り窓の外を見上げる。
白々と光る青い月が一つ浮かんでいる空、雲もなく、穏やかで、風が熱い頬を撫でて心地いい。
「月が出てる」
「こっちも」
トンとツーという音だけが、ここにいるんだって、自分を繋ぎ止めてくれる。
「会いたいよ」
「もうすぐ会えるよ」
あと少しで帰るからというメッセージに、あっと声をあげて泣きそうになる。
「泣いてる」
「泣いてない」
「嘘、絶対に泣いてる」
きみは嘘が下手という、言葉にそんなことないとまた否定する。
会いたい、直接声を聞きたい、あの手で触れてほしいそう思う。けれど、自分は彼を裏切った、そんな資格はないんじゃないかって思いが強くて。
当たり前だよね、求めちゃいけない人だったんだ。最初から、近づきすぎちゃいけない、深く知ってはいけない人だってわかっていたのに。
それでも、彼のことが気になるんだ。
「会いたいんだ」
「そう思ってくれていると、嬉しい」
傍に居れば抱き締めてあげるけどと続けられて、本当にそうだったらいいのになと思う。恋しいのだ、無性に人の熱が、彼の温かさが恋しくて。体に空いた寂しさを埋めてほしいんだ。
「あなたが恋しいんです」
「さっさと片付けて帰るから」
満足するまで傍にいるから、もう少し辛抱して。
そう言ってくれるあなたに申し訳なくて、別れの言葉と共に通信を切る。真夜中をとっくに過ぎた時計の針に、本当に迷惑だったろうなと申し訳なくなる。
目を閉じて眠る。嫌な夢を見た気がするけれど、ずっとずっと気味が悪くて、吐き気がして、結局どんな夢を見たのか覚えていなかった。

人の気配を感じて目を開ける、どれくらい寝ていたのか自分でもわからない。頭が揺れている、まだ夢の中にいるんじゃないかって思っていたら、頭に手が乗せられた。
「おはよう」
「あっ」
微笑むゴーストさんが頭を撫でる手の感覚が懐かしくて、自分からも伸ばそうとして思いとどまる。そんな資格ないんだって思い出して目を伏せた。
「おかえりくらい、言ってほしいんやけど」
「あ、おかえりなさい」
「うん。それにしても結構、寝てたみたいやね」
一日近く横になったまま起きなかったって見張りが言ってたと話す彼に、そんなにとこぼす俺に水を渡してくれる。
粘ついた口の中を潤して一息吐くと、ちょっとは落ち着いたと顔を覗きこまれる。
「顔色悪い、なんかあったやろ?」
「別に、何もないよ。一人だと、嫌なことばっかり考えちゃって」
「例えば、きみがずっと思ってた仲間から見捨てられたとか」
肩が跳ねるのを抑えて、そういう嫌なことばっかり思っちゃうんだよと震える声で返す。
「例えば、救援は難しいとか」
昨日のメッセージが蘇る。
「貴銃士として生き恥を晒すな、って言われたり」
その言葉に目を見開いて振り返れば、意地悪そうな顔でこちらを見下ろす相手がいる。
「何を、言ってるの?」
「覚えてない、なんてわけないやろ?きみがずっと聞きたかった、仲間からのメッセージ」
ここにある通りなとベッドの上にばら撒かれる紙の束、印刷されたそれには周波数と俺が打ち出した入力記録が全て記載されている。
どうして?

「知ってるよ、ワイがおらん間にきみが何をしてたのかくらい」
渡した無線信号の機械からは発信した内容は逐一、別で管理していたんやから。
そう言われて青ざめる俺に、アホやな敵においそれと通信機器なんか簡単に渡すわけないやろと、至極真っ当に返される。
「きみが悪させんのやったら、別にそれで構わんけど、十中八九レジスタンスと連絡取るやろって踏んでたからね。おかげで、上にいい報告ができたわ」
レジスタンスの通信電波と暗号なんて手に入れれば、どれだけこちらに有利になるか自分でもわかるやろ。
心拍数が上がっていく、息が上がるのを抑えて見下ろす相手を睨みつける。
「俺のこと、騙したの?」
「騙してはないよ、どういう形で監視してるかを言ってなかっただけ」
「それを、騙してるって言うんだよ」
「ためらいもなく裏切った癖にどの口が言うねん」
今までに聞いたことない冷たい声、怒りを含んだ剣呑な表情に怯む。
「警戒心なさすぎるんよ、前々からずっとそうや。あんたあまちゃんにも程がある、人のこと簡単に信じて、情けかけて、それで自分の首絞めてるんやろが。そんなんやから信用ならんって、見限られる」

