年齢確認
20歳以上ですか?

 いいえ

いつか陽の当たる場所で笑えるなら

 ギターを手に路上ライブで国内を巡っているものの、目の前で足を止めてくれる人というのは限られている。都市部に来れば少しは注目されるかと思ったものの、現実はそこまで甘くはなく、同じ夢を掲げたライバルがしのぎを削っている場所で少しだけ焦りを感じているものの、とはいえ挑戦しないことには始まらない、自分の才能と音楽の力を信じて愛用のギターを奏でる。
 二時間ほど活動を続けたものの、ほとんど足を止めてくれた人はおらず、少しため息を吐いてからギターを片づけに入ったとき、路地裏から誰かの叫び声が響き直後になにかの割れる音が続く。物音からしてただの喧嘩ではなさそうだが、警察に通報したほうがいいだろうか、しかし野生のポケモンが転がりこんできて襲われているのなら、すぐにでも助けが必要だろう。
 迷っていても仕方ないと荷物を手に声のしたほうへ走り出す、しばらくすると奥まった場所で、一人の青年がなにかを地面に叩きつけているのが見えた。金属が擦れ、瀬戸物が割れるような音の中に鈍く拳を叩く音が混ざる、地面を殴る彼の手に血が滲んでいるのを見て、思わず飛び出していた。
「なにしてるんですか、やめなさい」
 それ以上はダメだと拳を止めると、乱れたオリーブ色の髪の奥から、驚いたようにこちらを見あげた目としっかり視線が交わる。声もなく固まっている彼の手を掴み傷ついた指に食いこんでいる破片を取り除き、持っていたハンカチで傷口を押さえる。痛みにうっと声をあげるので、まだ細かい破片が刺さっているのかもしれない、もう少しよく見せてくださいとお願いする。
 破壊衝動はとりあえず落ち着いたのか振り払われることはなく、ただ力なくその場に項垂れてされるがままになっているので、手当を進めさせてもらう。
「あまり深い傷にはなってないようです、よかった」
 でも傷口はしっかり洗ったほうがいいでしょう、小生の家がこの近くなのであなたがよければ、少し立ち寄ってくれませんかと聞けば顔をあげて見知らぬ人間を、家にあげていいのかと小さな声で聞かれる。
「このまま放置もできないでしょう」
 面倒だと思うなら、振り切ってくれれば無理には追いかけたりしませんが、どうしますかと聞けば、しばし黙りこんでいたが、その前にこれを片づけなければと砕け散った破片の山を指差して言う。
「これは?」
「ワタシの作品、だったものです」
 もうただのゴミの山だなと力なく笑う相手に、制作者であるきみがそんなこと言ってはいけないよと返すと、実際にゴミのようなものだったから構わないさと、目を伏せてつぶやく。
「本当にゴミならば、あんなふうに感情を荒げたりはしないと思いますよ」
「それは」
 二の句が出てこない青年に、片づけなら手伝いますからあなたは自分の手を押さえていて、すでに見れたものではない塊と化したオブジェを片づけ、モンスターボールからセグレイブを呼び出し、荷物持ちをお願いする。
「すみませんね、あなたの力が必要なので」
 軽々と持ちあげてみせてくれるので、頼りにしていますよと頭を撫でてやり、さあ行きましょうかと固まったままの青年に声をかける。
「変わった人だ」
「よく言われますよ」
 やっぱり帰りますかとたずねてみると、いいやお邪魔していいのならついて行こうとよろめく足で隣をついて来る。
「そうだ、小生はハッサクというのだが」
「コルサです」
 ご覧のとおりの芸術家のなり損ないでと続く言葉に、自分も売れてないミュージシャンですよと笑って返した。

「驚いた、まさか同じ学校だったとは」
「そこまでのことではないでしょう、パルデアで芸術を学ぼうなんて思う輩が集まる場所は、一箇所しかない」
 指摘されてみれば確かにそのとおり、他の学問であれば専門の学校へ行くのが筋ではある、この近辺で音楽や絵画に向き合う者の多くが同門なのは、考えなくてもわかることだった。
「まあ美術科と音楽科では、接点がなくてもしょうがない」
「共通している科目はあるでしょう」
