月影のヴァルハラ
身を焦がすような恋よりも、ゆったり寄りそう恋のほうが長続きするという。
とはいえ、あいつは近づいてはいけない相手だったのだ。遠くにあって輝くもの、それがよかったんだろうと思う。
だから今でも好きだなんて言うべきではない。
「アニキって恋人の噂ないよね」
「まあそんな時間ねえんで」
キバナさんは噂になっとるよと言うので、ネットニュースを見るものの、それは完全にデマですよと返す。
「たとえ空が落っこちてきたとしても、ルリナはキバナとつき合ったりしません」
「そうなん?」
すごい話題になってるけどと言う彼女に話題になってることが正しいとは限らないんですよ、なにせ二人とも拡散されるだけの力がありますからね、面白いと思えばどんどん広がってしまう。たぶん次のジムリーダーの定例会議ではキバナの顔面に右ストレートが入るでしょう、彼女は仕事柄こういったゴシップに敏感なので。
どちらが悪いかはわかりません、張りこんでいた記者が業を煮やして交流のある二人で話をでっちあげたのかもしれない、となれば殴りこみされるのは記者のほうでしょうか。少なくともバウタウンのスタジアムは今頃きっと荒れているでしょう、また改修工事の費用で揉める姿が目に浮かぶ。おれはそんな内容で他人に話題提供したくないし、マリィを悲しませたり心配させたくないので、その辺の管理はしっかりしてます。
「ふーん、そういえばダンデさんも恋人いるって聞いたことないね」
「チャンピオンはジムリーダーよりずっと多忙です、それにあいつは生粋のバトル馬鹿なので、仕事が一番性に合ってるんでしょう」
なんでそんなことを、まさか好きな人でもと震えながら聞けば、アニキが心配やけん聞いたのと苛立った口調で返される。
「あたしたちを一番に思ってくれるのは嬉しい、けどアニキはそれで幸せなのかって」
「いいですかマリィ、周りの人が受け取っている幸せと、自分の幸せが同じとは限らないんです」
兄は恋人よりも大事なものがありますので、その辺は心配しないでくださいと言うと、そういうものなのと首を傾げる。
「恋人いないのに、ラブソング歌えるの?」
「今はね、いなかったとは言ってません」
それ聞いたことないんやけどいつと聞かれて、残念ですが秘密ですと彼女の頭を撫でる。兄貴としては恋愛事情を聞かせてやるのはちょっと複雑ですし、楽しい話ではないでしょう。
「じゃあ、マリィが大人になれば聞かせてくれる?」
「そうですね、お酒が飲めるようになったら聞かせてあげましょう」
それくらいの歳になればいい酒の肴になるでしょう、思い出話として聞かせられるくらいには消化できているでしょうし。
自分でも女々しいとは思っているんですが、未だに引きずっている感情がある。子供のころの話なのでと捨てるにはもったいないほどに輝いてる思い出であり、今もなおダンデはおれのことが好きだ。
マスコミが知ったらさぞかし脳天を撃ち抜かれるレベルか、それこそフェイクニュースだと笑い飛ばされるか、どちらだろう。
あの日からダンデは立派にチャンピオンであり続けている、まさか無敗伝説を築くとは思ってなかったんですけど、ヨロイ島にいる彼の師匠いわくダンデちんは特別な子だったんだろうねえと笑っていた。
「でも頂点って孤独なのよ、特別にそばで支えてくれる人がいるといいんだけどね」
「なら大丈夫でしょう、あいつ人好きのする性格してるんで」
それだけで充分なのかなとマスタードさんは言う、どういう意味ですかと突くのはリスクがあると思ったので沈黙を貫けば、きみは賢い子だけどときには素直であることも大事だよと、穏やかな笑顔で言う。
「あくタイプが素直に甘えてくるときは、大抵はなにか裏があるときですよ」
「確かにね、弟子たちもまずそこでつまづいちゃう」
あくタイプを極める道を選んだ門下生に対して、たまに指導に来てくれないかなと声をかけられる、専門のジムを構えているのと育成に関しては情報交換をしたいので、おれとしては断る理由はないので時間を見て訪問している。
