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 いいえ

いつか陽の当たる場所で笑えるなら・2

「ただいま帰りました」
 そう声をかけても中から迎えの声があるわけでもなく、薄暗い部屋の様子を眺めると今朝と同じ、体を丸めて頭を抱えたコルさんがそこにいる。
「コルさん」
「ん」
 昼食は食べられましたかと聞けば緩く首を振るので、少しだけでいいので夜は食べてくれると嬉しいですとだけ言って、部屋の戸を閉める。
 心配そうに様子をうかがいに来たミニーブくんに、大丈夫ですよと声をかけて自分はキッチンへ向かう。固形物を食べる気になれないのならば、せめて缶詰でもいいのでスープでも買い置きに増やしておくべきだろうかと考える。
 すでに彼がここへ来て二週間、治療の進捗は芳しいとは言えない、むしろ考える時間が増えたことで症状が悪化しているようにも映る。芸術を奪われたならなにも残らないと、たまに無性に外へ飛び出そうとするのを抑えこんで、今は休むことに専念するようにと何度も言い含めている。
 あんな状態の彼に彫刻刀を握らせるのが怖くて止めたんだが、せめてスケッチブックだけでもとお願いされて、そこまで取りあげるものでもないかと差し入れはしたものの、思ったように手が動かないと泣き崩れて終わった。
「自分の評価や年齢、将来を憂いて心を病む学生というのは、毎年一定数は出てくるものです」
 医師として喜ばしいことではないけれど、だからこそ自分のような者がいると病院の先生は言っていた、実際にここに通う者がいるからこそ、学校側も対応が早かったんだろうとも。
「とはいえ心の治療というのは、一筋縄ではいきません」
 不眠だけならばポケモンの力を借りるという手もありますが、彼の抱えるものの大きさに比例して、重くのし掛かるものと覚悟されたほうがいいかと。
「覚悟というのは」
「症状にもよりますが、心の病から逃れるために本人が取る行動の一つが、自殺です」
 多くの患者を見てきましたが大なり小なり、行動に移るまで至らなくとも考えてしまう人が多い、消えたいという衝動のままに実行に移す人ももちろんいます。
「止める方法はないんですか?」
「心の動きによる衝動的な行動を、薬で抑制できるものでは」
 だから手遅れになることがないように、行動や発する言葉には気をつけたほうがいいです、あなたも一人で抱えるべきではない。そうやって誰かに肩入れした結果、二人して共倒れするなんて事例も数えきれないほど見てきたと、先生は言った。
「今日も留守番をしてくださって、ありがとうございます」
 気にするなとでも言うように小さく鳴くカイリューの頭を撫で、夕飯の用意でもしましょうかとつぶやく。
 流石に自分まで学校を休み続けるわけにもいかず、手持ちの中から特に大柄なカイリューや、隠密行動の得意なオンバーンを家に残して様子を見てもらっている。特に今のところは心配していたような行動はないものの、気を抜いてもしものことがあったらと思うと、思わず身震いしてしまう。
 彼を失うことはなんだか非常に恐ろしいのだ。理解者というよりはもっと得難いなにか、光なくして枯れ落ちてしまうのではと心配になる、自分の手が届かない場所へ旅立ってしまうのはなんとしても避けたい。
 そんなことを考えながら簡単に夕飯を作り、幼いころから親しんだドラゴンタイプのポケモンたちに加えて、コルさんの家から連れて来た草タイプの子たちを加えた大所帯での食事の席に着く。今日も主が現れないことに不安そうな目を向けていたものの、きっと大丈夫ですよと一人ずつ頭を撫でてあげると、ややあってから自分の皿へと向き合う。
 自分たちも撫でろと主張してくる自分の手持ちのポケモンたちに構って、少しだけ冷め始めた食事に手をつけて、いつまでも彼を飼い殺しできるものではないぞ、という声を聞かなかったふりをする。
 わかっているのだ、本当ならばご家族の元へ帰るべきなのだと、本当に彼の身を案じるのであれば一番安全な場所はここじゃない。それを言い出せないのは、帰ればそれで終わりだと苦悩した彼の、芸術家としてありたいと叫んだその意志を、どうしても傷つけたくなかっただけ。
 それで救われているのかはわからない、外の音が怖いと塞ぎこんでいることも非常に多い、ここまで無気力となってしまっては対話もなかなか叶わない。