 とはいっても専攻が違えば選択の幅も少ない、加えて彼はアトリエでの製作にかなりの時間を割いているという話だったので、例え同じ構内にいようとも重なる時間はわずかだろう。どこかですれ違ったことくらいはあるかもしれないが、それだけの相手の顔を覚えていることは少ない。
「まあ美術科の彫刻コースなんて、花形とは言い難いだろうさ」
「そこまで卑下するものではないですよ」
 いや実際に評価されるのは難しいのだ、作品一つでも展示にあたっては場所を確保して輸送に搬入と、相応の苦労が常につきまとう。芸術とはそういうものですよと言い添えるものの、とはいえ万人に理解されるものでもないし、わからないものは人前から淘汰されてしまうと彼は首を横に振る。
「特にパルデアではあまり、現代美術は受け入れられない」
 本当ならカロスにでも行ければよかったんだろうけれども、あちらまで行く余裕がなくてなと、肩を落としてつぶやく。
「カロスは芸術の中心地ですからね」
「世界各国から天才が集まる場所でしょう、そんな地では憧れだけではやっていけない。せめてパルデアで多少は名が売れたなら、少しは道も見えてくるかと思ったものの、取っかかりも掴めず遠い夢のままで」
 なにも成せないまま淡々と作品に向き合ってもう二年が過ぎた、このままずっと燻っているのではないかと心配になってきてしまって、今日はどうしても自分を抑えられなくなったのだ。振り返ると恥ずかしい限りだと力なく項垂れる彼に、本気で向き合っているからこそ落ちこむ日もあるものですよと切り傷に効く薬を塗りつけ、包帯を巻いていく。
「どうすれば認めてもらえるのか、評価に値する作品とはなんなのか、なにもわからない」
「他者の評価を気にしてしまうと、袋小路に入ってしまうものだと思うのですよ」
 百人いれば百通りの評価が存在する。そこに正しいという基準や答えなど存在しない世界なのだから、自分の心と向き合うことが大事なのだと教授は話していたものの。とはいえそのような世間体とは別に成績は突きつけられるのだから、始末に負えない。
「あなたは不安にはならないのか、失礼ながら売れていないと自分でもおっしゃっていたが」
「目論見が甘かったのは認めるしかありませんです、しかしながらこの道が悪かったとも思っていませんよ」
 音楽一本でと考えて家を飛び出してから、紆余曲折あって学校に入るまでに考えを改めるに至った、つまるところ教職コースを選択するだけの現実は目の当たりにしたということ。
「さっき学年は同じだと」
「ええ、しかしまあ実家から大反対されていまして、学校へ入るのに多少の時間がかかりました」
 その寄り道をした分だけ、自分のほうが年上ということですと返すと、見た目ではわからないなと小さくつぶやく。
「教職ということは、音楽教師に?」
「どうでしょう芸術論の成績がことの他よかったので、美術教師としてもやっていけると、教授からは判を押されていまして」
 とはいえ最後の頼みの綱です、もうしばし自分の才能を信じてみたいと言えば、あなたのような考えかたが本来は望ましいのだろうなと言う。
「ワタシにはできない」
「芸術に身を捧げると決めているのなら、それもあなたの在りかただって間違いではありませんよ」
 ただ声をあげて泣いたあの姿が、あまりにも強烈に脳裏に焼きついている、あれほどの強い感情を抱えこむには細すぎる体と、繊細すぎるように映る心にどう触れたらいいものか。
 なにが正しいかなんて存在しない答えですよ、これ以上はよしましょうと話を打ち切り、正しく言えばこの場では結論を棚上げするために、コーヒーでもどうですと聞いてみる。
「どうぞお気遣いなく」
「いや客人が珍しくて、多少はもてなしてみたいんですよ」
 インスタントですけどとつけ加えて、二人分の湯を沸かしていると奥から同居している仲間たちが顔を出す。ドラゴンタイプは平気ですかと聞けば、特に苦手意識はないと言うので入ってきてもいいですよと手招きしてやる。
「珍しいですね、下宿先にドラゴンタイプのポケモンを連れて来る人なんて」
「ええ体が大きくて気性も荒いので、学生向けのアパートは断られてしまいまして」
 この家は知人のツテを頼って空き家を借りたんですよ、学生の割に広い所に住んでいるなと思ったと言うので、空き家をそのままにできないので格安でいいから手入れしてくれと、半分くらい人の好意に甘えたようなものですよ、とコーヒーの入ったマグを差し出して答える。