ダンデも顔を出すときがあるらしいが、いつも唐突に来てはすぐ帰ってしまうからバッティングしたことはない。別にそれで困るってわけではないんだけど、マスタードさんがどこまでなにを知っているのかは気にはなる、とはいえ思慮深いお人なので、無闇に吹聴して回る心配はしていないけど、他人から見てバレるようでは困るのだ。
「まあいいライバルで居てあげてよ」
「その役目はおれより、キバナのほうが相応しいと思います」
ここ数年のリーグでの戦績は悪くないものの、決していいとも言い難い。ダイマックスでのバトルが主流の現代の環境において、使用しないというひねくれ者の流儀には逆風なのはわかっている。でもそこを曲げては意味がない、スパイクタウンを背負う者としての意味が。
「ネズちんは悪い子のフリしてるだけで、真面目ないい子だもんね」
「そんなことねえです」
「でも限界を感じてる」
違うかなと指摘され思わず目を逸らすと、別に引退した老いぼれなんだからなんでも相談してくれていいんだよと言う。この島だと他に情報が漏れることも少ない、それにぼくちんは色々と酸いも甘いも苦いも経験した大先輩だからねと、おちゃらけて口にするが、第一線に立つ者としてこれでもプライドは持っている。
とはいえ故郷を守るというのは想像以上に難しい、圧力に負けてはいけないこのスタイルをと固執していることが、本当は間違っていて愛する町の寿命を縮めているのではないかと疑ってしまう。
前のリーダーがこの重圧から何年も逃げようとしなかったのは、本当にすごいことだったんだと改めて尊敬する。あの人にはもう、自由に音楽を愛する道を進んでほしい。
「極める道は一つに定めたい、別にそれは悪いことじゃないと思うよ」
ジムリーダーをしながら音楽を作るのは、かなり大変なんでしょうと言われて、やはりかくとうタイプは苦手ですと肩を落とす。
「本音を言えば、確かに音楽に進みたい。ですが、おれを除いてジムと町を任せられる人はいないんで」
「そうやって気負いすぎると肩に力入っちゃって、首まで回らなくなってくるでしょ」
「ええまあ」
賢いちみのことだから、後継者についてはちゃんと考えてるんじゃないのと言われて、正直なところ妹のほうがバトルセンスはあると思ってますと答える。
「妹ちゃんに譲らないのかい?」
「彼女はまだ幼いです、こんな重荷を背負わせるわけには」
「町の代表としてはネズちんが、ジムリーダーとしての仕事は妹ちゃんに任せる、そういう方針もできないわけじゃないでしょ?」
それはと言葉を詰まらせる、確かに町の代表を兼任しなければいけないわけではない。前任者として管理をする者が居ても、まあ問題はない。というか本来はそうやって仕事を分けたほうがよかったのだと思う、そうしなかったのはただ都合よく自分を動かそうとしてきた人たちに、反抗してやっただけのこと。その後のことまで考えられなかったのだ。
「せめてツケを全部払ってからにしないと」
「それはいつになるんだろうね」
なんでも自分で背負いこんで、若い子が潰れちゃわないか心配になっちゃうよ。
「そういう意味だと、ダンデちんも背負ってるものが多すぎると思うの」
チャンピオンとしては正しいし、本人がまだ楽しんでその座に着いているからいいんだけど、一歩間違えるとなんだか危ない道を進んでいるようで、師匠としては心配が尽きないんだよ。
「なら、おれを責めたほうがいいです」
あいつにチャンピオンを降りるなと言ったのは自分だ、せめてこのガラルがまともに未来ある子供たちに、困難ばかり押しつける世界でなくなるまでは。正直なところ、あまりにも無理を言ったと後悔している。
どんなに頑張ろうとも、社会や組織っていうのは一人のスターの存在だけでどうにか変革できるようなものじゃない。実際、町のリーダー役だけでも投げ出したくなる自分とは比べものにならないほど、たくさんのしがらみが絡みついて首が回っていないんだろう。