「いけませんね、小生まで悪いほうに考えてしまっては」
 気分転換でもしましょうかと夕飯の後片づけを終えて、ギターを取り寄せるとソファに座って調整していく、弦をピックで弾くと柔らかく心地いい音が響くのに、少しだけ気分があがってくる。
 しばらく好きに弾いていたところ、静かな足跡と共にそばにやってくる音が聞こえて振り返る。
「うるさかったですか?」
「そういうわけじゃ」
 夕飯は用意してるんですが食べますかと聞くと、まだいいと首を横に振って少しいいだろうかと隣に腰かけ、両足を抱えるようにして座る。
「ハッさんのギターは、柔らかい音がするな」
「そうですか」
 嬉しいですと返せば、音楽については門外漢もいいところだし合っているのか自信はない、と言い出した本人がつぶやく。
「実はみなさんの持っているギターとは少し違うんです」
 いわゆるアコースティックギターに分類されはするのだが、これはパルデアの伝統楽器のギターなので、ちょっとだけ出る音に差があるのだけど、前にも話しましたねと思い出して恥ずかしくなる。
「ギターを弾くときに使っているそれ」
「ピックですか?」
「変わっているなって、前から思っていて」
 光の元で見るとたまに光沢のようなものが、光っているのが見えるから、どんなものだろうと思っていてと続くので、実はドラゴンポケモンの鱗を加工した物なんですよと答える。
「鱗を」
「はい、今のようにプラスチック製のピックはなかったので、手に入る物の中から固く演奏に向いている物を加工して作っていて」
 今ではすっかり数を減らしましたが、まだ作ってくださるかたが居まして、小生にはこの音色が一番馴染みがあって好きなんです。
「家族からは遊びの域を出ないものなどやめろと、何度も強く叱られましたが、好きなんですよ」
「ああ、確かに透き通って柔らかい、ハッさんらしい音だ」
 もう少し聞いていたいと隣からリクエストされるので、あなたがそう言ってくれるならとギターを抱え、軽い気持ちで曲を演奏していると彼の視線が手元に向けられているのに気づく。 「気になりますか?」
 持っていたピックを差し出すと、両手で包んでから光にかざして色が変わる鱗の模様を眺める、よほど気に入ったのだろうと思って差しあげますよと言えば、慌てたように受け取れないと突き返される。
「いえ消耗品なので、いくつか持っているんです」
 一つくらいどうってことではない、それに一度やってみたかったのだと言うと、不思議そうに首を傾げるので、ギタリストがファンに向かってピックを投げ入れる、そんなパフォーマンスというかファンサービスがあるんだと伝える。
「そういう派手なことをできるような身分ではないので、初めてですよ観客に差しあげるのは」
 なので受け取ってくださいと伝えると、そこまで言うのならと大事そうに両手で包んでまだ眺めているので、少しだけ恥ずかしくなってくる。
「ドラゴンポケモンの鱗なんて、こんな近くで見たのは初めてで」
 水ポケモンなら多少はあるが、似ているようで違うものだなとつぶやく相手に、薄さや強度が異なるんですよと返す。
「少しだけ元気が出た気がする」
「そうですか」
 うんと小さく頷く相手に、なにか食べれそうですかと問いかければ、少しだけならばと答えてくれるので、夕飯を温め直して彼の前へ差し出す。ノロノロとした動きで口へ運んでいく姿を見て、無理して全部食べなくてもいいですからねと言い置く。
「せっかく作ってくれたのに」
「残りは明日にでも食べてくれたらいいんです」
 少し痩せてきているように見える彼に、もっと食べてほしいと言うのは簡単なものの、こんな日常の所作一つでまた追い詰めるようなことをしたくもない、どうしたらいいものかと小さくため息を吐くと、そばに寄って来たチュリネくんが服を引っ張るので、どうしましたと目を向ければ、彼女は両手に持ったきのみを差し出してくる。
「コルさん、きのみ食べますか?」
「もうこれ以上は」
「少しだけ、チュリネくんが食べてほしいみたいで」
 一口だけでいいからと言えば、本当に一口だけだぞと渋々といったように承諾してくれるので、果物ナイフで皮を向いて食べやすい大きさに薄く実を切り分ける。甘い香りのするモモンの実を一切れフォークで差し出すと、しばし迷ってから口を開けてそのまま一口大に切り分けた実を食べる。