「コルサさんはどんなポケモンを好むんですか?」
「自分は草タイプですよ、彼等が身近な存在だったもので」
 生まれは酷く田舎だったものでね、一面と野山に広がる森だけしかないような場所だった。草木は好きだったけれど、野菜を育てる道に進むのはなんだか気が進まなかったのだと言う。
「野菜がきらいで?」
「いや、農家というのは野菜を作った後で必ず選別を行うんですよ、大きさや形、色艶のよさ、そういった合格したものだけを選り分けて売る。だけど自然に成るものが人の望む形になるわけではない」
 そういう人工的に手を加えるものを見ていると、なんだか悲しい気持ちになるというか、必要なのだとわかっていてもやるせなく思ってしまう。望むまま伸びるままに枝葉を茂らせることは叶わず、人の手で見に成るように受粉させられたうえで、不要な実は落としていく、なにもかも身勝手だろう。
「優しいんですね」
「いやこれも人のエゴだとは思う、勝手に共感して可哀想だと思うなんて、相手から叱られてもしょうがない」
 そう言いながらコーヒーを一口飲む、さっき壊した作品も題材は植物だったが、どうにも理解されなかったと首を横に振る。
「わかってもらえないまま、自分の手で壊していたら余計に意味がないな」
 そう話す彼の包帯に包まれた手が、近くに寄って来ていたオノンドの頭を撫でるのを眺め、今はもう少し落ち着いたでしょうと声をかける。
「そう見えますか?」
「ドラゴンは感情の昂りには敏感なんですよ、怒りに支配された者同士では衝突をしてしまうので、でもあなたにはその気配がない」
 だから心を預けているあなたはきっと、穏やかなものと判断しているのですよと教えると、そういうものだろうかと首を傾げてみせる。
「まあ確かに荒ぶる感情は、少し退きましたが」
「やっぱり」
「こんなふうに優しくしてくれる人がいるなんて、あまりに面食らったもので」
 お節介にもほどがあるし、ドラゴン使いにしては優しすぎると苦笑されてしまった。
「父にも同じことを言われました、弱肉強食、強者が生き延びるものであると」
 そればかりではいけないでしょう、もう少し周りを見て考えてほしかった。龍を恐ろしいと思うのは、その力が巨大すぎるものだからだ、彼等はもっと穏やかに生きることを望んでいるように思うのに。
「それも、あなたに言わせると人のエゴかもしれませんが」
「あなたについて来ている彼等は、その考えかたに満足しているのでは?」
 いやならば愛想を尽かされている、ドラゴンとはそういうものでしょうと聞かれて、確かに気位の高い子たちですよと自分の膝に頭を預けるセグレイブを撫でる。まるでニャースのようじゃないかと、今日初めて相手がおかしそうに笑った。
「もうこんな時間か」
 すっかりお世話になってしまったと、申しわけなさそうにつぶやく相手に気にしなくていいと返し、よければ家まで送るがと声をかけたものの、流石にそこまで心配されるほど貧弱ではないと断られる。
「頼りないように思われるかもしれないが、一応は男だ、ポケモンたちもついている」
 だから大丈夫だと玄関先できっぱり言い渡され、そうですかとしか返せない。
「しかし、今日のお礼はしなければ」
 ワタシ一人だけではもっと騒ぎになっていたかもしれない、怪我も浅くで済んだのだ、ありがとうだけでは足りないだろうと言う。
「明日も昼には学内にいるんだが、あなたは」
「講義を受けるので、出席していますが」
「では昼に学食で待ち合わせしませんか?」
「構いませんが」
 では明日と約束を交わして、陽も暮れて夜の影が深く落ちた道を一人歩いて帰っていく後ろ姿を、いつまでも眺めていた。

 約束した時間より少し早めに食堂へやって来た小生から、少し遅れてやって来たコルサさんは、待たせてしまったかとバツが悪そうな顔でつぶやいた。
「いえ今日は午後の講義のみだったので、早く着いただけですよ」
「そうだったのか」