敵からも味方からも、どうせ何も成せないって思われて、誰からも必要とされない。

「認めろ、ええ加減に。あんた、自分のマスターに見捨てられた。だからもう、どこにも帰る場所なんてない。どこにもな」
「なら、どうするの?俺のこと、壊す?」
それならそうして欲しい、何もかも忘れて、ただの鉄の塊に戻れば少しはマシだ
。 望んだ形じゃないけど、必要とされないなら壊してもらいたい。胸の痛みとはこれでさよならだ。
無表情のまま、見下ろす彼が俺の上に乗る。逃げ場はない、枷で抵抗なんてそもそもできるわけないんだけど。両手が首にかかる。絞めるように包まれて、これで本当にさよならかと目を閉じた。
「逃げるな」
頰を殴られる、痛みに目を開くと彼は泣きそうな顔でこちらを見ていた。
なんであなたがそんな顔をしてるの、なんで?
「なあ、今でもきみはレジスタンスに戻りたいん?」
見捨てられても、裏切り者って言われても、それでも構わないん?まだ信じてるの、自分のことを見限ったマスターのことが、そんなに好き?
「恋しいって言ってくれたのは、ただ寂しかっただけ?なあ、どうなん?なあ!」
少しでも期待した自分がアホみたいやんか。 そう言い残してゴーストさんは出て行った。
何も言い返せなかった、彼に謝らなきゃいけないって思ってたのに。ずっとずっと、ごめんなさいって言わなくちゃいけなかったのに。
することもなくて、投げ捨てられた紙の束を拾いあげて、机に置いていく。その中に紛れていた少し廃れた紙の袋をみつけて拾い上げる。
ずっと前に彼にあげたお守り、まだ持ってくれてたんだね。ただ彼に情けをかけて渡しただけの物だったのに、それでも信じたいって思ってくれてた?少しでも俺があなたを想っているって。
俺は裏切り者だ、いつだってどこでだって人に嫌われる。人を傷つけるばっかりで、何もできない。
何も、できない。

夜が覆った町の中、ひたひたと人の後ろを付いて歩く。気付いた相手が振り返りざまに、火薬の弾ける音が響いた。
「あ、あぁ……」
何かを言いかけた相手の喉を短刀でかき斬って絶命させ、ふっと息を吐く。
口封じだった。当時は、よくあること。俺にとっては、よくあることだったから、嫌な思いは抱えていても別にそれが不満ってわけじゃなかったんだけど。
愛着を持って煙草を吸っていた持ち主の顔を、覚えていないんだ。大事にしてもらってたっていうのは記憶してるのに、顔はもやがかかっていて何も見えない。近すぎたからなのか、遠すぎたからなのか、単純に目を逸らしていたからなのか。
人を殺す人を見たくなかったのかもしれない。煙管のままで終えるのをできれば望んでいたのかも。
この人が、どんな気持ちで俺を撃ったのかは知らない。ただ、銃として使ったらしっかりと火薬を落として、綺麗にして、煙草をふかしてたのは覚えてる。
ずっとずっと昔の夢、俺が殺した誰か、信頼されたふりをして裏切ってきた誰か、誰か。

「この裏切り者!」

そう叫んだ人物を撃った。脳天にぶち当たったから助かるわけないよね。
とどめを刺すために近寄った時、呼吸を荒げる相手の顔が見えた。
「ます、たー?」
そんな、わけないよね、違うよ。違う、よね?
情け容赦なくとどめを刺した、血で汚れる手を広げて見てなんでと首を傾げる。
なんで俺の手が汚れてるんだっけ?刃物なんて、握ったことないのに。直接、手を下したことなんてないのに、なんで?なんで?
汚れた手を振り払うように、違う、違うと繰り返す。こんなの違うよ、俺の覚えてることじゃない。
体が震える、腹の底から胸にまで広がる痛み、不快感、何かが暴れまわっているような、そんな。
恐いよ。こんなの違うんだ、俺じゃない、この手は俺のものじゃない。違う。
手で頭を掻き抱いて、血に濡れたその手から漂う鉄の臭いにいよいよもって、現実のもののような気がして。
俺は裏切り者、人殺しの。