 薄く開いた口から覗いた舌の赤さと、上目遣いにこちらを見あげる相手のグリーンの目に、体の奥から急激に熱く震える。
「甘いな」
「そっか」
 でも美味しいと小声で続くので、それならばよかったと笑顔で返せば、もう少し貰ってもいいだろうかと聞かれる。
「もちろんです」
 自分で食べますかと聞けば、もう少しこのままでと次をねだられる、弱ったなと思いつつも珍しく食欲があるなら拒否もできず、二切れ目を差し出すと雛鳥のように口を開けて食べる。
 ただ動くのが辛いだけなのか、それとも甘えられているのかわからないものの、ここまで近づかれると心臓に悪い。
「ちゃんと味がある」
「小生の料理、そんなに薄味ですか?」
 そういうわけじゃなく、食欲がないのと比例して食べ物の味がよくわからないのだという、だからハッさんのせいではないと首を振る。味気がないと食欲が失せるのはなんとなく理解できるので、食べられるものを口にされるのがいいと思いますよと、もう一つ切り分けたきのみを差し出すと、緩慢な動きで頬張っていく。
「悪いが、もう」
「いえいえ、少しでも食べてくれると嬉しいものです」
 そばで見ていたチュリネくんも喜んでます、そういえば持たせていたんだったなとつぶやく、貰ってよかったのかとたずねている相手に、食べないで弱っている姿を見たくはないんですよと指摘する。
「きのみで元気になるという考えも、ポケモンくんたちらしいですね」
「ああ、心配かけてすまない」
 必ず治してみせるからなと手を伸ばしてチュリネくんの頭を撫でれば、久々の主からの優しい接触に声をあげて喜んでいる。そんな微笑ましい姿を眺めて、たまには外に出るのも大事だと思いますよと返す。
「それは、わかるんだが」
「無理にとは言いませんよ、ただ皆さんと一緒に日光浴くらいしてみてもいいのでは?」
 陽の光を浴びるのは健康にいいそうですし、草ポケモンの皆さんは喜んでくれると思いますと言えば、それくらいならとつぶやく。
 日光浴を勧めたのは悪くない案だったらしい、日中に窓辺に座ってコルさんとポケモンたちが陽に当たっていると、少しだけ気分もあがるし体調がよくなっている気がすると語っていた。
 回復の芽が見えて症状も安定してきたのか、スケッチブックに向き合う姿も少しずつ見えるようになってきた、前に比べて筆の進みが遅いと本人は不服そうではあるものの、スケッチブックの消費ペースは早くなっていってるように見える。
 チュリネくんやミニーブくんが、自分について外へ出ることもあった。きのみなら口にしてくれるとわかって、外で新鮮なきのみを拾ってくるために学校や周辺をついて歩く。鳥ポケモンや虫ポケモンに襲われることもあるが、それでもコルさんのために頑張っている姿を見て、自分が心を折れるわけにはいかないと思いを改めさせられる。
 最初にきのみを差し出したときに癖づいてしまったのか、きのみを差し出すときに小生の手ずから食べさせてもらうのがいいらしい。これは少し困る、卵から孵ったばかりのポケモンであれば、まだ一人で食事もできないのでそういったことはしてきて多少は慣れはある、だが人に対しては別だ。
 本人はあまり自覚がなさそうではあるものの、彼本人も容姿に恵まれているほうだ。作品に向き合う真剣な顔ではなく、弱りきったトロンとした目で見あげられると、眩暈がしそうなほど頭が揺れて胸が締めつけられる。自分のことを慕ってくれているにしても、ここまで無防備に全てを預けられてしまったら、なんだか恐ろしくなってしまう。自分がなにか、彼にひどいことをしてしまいやしないかと。
 今はまだ抑えが効いている、けれどこの先はどうなってしまうだろう。彼を抱えこんでからどうも自分も湿っぽい感情に支配されている、それではダメだと思うのだけど、彼のことを考えるほどに胸が苦しい。
 どうすれば、未来のあなたは笑ってくれるんだろう。
 このまま自然と回復してくれればと、切に願っていた矢先にそれは起きた。

「ただいま帰りました」
 いつもと同じ挨拶で家に帰ると、中からガタガタと暴れる足音と離せと叫ぶコルさんの声に、慌ててキッチンまで走って向かう。ここまで出揃っていればなにがあったかは想像がつく、料理を除いて彼が刃物を持ったときには止めてほしいと、強く言い聞かせておいた通りカイリューが両手で抱き締め、その場から動かないようなんとか押さえつけてくれていた。
「コルさんなにを」
「ハッさん」