 なら早く呼びつけてしまったのかすまなかったと謝りながら、二人分の昼食を選んで自分が払うと頑なに譲らなかった相手に、そこまでしてもらうほどではないんだがと思いつつも、自分の気が済まないと言い切られてしまうと断ることもできず、ありがたく好意に甘えることにした。
 野菜とスモークベーコンの入ったボリュームのあるサンドイッチを片手に、なんの授業に出るのか聞かれたので、今日は美術史と音楽関連の科目だと答える。
「コルサさんはどうなんだ?」
「ワタシはずっとアトリエで制作だ」
 授業にも出るが、それ意外は基本的に閉じこもっているのに近い、たまにスケッチのために周囲を歩きはするものの、どうしても時間が惜しくてと話すので、随分と熱心なんですねと聞けば、年内にまた公募展があるのでそれに間に合うように作品を作りたいのだと言う。
「次はどのような題材で」
「そうだな、植物を前衛的に表したいので」
 構想を話して聞かせてくれる相手の顔は活き活きしていて、昨日の打ちひしがれた姿とはまるで重ならない。ショックではあったものの立ち直れたんだろう、よかったと胸を撫でおろす。  そのまま他愛もないことを話している間に、昼休みの時間は過ぎてしまった。
「どうにもあなたは聞き上手だ」
 思わず話こんでしまったと言うので、こちらも賑やかで楽しかったですよと返せば、やはり珍しい人だなとつぶやく。
「そうでしょうか?」
「同じ美術科の学生でも、ここまでワタシの話は親身になって聞いてくれませんよ、途中で鬱陶しいとわかるくらい顔が曇るが、ハッサクさんにはそれがない」
 だからつい話しすぎてしまった、余計なことまで口にしていないか不安になるよと言うので、それならば学食はよくなかったかもしれませんねと返す。
「すみません、学内の集まりやすい場所が他に思い浮かばなかったもので」
「あなたが気にされないのなら、小生はどこでも結構ですが」
 この学校はなかなかに敷地面積が広い、噴水の広場や音楽発表に使える施設や演劇場、更には陶芸の工房なども併設されているのだ、それだけ多種多様な理由と夢を掲げた人々が集まってくる。急に出会ったばかりの別の科の人間となんて、上手く落ちあえる場所のほうが少ないかもしれない。
「もしよければですけど、また会ってくれますか?」
「小生でよろしいので」
 こんな話を聞いてくれる人もいないので、気が向いたときで構わないのでと視線を逸らしてつぶやく相手に、自分でいいなら是非ともと電話番号を交換して、その日は作業に戻る彼を見送って別れた。
 そこから電話を受けて会いに行ったり、共通の授業で顔を合わせる機会があったりと、思ったよりも近くで過ごしていたことを知った。真面目に出ているのだなと言えば、単位のために必須の授業には流石に顔を出すと不服そうに返された。
 あんなことがなければ接点などない関係だったと思うが、美術に真面目に打ちこむ姿と情熱の高さには共感するところが多く、自分よりも年若くありながらも尊敬できるほどで、反対に彼は自分のことを頼りになる兄のようだと慕ってくれた。
 ただ気が合うだけで共に在る、そんな誰でも平等に与えられるべき関係が、自分にとっては他のなにものに替え難いくらいに嬉しくて、いいのか変人と恐れられる男だぞという彼からの皮肉混じりの冗談すらも、面白いじゃないかと思った。
 招かれて入った部屋には極彩色に彩られた作品が並び、描きかけのスケッチやデザイン画が壁一面に貼りつけられて、どこを見てもみっちりと彼の信奉する芸術の世界に満ちている。
「これじゃあ、まともに人を呼べないんじゃないか」
「訪ねて来た人はあなたが初めてさ」
 たぶんあなた以上に自分には来客なんてものは縁がない、それくらいで丁度いいと言い切る相手に、とはいえこれでは普通に暮らすのも一苦労ではないかと指摘する。
「どこを見ても心が休まる場所がない」
「どこの学生の部屋もこんなものでは」
 あなたは音楽だから少し違うかもしれないが、自分たちはこんなものだと言い切る。
 しかし美術科には専用の倉庫があるらしいじゃないか、わざわざ部屋にまで持ち帰らなくても、作品の保管場所なら充分ではと聞けば、これらは全て試作品だと言う。
「部屋で試作を繰り返し、向こうのアトリエで本物を作りあげる」