「キセルくん!キセルくんなにしてん!おい!キセル!」
揺り起こされて目を開けると、心配そうに俺を見るゴーストさんが居た。あれ、ここはと聞こうとするより先に手を取られる。
「自分、なにしたかわかってる?」
「え、あ?」
カランと甲高い音を立てて転がり落ちた銀のフォーク、先端はたっぷりと赤く汚れていた。それが血だってことに気付いて、掴まれた手を見ればやっぱりそこも真っ赤に染まっていて。
「うえ、うっ、ごほっ!」
腹の底に収めていた何かが急激に暴れて、喉を突き破って出てくるような気がして。何度も激しく咳き込む俺の背を、誰かの手が優しく撫でる。
「大丈夫、とにかく落ち着き、大丈夫やから」
喉を通り過ぎて、止めることもできずに吐き出した。酸の臭い、いつだったか拷問の末に吐いた人間と同じように、未消化の何かがどばどばと溢れてくる。
激しく咳き込んでは吐くを繰り返して、どれくらい経ったのか。治まった頃には意識がぼうっとしていて、でも口の中にはまだ酸の気味悪い味が残っていて、ふらつく頭を振ってどうにか目を覚まそうとした。
「落ち着いた?」
「あ、うん」
ほなこれ飲みと渡された水を一口含んで、洗い流すように飲み干す。
水桶に戻したものを片付けている間、絶対に動くなと彼はきつめの口調で言うと部屋から離れた。
動くなって言われても、そんな気力自体がないから大丈夫。大きく息を吐いて手を握ると痺れ、いやじんと熱い痛みがあった。
くっきりと空いた穴から血が流れ出ている、これ自分のだったんだ、通りで鉄の臭いが止まらないわけだ。

「まったく、頭冷やそうって思ったのに。油断も隙もない」
そう言って戻ってきたゴーストさんは、綺麗な水で傷口を拭うと応急処置でしかないけどと薬を付けて、包帯を巻いてくれた。
「出入りしてる食器は全部確認してるはずなんやけど、自分、いつの間に隠し持ってたん?」
「……別に、俺が隠したわけじゃないよ?あの、ゴーストさんがしばらく帰って来れない間に、片付けてくれた人が、忘れて行ったから」
先端も尖ってるし、鍵穴を開けるのに使えないか、足枷で何度か試みてみたけどだめだった。
隠してたのはいざって時のためだ、喉を貫くには強度が足りないかもしれないけど、目や口の中であれば、そう考えてたんだけど。なんで自分の手なんて。
汚れているから、あの感覚を忘れたかったから?
「なんでこんなことしたん?」
「よく、覚えてないんだ。夢を見てたのは、わかってる。すごい恐い夢、昔、人を殺した時の」
どこからが夢で、何が現実なのか定かじゃない。少なくとも自分の目で見てたことと、体がしていたことが違ってたんだっていうのはわかったけど。
そんな俺の傍に座って、頭を撫でる。その手を払いのけて、そんなことしちゃダメだよと返す。
「俺、裏切ったんだよあなたのこと、だから」
「それはお互い様やろ?きみが裏切ることを前提で仕組んだ」
結局その通りになって、傷ついてるんやから世話ないわと、溜息混じりにこぼす。
「しばらく休みもらうわ」
「なんで?」
「きみのことが心配すぎるから。ワイがいじめたせいかもしれんけど」
違うよ、あんな恐い夢を見たのは、あなたのせいなんかじゃない。
思い出して涙が溢れてきたのを乱暴に手でぬぐったら、ぴりっとした痛みが走る。それに動きを止めると、かわりに俺の頬を撫でてくれる指が憎たらしくなった。
「やめてよ」
「やめへんよ。罪滅ぼしくらいさせて?」
「なら、ここから出して!帰らせてよ」
「それはでけへん。きみに、帰る場所はない」
「それはあなたが!」
あなたが悪いんじゃないか全部、そう叫んだらそうやでと淡々と返ってきた。怒ってもいない、悲しんでもいない。ただその通りだから、受け入れただけ。