 呼びかける声に気づいてさっと顔色が青くなる、なにをしようとしたんですかと努めて優しい声で呼びかけたつもりだったのだが、あっと震えながらその場にへたりこむので、一度こちらも深呼吸してまず落ちていた包丁を取りあげる。
「ダメですよコルさん」
「どうして」
 自分を責めるのも傷つけるのも、嬉しくないのです。だってワタシにはなにも価値なんてないと、涙目で訴えかけてくるものの、そんなことないですよと否定して震える体を抱き締める。 「やめてくれハッさん、ワタシにはそんな価値はない」
 なにもできない、なにも描くことも作り出すことも生み出すこともできない、ただ黙って死を待つばかりの身のうえで、あなたに迷惑をかけ続けるくらいなら、いっそ。
「死のうと思ったんですか?」
「そうすべきだ!」
「ダメです」
 小生はあなたに生きてほしくてここに連れて来たんです、自分から命を投げ出さないでください、でもとまだ言い募る相手にあなたがいなくなると悲しくなります、だからそれだけはやめてくださいとお願いする。
「どうして」
 涙混じりに死にたいのだと強く訴えかける相手を抱き締めて、それだけはやめてくださいと言う、言い争いは平行線を辿り続けて、泣き疲れた相手が腕の中でぐったりと身を預けるに治ったので、今日はもう寝ましょうと声をかけて抱きあげる。
「明日になれば少しは気分もよくなりますよ」
「いやだ、眠りたくない」
 夜が落ちてくるとうわ言のようにつぶやく相手に、一人が怖いなら小生が一緒にいますよとベッド横に座って、力なく垂れた彼の両手を握りこむものの、すぐに振り解かれてしまった。
 一人になりたいのだろうかと思った直後、ベッドの奥へ体を移動させて少しだけ空間を作ると、手招きされる。
「コルさん?」
「そこじゃ固いし、寒いだろう」
 ハッさんには少し狭くて申しわけないが、ここなら少しはマシだ。
「小生と一緒では、むしろ息苦しいのでは」
「ハッさんのそばは落ち着く」
 また死にたいと言い出すくらいなら、捕まえていてくれと泣いてしゃがれた声で言うので、そこまでおっしゃるのならばと緊張しつつもベッドの上へあがり、隣へ横になると両手伸ばされ絡みつくように抱きつかれる。
「コルさん!」
「抱き心地のいい体じゃなくてすまない」
 そうは言ってないですよと返すも、擦り寄ってくる相手は丁度いい位置が定まったらしく、深い安堵の息を吐く。自分はこの緊張が触れてくる指を通して勘づかれるのでは、と気が気ではないのに。全ての衝動が自分の内に向いているらしい相手は、一人でいるより温かいとボソリとつぶやく。
「そうですか」
 自分の使うドラゴンタイプのポケモンたちも、寒く慣れば懐に入ろうとしてきたものだ、自分では寒がりだと思っているものの体温は高いと指摘されたこともある、彼も同じようにただ優しい温度を求めているだけだろう。
 グラグラと揺れる頭が浅い眠りについたのを見て、どうか安らかな夢を見てくださいねと心の中だけで語りかける。
 深く下ろされた瞼にキスを送るのは、流石に踏みとどまった。

 コルさんの心の動きはわからない。昨日は日向で静かに絵を描いていたのに、今日は不安でスケッチブックごと破り捨てていることもある、死ぬべきだと飛び出そうとしたことも一度だけではなかった。
「無気力から回復し始めたころほど、自殺への衝動が湧きやすいものなんです」
「そんな」
 どうしてそんなことが起きるんですかと医師に尋ねれば、なにもできない状態というのは全ての行動が億劫なので、自殺をしようとする衝動もあまりない。それが回復し始めると、なにもできない自分というものを責める心が生まれ、体も動かせるようになるものだから行動へと移り始めるのだと。
「どうすれば止められるんでしょう」
「まずは彼の感情を受け入れてください」
 死ぬことを肯定してはいけないのではと指摘したら、ただダメだというよりは辛いのだと認めてあげるほうが効果があると言われた。共感してもらえると思えばその先の感情を聞けたりもします、行動のトリガーがわかれば注意することも見えてくる。
「そういうものですか」
「生きているだけで常に人の何倍も負荷がかかっている状態です、目まぐるしく変わる感情に彼自身が振り回されているとも言えます」
 どうかそこはご理解を、そしてあなた一人で抱えきれる問題ではないと思ったら、頼るべき先にしっかりと連絡したほうがいい。