 彼の制作にかける時間は膨大で、並大抵の集中力ではないと周りから噂されていた。その秘密の一端を掴んだようで圧倒されてしまったと同時に、彼の抱く情熱の熱量の高さは常人のそれとは違うと思い知った。
 作品の評価を非常に気にしているのに、自分自身の評判にはさほど気にしていない彼について、伝え聞いていた噂。誰よりも早くアトリエに来て、鍵を閉めるギリギリまで閉じこもっていることもザラにあり、中には特性が不眠なんだろうなんて声もあるとか。
「まさか本当に不眠なわけがないでしょう」
「だとは思うんだけど、あそこまで齧りついてる奴も珍しいからさ」
 確かに自分の製作にかける時間は大事だけど、コルサのそれは少し異常だ、周りが見えてなさすぎるというか視野が狭いというか、まあすごいのは認めるんだけどさと、物珍しそうに話しかけてきた学生は言う。
「そもそも学内の展示から、一般の公募に出られるってだけでもあいつはすごいんだ、成績だって上位のほうだし」
 でも作品が完成しても満足していないというか、なにか焦ってるっていうか、オレたちからすればなにが不満なんだろうって思うんだけど、高見を目指してる奴の考えることはわからないと首を振って、いつものとこに居るぞと彼は出て行った。
 美術科にあるアトリエの端で黙々と自身の作品に向き合っている、色とりどりの木のような物に向き合って、真剣な表情でなにか作業を続けている相手のそばへ静かに歩み寄ると、顔をあげハッさんとすでに慣れた愛称で呼びかけられる。
「コルさん、また昼食を抜いたでしょう」
「時間が惜しかったもので」
 体に悪いですよと呆れ口調で返すも、集中していると腹が減ったと思わないのだと彼は言う。少しは休憩したほうが効率はいいんですよと声をかけ、それもそうかと頷く彼を外へと連れ出す。  学内にある芝生の広場に腰かけて、売店で買ってきたサンドイッチとコーヒーを食べる相手は、次の展覧会までに作品をどうしても仕上げたくて、今回はなかなかにいい出来だと少し自信を見せている。
「それならば余計に体調を気にしないと。完成前にあなたが倒れたりしたら、取り返しがつかないでしょう」
「それはそうだ」
 昔からなんだ集中していると周りが見えなくなってしまう、自分のことすら疎かになる、それではダメだとわかっているのだけど、すでに見えなくなった頭に止めるという選択肢はないのだと前に聞いた。それならばと様子を見に来るようになって、気づけば十日に一回が一週間に一度になり、最近では三日に一度は顔を見にくるようになってしまった。
 迷惑だったら断ってくれていいと言い添えているものの、顔を見せると笑顔で迎え入れてくれる。締切の前だと気が立ってるから気をつけろ、と先ほど声をかけられた学生には注意されたものの、そんな状態になるまで放置することがいいとは思えないのだが。
「ハッさんは今日の授業、もうないのか?」
「今日の講義はあと四時間目だけなので、問題ありませんよ」
 コルさんこそ制作ばかりで授業は大丈夫なのかと聞けば、そこは忘れないようにしていると言う、学科内の授業はアトリエから教室まで近いし問題ないと。
「教養科目は」
「アラームをかけて無理にでも気づくようにしている」
 アトリエで鳴らすなってたまに同級生から苦情が出るものの、遅刻したりサボるよりはずっとマシだと擁護する声もあるとか、まあうまく立ち回れているのならそれでいいか。
「アラームで思ったんだけど、ちゃんと寝てますか?」
 室内なら蛍光灯のせいかと思ったものの、陽の光の下で見ると顔色が少し悪く映る、目元も少しクマがあるように見えるし、学校内だけでなく家に帰ってもなにかしら作業を続けているのだろう。学生らしくレポートや課題もあるだろうが、寝食を忘れそうなくらいに作品制作に没頭しているのは知っている。
「少し眠りは浅いが、昔からだ」
 学生アパートは人も多くうるさい、色々な学生がいるものだから仕方ない面はあるものの、とはいえそこに文句をつけられるほど自分が真っ当な人間でもなし、むしろ作業を許されているだけありがたいくらいで。
「それと睡眠はまた別の問題では」
 食事と同じく体が休まっていないと、手元も不安になりますしどうか気をつけてと注意すると、あなたは本当に心配性だと笑われた。