ガラルのトレーナーレベルをあげたいと言っている本人が、一度たりとも推薦状を出していないのがいい例だろう。自分の名前を出すだけで、挑戦者となる誰かに過度な注目が集まってしまう。
もう進めないと泣きながら電話をかけてきたソニアのことを思い出してしまうのだと、せっかく祖母から推薦状を貰ったのに、バトルは大したことないと指を差されるのが辛かった、という彼女の言葉が刺さっているのかもしれない。自分のように誰もが強くはない、少なくともそんなことを考えられる程度に彼は大人になった。
彼が自由を感じられるのはバトルフィールドの上くらいでしょうか、よくワイルドエリアで迷子になっているのを保護されてるようですけど、まあそれはそれ。
「人生のやり直しはいつからでもきくよ、けどね若いに越したことないと思うの」
たっぷり時間を使って学んだから、後輩にはお節介でも話はしたいと思ったのよ。
「そういうの、余計なお世話って言うんですよ」
「まあまあ、老人の戯言だとでも思って、聞き流してよ」
そうですかと返した相手は、相変わらずニッコリと人のいい笑みを浮かべていた。
マリィからリーグ推薦状を断る理由がそろそろ尽きてきてしまった、先日のマスタードさんの話もあるし、彼女の本気と町やジムトレーナーたちの応援を止める術はおれにはなさそうだ、こういうものは流れ始めると止まらないんですよね。
ただしおれはまだ推薦状を出すとは言ってない、ローズ委員長は自分が定めたルールに従う人間には変に手出しはしないでしょうけど、まあ気に食わない。相変わらずスパイクタウンの移設について顔を合わせると提案されるので、それから逃げるのも疲れてきた。これにより今年も開会式のボイコットを決めて、妹のリーグ挑戦の要請をどうすべきかだけが手元に残った。
「ネズ少しいいか?」
急な連絡にどうしたんですとスマホの向こうにいる相手にたずねると、実は弟とその幼馴染の子に初めてポケモンをプレゼントするのだという。
「そうですか、初めてということはやはり定番の三匹に?」
「ああ、もうみんなここにいるぜ」
カメラが動き自宅で遊んでいる三匹の様子が映る、まだ卵から孵って間もないという三匹に、ヒトカゲと出会ったころを思い出すなと言う。
「リーグの推薦状を出すんですか?」
「実はな、それで迷っていて」
推薦状が欲しいと特に弟からは強くせがまれているものの、その願いを叶えていいものか、とりあえず自分からのプレゼントとしてこの子たちを預けることにしたのだけど。
「おまえの弟、確か強烈なチャンピオンのファンでしょう?」
「そうだな、ガラルで一番のファンかもしれない」
どこかでプレッシャーに負けてしまわないか、でもリーグ挑戦はするという決意がある。近所のマグノリア博士であれば推薦状を出してくれるかもしれないし、自分よりもずっとと言い淀む相手に、同じようなことで悩んでますねと気の抜けた声で返す。
「ネズも?」
「ええ、妹がどうしても挑戦したいと聞いてくれなくて、おれの場合は推薦状を出せるのが自分だけなんで、ダメだと言い張れなくはないんですけど」
年齢としては一人旅はできなくないでしょうし、彼女の実力を考慮すれば勝ち進めるのは想像できる、それよりも自分は。
「実はね、妹にジムリーダーを譲って、おれは引退しようか考えてます」
「えっ」
どうしてと明らかに寂しそうな声で返してくる相手に、まあ限界を感じていましたし、そろそろ本格的に音楽活動に力を入れたいと思っていたところだったのでと返す。
「このジムを任せられるに足る実力があるとするならば、それもいいかと」
だから彼女に推薦状を渡すのも、前向きに検討していますよ。
「今回でまだ実力が足りないのならば、まだしばらくおれがリーダーを勤めるつもりですが、彼女の挑戦したい気持ちは尊重しようかと」
子供の見る夢を大人が邪魔するもんじゃねえです、せめて彼女が夢見る舞台へと背中を押せるようになりたいものです。
「現実は残酷であろうと、夢を見る権利は全員にありますから」
無言のままのダンデにおまえがどうするかは知りませんが、子供が夢見る世界の頂点らしく仕事してやるおもいいんじゃないですかと返す。