「彼のご実家からはなんと」
「芸術家なんてなるべきじゃなかったのだと、そんな連絡がありまして」
 叱責されてなにも言い返せないまま、震える彼に変わって症状が酷いのでとなんとか断って電話を切ってからは、一度も連絡をしていない。
 とはいえ口先でなにを言っても家族なのだから、きっと受け入れてはくれるでしょう、しかしコルさんはおそらく芸術の道を閉ざされてしまう。それはいやだ、なら死んだほうがマシだと叫んだので、そこに泣きつくのは最後の手段だとは思っているけれど。
「あなたはどうなんですか?」
「小生ですか」
「芸術家という職業は、並の仕事とは住む世界がそもそも違うでしょう、その世界に彼が身を置き続けることが本当にいいことだと思いますか」
 その決断は彼の命運を握っているかもしれません、将来的な成功ではなく文字通り生命をかける分かれ道と言えます、一歩選択を誤ったら明日を閉ざすかもしれない。それでも彼の意志を尊重すべきですか。
「それは」
 仮にこれで彼が芸術への熱意を失ってしまったとしても、それでも構わないという気持ちがないわけじゃない、自分はただコルサという男に生きていてほしい。
 でもそれは正しいのだろうか。
「決断するのはまだ遅くはないと信じてます、ただ彼とよく向き合ってみてください」
 今日はここまでと診察室から出て受付に戻ると、長椅子の端に座ってずっと俯いているコルさんが目に入った。話は終わりましたよと声をかけるとのろのろと顔をあげて、そうかと覇気のない声でつぶやく。
「帰りましょうか」
「ああ」
 行きましょうと手を取るとなにか固い物が指に当たる、なんだろうかと広げて見てみると、以前彼にあげたギターピックが電灯の光を反射して美しい光沢が揺れる。
「持ち歩いてるんですか?」
「見ていると安心するんだ」
 おかしいだろうかと不安げにたずねる相手に、いえお役に立てているのなら嬉しいですよと笑顔で返す。
「そうか」
「はい、落とさないように気をつけましょう」
 帰ったらギターを出そうかと言うと、ぜひ聞きたいと緊張で強張っていた表情が綻ぶので、それでは寄り道はせずに帰りましょうと声をかけて隣を行く。
 特になにか話をするでもなく相手を見つめて、しばし考える。自分の隣ではなくて、もっと居るべき場所があるんじゃないかと、こうして繋ぎ止めておくのに相応しい人が、彼に近くて理解できる誰かがいるのではないか。
「ハッさん」
「どうしました?」
「ワタシは、ここに居ていいんだろうか」
 思っていたことを探り当てられたというわけではなく、診察の際に先生から家族の元へは帰らないのかと聞かれて、丁度これ以上の迷惑をかけるわけにはいかないと思っていたのだと、細々と口にする。
「小生は迷惑だなんて」
「そうは言っても、あなたに負担をかけているのは間違いない。こんな自分を見ているだけでも情けないというのに、誰かに迷惑をかけてまで意地を張るわけには」
 実家に帰ることは一つの道だ、父には頭をさげることになるものの、今更それを恐れてはいけない。これ以上、あなたを巻きこまないためにも。
 はっきりと口にされた諦めの言葉に、心臓を掴まれるほどの痛みが走るものの、それがあなたの決断だというのなら、ワタシに止める理由はありませんねと震える声で返す。
「戻るというのなら、あの部屋を片づけなければ」
「それは明日にしませんか、今から行くともう暗くなってしまいますし」
 明日は休みですし小生も手伝えますからと言えば、なにからなにまで世話になったなと、いっそ晴れ晴れした声で言われてしまって、なんだか寂しくなってしまう。
 でも彼の決断は間違っていないはずだ、そう信じて送り出そうと決めてこの地でできることは最後までつき合うと、笑顔で告げる。ちゃんと笑えていたのかはわからないけれども、特に指摘はされなかった。

 翌朝、三ヶ月以上ぶりに戻ったコルさんの部屋は薄暗く、相変わらず極彩色が砕け散り描いた夢の形は破れ落ちている、飛びこんだときには気づかなかったものの作品だけでなく皿やカップなど、日用品の多くも床に散らばり感情の爆発の大きさが目に映る。
「これはひどいな」
 でも反対に片づけるのは簡単だ、全てゴミでいいからなと冗談めかして口にしているものの、声が引き攣っているので無理はしなくていいですよと彼の背を撫でて返す。
「ワタシは、なにをしてきたんだろうな」
「コルさん」