「まるで生徒指導の先生のようだ」
「コルさん」
「いや先生はそこまで間違ってなかった、ならワタシは従ったほうがいいか」
 気をつけますよと冗談めかして口にするものの、本当にお願いしますよとつけ加える。
 日向に出たことで機嫌のよさそうな彼の草ポケモンたちも、思い思いに光合成をして休憩していた、彼らのためにも室内にこもりきりは止めてくださいよと言うと、それは確かにそうだ、みんなすまないと一言謝るとすでに長年のつき合いでわかっているのか、呆れてはいるが仕方ないと声をあげて答えてくれた。

「あっ、よかった居た」
 探してたんだよあんたと声をかけられて、振り返っていたのは顔馴染みになってしまった美術科の学生で、どうしましたと聞き返すと、最近コルサは学校来てなくてさ、それで部屋から今朝すっげえ音がして、なんか怖くなってさと言う。
「学校も来ないし、先生も知らないって言うし、あんたなんか聞いてない?」
 最後に会ったとき、締切の直前だからしばらく作業に集中したいと言っていた、自分も課題などに手を焼いていたからここ二週間ほどは、おそらく顔を合わせてはいない。だから彼になにがあったのかは知らないと言えば、そっかと力なくつぶやく。
「最近のコルさん、どんなかんじでした?」
「いつも以上に殺気立ってるっていうか、締切前は確かに誰かしらピリピリしてるもんだけど、そういえばアトリエで揉めてたけど」
 たまにあるんだよ、あいつのアラームがうるさいって苦情がさ。オレなんかは時報だと思って助かってる側だけど、チャイムがあるんだから充分だろって文句つける奴と言い争いになって、それでおまえのような価値のないものばかり作る奴に、邪魔されたくないって。
「そんなことを」
「オレじゃないぞ、そういう奴がいるってだけ。そもそも誰もあいつの作品を本気で貶したりできないんだ。コルサが評価されないようじゃ、オレたちなんてもっと無理だって、なんとなくわかってる」
 だからこそあいつにいなくなってほしいって思う奴はいる。
 その話を聞いて頭をよぎったのは、初めて会った日の悲しみに囚われたあの姿、なにか自分でも抱えきれないような感情に飲まれたか。さっと全身に冷や水を浴びせられたような感覚が支配される。
「同じ学科の奴でも見ないくらい、あんた頼りにされてるからオレたちに変わって、様子見てくれたら助かるんだけど」
「もちろん行きます!」
 大きな不安を抱えたまま午後の講義もなにも放り投げて学校を飛び出すと、彼の下宿先へと一直線に向かった。
「コルさん、コルさんいますか?」
 固く閉ざされたドアを強く叩き中からの反応を待つ、なにかを引き倒すような音が響き、ドアノブを激しく揺らすようにして中から鍵を開けると、ゆっくりとドアが開いた。
「ハッさん?」
「はい、突然押しかけてすみません、コルさんが学校にいらっしゃってないと聞きまして」
 期限も近いのにどうしたのかと心配になって、そう言うと見開かれた彼のグリーンの目から、大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
 あっと声をあげる前にその場にヘタリこんだ相手の向こうに見えた部屋は、それは酷い有様だった。前に見せてもらった試作品たちは床に引き倒され、貼りつけてあったスケッチ画たちは乱雑に破り捨てられている、狭い室内でサザンドラでも暴れたかのような恐ろしい惨劇を、彼は一人で引き起こしたらしい。
「コルさん怪我はしてませんか?」
 無言のままで首を振る、部屋の隅で転がっているモンスターボールの中では、彼のポケモンたちが怯えたように震えているのが感じ取れる。そんな彼等を拾いあげてもう大丈夫ですからねと声をかけカバンに収めると、申しわけないですがウチに行きましょうと声をかけた。
「でもハッさんの、授業は」
「そんなもの構いません!」
 歩けますかという問いに力なく首を振るので、それならばと細身の青年に着ていた上着をかけて、フードを被せて顔を隠すとそのまま抱きあげる。
「ハッさん?」
「行きましょう」