それが虚しくて、顔を見ていられなくて、相手の肩にまだぼうっとしたままの頭を乗せると、優しく撫でてくれる。
「なんで、そんなに優しくしてくれるの?」
嫌われたって思ったのに、今回ばっかりはもう、あなたからも見捨てられたって思ったのに。それでも変わらずに俺に触れてくれるのはどうして。
「しゃあないやん、敵のことを好きになってしもたんやもん。どんなに抵抗されても裏切られても、壊されそうになったって、それも最初から覚悟の上」
「あなただって、人に甘いよ」
「きみ相手ならね。惚れた弱みってやつやわ」
弱々しく笑う相手にごめんなさいと言う。
「なんで謝るの?」
「謝らなくちゃって思ってた、ずっとずっと。あなたのこと、裏切るって思ったら、ずっと申し訳なくて、だから」
ごめんなさいと繰り返す俺の背中を撫でて、もういいからとおでこをくっつけて言う。
「言うたやん、きみは嘘が下手って」
こんなにボロボロで人を騙そうなんて無理やで。笑う相手の柔らかい息に申し訳なさと安堵が溶け合って、更に涙が溢れてくる。それを優しく拭って、目元に口付けられる。
その優しくて甘い感触に、体が震えた。
もっとと言えば、求められるまま与えてくれる。額に、目の際に、瞼に、鼻先に、頰に触れる。手で触れるそこから伝わる熱が溶け合って、そばに居るって感じられるのが嬉しい。
なのにドロドロと、腹の底から湧き上がってくる黒いタールのような過去の情景が全てを台無しにする。
呼吸が荒くなって再びむせる俺を心配する声が響く。
「キセルくん、大丈夫?」
「あ、待って。触らないで」
そんなわけにいかんやろと、落ち着けるように何度も背を摩ってくれる手にされるがまま、ゆっくり息を整える。
消えない過去を思い出して震えてる、体を包んでくれる相手に俺は汚いからと離れてくれるようにお願いするけど、それは聞き入れられないって断られる。
「なんで?」
「嘘ついてるから。ほんまは誰かに傍にいてほしい」
違うと聞かれて無言でいると、ワイは今きみの傍に居たいから離れる気はないよと、ゆっくりあやすように背中を叩きながら言う。

「昔のね、夢を見てたんだ」
「うん」
貴銃士になるずっとずっと昔、まだ江戸時代の町にいた頃。二百年、三百年は昔になるのかな。
「俺で撃ってもすぐに死なないから、喉を斬って、喋れなくして。死体を、川に投げ捨てたりして、処分して」
「うん」
人が苦しむ顔は見てきた、任侠の世界なんて普通の人であれば目を背けたくなるようなことも、いくらだってあった。
「俺、当時は貴銃士なんかじゃなかったのに、自分で人を殺した。その殺した人がね、マスターだったんだ」
夢だよねと呟くと、全部夢やでと小さな声で返される。
「全部悪い夢や」
「でも俺、殺せるんだよ。わかってたんだけど」
仲間でも誰でも、本当は殺せてしまうんだ。そんな事実を今更になって思い出す。
そしたら急に怖くなった。
「あなたのことも、壊せるんだよ?」
「せやろな、その状態でもきみならやりかねへんわ」
「一緒に居ていいの、恐くないの?」
「人のことは言えん身やし」
それに言うたやん、きみに壊されるのはご褒美。それは、ワイにとっては救済なんよと耳元で呟く。
「救済?」
「きみと同じ。心を預けた誰かに壊されるのは本望」
でも、そうやね。きみの傍に居れる方が今は幸せやよ。
「俺なんかの、傍にいるのが?」
「きみのこと、好きやからね」
好きだって言葉が胸に響く。頭の中で反響して、やけに痛く残るのはなんで。

拒絶しなくちゃいけないって思っているのに、その体に身を委ねてしまいたくなるから?
帰る場所も、義理立てする相手も、もういないのに。どこも、誰も必要となんてしてないのに。みんなを裏切った、最低なはみ出し者なのに。
まだ俺のこと好きだって、あなたは言うんだね。

「何もできない、役立たずなのに?」
「そう思ってるのはきみと、きみを捨てたレジスタンスだけやよ。でもワイは違う。きみがいるだけで、最高に幸せ」
「それなら」

あなたのことしか考えられないようにして?

彼の目を見てそう懇願すれば、何か言おうと口を開いて、でも気が変わったみたいだった。
「それがきみの望みなら」
引き寄せられて抱き締めてキスをされる。今までずっと触れ合ってきたのに、どうしてこんなに胸が熱いんだろう。触れたそこから熱でとろけていくみたい。
離れていこうとした彼の服を掴んで、触れ合う距離でもう一回と言うと呼吸ごと飲み込むほど深く口付けられた。

あとがき
ようやく二人キスしてくれました。
もう少し続きます、完全にキセルくんが世界帝軍に、というかゴーストくんに堕ちさせるまで頑張ります。
昔、職場で干されてた時「ぶっちゃけきみウチに必要ないんだよね!」とめっちゃ明るい声で上司に言われて、わたしは胃をぶっ壊しました。
言葉って怖いです。精神ゴリゴリ削ってきます。
あの時、支部の作品にコメントいただけてなければ、創作続けようとは思わなかったかと……言葉は人を救います。
暗いお話をしてしまいましたが、自分の妄想で喜んでいただけるならば、今後も続けてまいります。よろしくお願いします。
2018年6月10日 pixivより再掲
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