 芸術にこの身を捧げると決めて、理解なき田舎者たちを馬鹿にして飛び出して、結局はなに一つも誰かの記憶に残る作品を生み出すこともできず、ただただゴミと化していき、こうして埃を被っていく。まさに今のワタシそのものじゃないか、誰にも必要とされずに燃やされてチリと化す。
「そんなこと言わないでください」
「でも本当のことだ」
 なにも成せないまま終わったんだと、倒れていた試作品を乱雑に掴んで足で踏みつけて半分に折る、バキッという甲高い音を立てて粉々に崩れていくのを眺めて、彼の顔が痛々しく歪むのを見てやめてくださいと押さえにかかる。
「離してくれハッさん」
「やめてください、そんな、踏みつけることはないでしょう」
 これではあなたが傷つく一方じゃないですか、そんな痛みばかり背負いこんで、ボロボロになっていく姿はもう見たくないのだ。
「なんでだ、なんの価値もない奴なんて放っておけばいいだろう」
「できません、そもそも価値がないなんて思ってないですよ」
 嘘だ、なんの役にも立たない、無価値な男だろう、そうだって言ってくれ。
「そんなことありませんよ」
「やめてくれハッさん、もういっそ見放してくれたほうが楽なんだ」
 あなたの優しさすらもう痛みにしか感じられない、無能の役立たずだと罵られて、放り出されたほうがいっそ楽になれるのに、未練もなくこの世から消えられるのに、なんでそうしてくれないんだ。そんな悲痛な声に嗚咽が混じり、埃を被った床へ大粒の涙が落ちていく。
「できません」
 いつだったか出会ったその日も、彼はこうして傷ついていた。叫び出したい感情の姿がわからずに、ただ目の前で自分を傷つけ続けて、そんな痛ましい姿を見てどうしても放っておけなかったんだ。
 息を飲むほどに嘆きに叫ぶあなたは美しかった。でもすぐにでも消えてしまいそうだったから優しくしたのです、あなたが自分自身を愛してくれるように、大切にしてくれるように、この地に根を張って再び咲き誇ってくれるように、手を差し伸べたのもそばにいたのも全部、お節介ではなくてただ自分がそうしたかっただけ。
「小生はコルサという男を愛していますので」
 芸術家ではなく、ただ一人の人として愛おしく思っているので、そんな相手を傷つけることは自分には到底できない。あなたを害する全てから守ることだけを考えて、明日を穏やかに生きることを望んで、見守ろうと決めていたんだと告げる。
「えっ」
 唖然としたように目を見開いて固まるコルさんに、嘘ではありませんよ、本当は告げるつもりだってなかったんですと続ける。すでに暴れる力もなく、ただ驚いて下手りこんだ相手の両手を取って、正面から向き合う。
「コルさん、帰るというのは嘘でしょう?」
 この世に未練がないなんて死に行く者の言葉だ、あなた小生から離れて死ぬつもりなんでしょう、この手から逃れてどこか遠くへ行ってしまうつもりだったんでしょう。
「そうするしかないんだ」
「本当に、それしか道はないんですか?」
「居場所など、どこにもない」
 心の病など存在しない、気が狂った人間を受け入れてくれるような場所じゃない、疫病神の狂人と恐れられるだけならば、後悔なく死ねると震える声でつぶやくので、それなら帰るべきじゃないと断言する。
「じゃあどうしたらいい」
「そうですね、いっそ逃げましょうか」
 どこへと首を傾げる相手に、どこか遠くまで一緒に行きましょう、あなたにまとわりつく死の影が辿り着けないほど遠くまで。
「そんな場所あるわけが」
「そうかもしれませんけど、行ってみないことにはわかりませんですよ」
 これは小生の我儘です、なんとしてもあなたの手を離したくないだけで、断るというのならば恋破れた男に止める権利はないのです。
「どうしますか?」
「狡いぞハッさん、愛を盾に取られて誰が断れる」
「ご存知ないんですか、竜とは狡賢い生き物ですよ」

あとがき
次回からようやく、ハッサク先生とコルサさんの逃避行編です。
ハッサク先生の音楽って、なんとなくロックではない気がしたので、アコースティックギターです、今作のバトルBGMのギターが好きなのもあります。
余談ですが、ハッコルは合法的に監禁できると無駄にテンションがあがりました。
2022-12-01 Twitterより再掲
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