 今ここに彼の身を置くのは危険だと判断し、玄関先に置いてあった鍵でドアを施錠すると、そのままアパートを出て現在の自宅へと走る。周囲の人の目も気にせずに往来を行く間も、抱きかかえた相手の涙は止まらず、声を押し殺して泣く相手に大丈夫ですよと声をかける。
 なんとか自宅に戻って来て、一度通したことのある居間の古いソファに彼をおろすと、コーヒーでも淹れますねとキッチンへ向かう、途中で思い出した彼のポケモンたちが入ったボールをそっと別の部屋で開けると、怯えた顔でこちらを見つめる皆さんに、コルさんのことは小生に任せてくださいと声をかける。
「元気になるように話を聞いてみますから、どうか彼のことを見守ってあげてくれませんか」
 お願いしますと頭をさげるも部屋も隅に肩を寄せ合う彼等を見て、もう少し早く気づいていればと後悔する。しかし過ぎたことはどうしようもない、とかく彼等を安全な場所でゆっくり休ませることにし、インスタントコーヒーをたっぷりのミルクで割ったカフェオレを手に戻る。
「ブラックは口にするには辛いかと思いまして、甘いものはきらいではないでしょう?」
 湯気の立つを一口飲み、ようやく一息つけたのか表情が緩むのを確かめて横に腰かけると、すみませんと涙を滲ませて謝られる。
「どうして謝るんですか?」
「あまりにも情けないところばかり、お世話になりっぱなしで」
 なにも役に立ててない、偉そうな夢を語ってみてもこの手はなにも掴めない、そんなことはないですよと背中を撫でると、いいやはなにもできないと再び声に涙が混じり始めた。赤く腫れた目元を擦る手を押さえて、なにも言わなくていいので今は休みましょうと声をかけるも、首を横に振られる。
「休んでいる暇なんて」
「いいえあなたには休みが必要です、家から出ることもままならないのでしょう?」
 違いますかと聞けば答えられずに無言を貫かれる、泣き腫らしてわかりにくいものの顔色もよくない、そもそもあの家でまともに横になって休めたとも思えない。食事も睡眠もしっかり取れてないでしょう、元から少し不健康な生活を送っていたのに、頑張りすぎて縁まで溢れるくらいに満ちていた感情が、堰を切って破壊し尽くした結果があの部屋の惨状ではないか。
「小生はあなたがこれ以上、ボロボロになっていく姿を見たくないのです」
 自分のワガママかもしれない、でも大事な人が傷つくのを黙って放置していたくもない、どうかそれを受け入れてくれないでしょうか。
「本当に、変わった人だ」
「知っていますとも」
 初めて会ったときから変な人だ、おかしなくらい優しい人だ、そんなことをされては困ると言いながら擦り寄ってくる、どんなことを言われても構わない。震える相手を抱き締めて落ち着くのを待つ、少し体温の低い相手が落ち着いて息を取り戻すのを待つ。
 うつらうつらと頭の揺れる相手に、眠いならベッドを貸しますよと告げると、緩く首を振ってしばらくまともに眠れないから、いいと断られる。
「眠るのが怖いんだ、暗闇が落ちてくるようで、そうやって目を開けて待っていると、手にした色が襲ってくるようで」
 頭の奥がずっと痛いと覇気のない声でつぶやく、それでも眠らないと体も心も休まりませんよと頭を撫でて返しても、駄々っ子のように首を横に振るばかりだ。
「ここが落ち着く」
「そうですか」
 あんまり体勢としてよろしくはないんですが、そう仰るならこのまましばらく休んでいいですよと言えば、甘すぎるとぼやいてみせたもののしばらくして軽く寝息が聞こえてきた。きっと疲れているんでしょうけれど、それだけではないのかもしれない。
 様子を見に来た彼のポケモンたちに、大丈夫ですよと笑顔を向けると恐々としながらもそばに寄り、浅い眠りの中にいる主をうかがう。心配そうな声を向けるもの、眠ってくれたことに安堵の表情を浮かべるもの、全員が共通してコルさんの身を案じてくれていたのはわかった。

 

 翌日、頭がふらふらするとぐずる相手をなんとか説得し、病院へと連れて行った。このまま放置して自然回復するものではない、正しい知識を持つ機関の治療と薬が必要だと思ったからだ。
「本来であればご家族に説明をするものですが」
 彼が頼りにしてくれるのはあなただと言うのでと、診察の場に立ち会うことを許してくれた医師に感謝し、彼の心に巣食う病魔について説明を受けた。
「家族ないし周囲のサポートなしに回復するのは難しいものです、表面に現れて動けなくなるころには、かなり重篤な状態に陥っている人もいます」
 まだ入口でしかないのかと恐るコルさんに、治るものですよねと改めて確認すれば、そのために我々がいますからと医師は言う。
「周りのサポートは、医療機関も含みます」
 ただよくなるための一番の薬はまず休息です、学生さんであれば一定期間は休学をお勧めしているのですが、と言われたところでそれはと目を伏せてつぶやく。
「今の状態で学校へ通い続けるのは危険です、ひとまず今抱えているものを一度端に置いて、体の調子を取り戻すことから始めてください」
 ひとまずは安定した睡眠と、心を落ち着かせるための薬、処方されたそれを正しく使ってほしいと注意を受けている間も、ぼうっとしているコルさんに帰りましょうと声をかけるも、なにも返事がないのを心配して表情をうかがえば、これからどうしたらと薄く涙を貯めたままつぶやくので、まずは先生の言っていたとおり休みましょうと声をかける。
「それで治らなかったら」
「治るものだと言ってました、そのために必要なことをまずしましょう」
 生きていれば急な病にかかることもある、あなたのもその一つです。受け止めるのにも時間は必要ですし、まずは落ち着ける場所でゆっくりしましょう。
「なら帰る」
「あそこまだ片づけてませんし、一人では危ないと先生も言ってたでしょう」
 ご実家に帰られるのなら、準備しますかとたずねればそんなことをしようものなら、学校を休むどころか退学しろと迫られかねないと首を振る。無理を言ってここまで来たのに、なにも成せないまま戻るわけにはいかないのだと言い張るので、それならばしばらくは小生の家にいますかと聞く。
「それは、ハッさんにただ迷惑をかけているだけだ」
「今更ですよ、そもそも薬の管理も必要でしたし」
 幸運なことに借りた空き家は一人で住むには広い、ドラゴンタイプとの共同生活なので小うるさい可能性はあるものの、割れた破片や生み出すべきだという執念に囲まれたあの部屋よりは、多少は落ち着くでしょう。
「あなたがその状態では、ポケモンくんたちも困るわけですし」
「確かにそうだが」
 別に一人くらい増えたってこちらは構いませんよ、少しだけ気にかける相手が増えるだけで、負担というわけでもない。
「そこまで言うなら、少しの間だけお世話になります」
「はい、よろしくお願いします」
 そのままの足で診断書を手に学校へ休学の届けを出して、思ったよりもすんなりと受理されていった、お叱りの言葉を向けられると覚悟をしていたコルさんとしては、担当教授からのまずは体を優先しろという反応に、肩透かしを食らったと。
「厳しい先生なもので、普段はあんなことを言う人ではないのだが」
「学生の身を案じてくれないかたが、教職に就くものではありませんよ」
 若者を指導しようと志した人ならば、本当に苦しんでいる相手に叱責など飛ばすものではない。
「無理は厳禁です、もう今日は帰りましょう」
 彼を非難した誰かにまた心ない言葉を向けられるのを避け、早々に帰り。彼と共同生活をするのならばと、空いている部屋を掃除してそれだけで終わった。
「このまま、治らなかったら」
「そんなこと言わないでくださいよ」
 不安げに揺れる瞳を前に、心を病むということの苦しさがどれほどのものか、自分はまだ理解していなかった。
 彼の苦しみはまだ入口にすぎなかったのだと。

あとがき
思ったより長くなってしまったので、キリのいいところで区切りました。
コルサさんの話から、病気になった時期と知り合った時期がちょっと曖昧なんですけど、少なくとも気の許せる大事に友人という関係なくして、献身的な支えは無理だろうということで先に出会いがあったことにしました。
パルデアに芸術大学があるかは不明ですが、あったらいいなと思って書いてます。
次回、めちゃくちゃ鬱の袋小路になったコルサさんの回です。
2022-11-29 Twitterより再掲
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