「あまり頂点が迷ってる姿を見せるもんじゃねえです、おまえが迷子になると困る人がいるんで」
「わかってる、悪いなこんな話を聞かせて」
「まあ相談くらいは乗りますんで、連絡ならいつでもどうぞ」
「ああ、ネズ」
あのと口籠る相手にどうしましたと聞くと、もしジムリーダーを引退するんなら、時間が空いたときに少し出かけないかと上擦った声でたずねられる。
「いやまだ辞めると決めてませんし、そもそもおまえの予定があかないでしょう?」
なんとか予定はつけるからと言うダンデに、そこまで必死にならなくてもいいですよとため息混じりに返す。
「ダンデは、変わらないですね」
「なにがだ?」
いえこちらの話ですと返し、予定なんですがおまえの都合がいい日で結構ですよと言う。
「流石にまる一日は予定は空けられませんが、食事くらいならつき合いますよ」
「本当か?」
「ええ。いい店を用意してくださいよ」
わかった一番いい店を予約するなと言うので、堅苦しいとこじゃなくていいです、あんま目立つのもよくないでしょうが、おれの見た目がこれなので悪目立ちするのは間違いないので。
「嬉しいな、最近は人と集まると会食になること多くて」
「息抜きは大事ですよ、おまえの場合は根を詰めすぎているところあるんで」
一つのことに一直線なので、ストイックではあるんですけど。そう追い立てたのが自分であることは否定できない、それにしても珍しい、ダンデからこういった誘いをかけてくることは今までなかったのに。
「ネズがジムリーダーを辞めてしまったら、会う機会は今よりも減るだろ?」
「ですから、もしもの話ですよ、まだ」
でもリーグで顔を合わせることがなくなるだけで、今より格段に会う時間は減るでしょうね、それはいやだとダンデは言う。
「別に、困ることないんじゃないですか、今までどおりですよきっと」
「オレがいやなんだ、ネズが離れていってしまうのは」
そんな権利はないのはわかってるんだが、でもと言い淀む相手に、おまえは本当に変わらないんですねと溜息混じりに返す。
「いつおまえから離れたりしたんです?」
「だって、あまりリーグにも顔を出さないだろう。ジムリーダーの会合はサボったことないって聞いたのに」
「おまえと一緒だと、ローズ委員長と顔を合わせる確率が高まるんで、あの人を避けてるだけです」
知ってるでしょう、スパイクタウンになにが起きているのか。おれを取り巻く利害関係の中にある人々のあれこれ。正直もう話を繰り返してうんざりしているくらいなんですけど、まだ熱が覚めていないもんで。
「おまえを不安にさせる気はないんですけど」
些細なことだった、おれが辞めるなんて言ったから本当に距離が開くことを心配しただけかもしれないけれど、普段の彼であればそこまで弱気にならなかったかもしれないのに、なにか心境の変化があったのか。
少なくとも、彼にもおかしな点があることを心に留めておくべきだったかもしれない。
世界は唐突に変わる、新陳代謝と言うとなんだか自分が悪いもののように感じるものの、ある程度の周期で入れ替わるようにバタバタとスターが現れて今までのチャンピオンが前時代の存在になってしまう。
沈まない太陽はないので、それも当たり前といえばそのとおりなのかもしれませんが、あいつが降りてくる日がくるなんて思いもしなかった。
リーグ決勝戦が終わって控室まで様子を見に行ったところ、頭からタオルをかけて項垂れている。この後、記者会見があるのではと声をかけたものの、ああそうだなと気の抜けた声が返ってくるだけでまともに取り合う気はなさそうだ。
「急転直下とは、こういうことを言うんですかね」
無言のままの相手に、少しは顔をあげたらどうなんですかと声をかける。
「すまない、今は少し難しそうだ」
「そうですか」
無敗という冠は想像以上に重かったのだろう、まあ自分がジムリーダーを引退すると決めたその年に、ダンデがチャンピオンでなくなるなんて想像もしてなかった。
「ダンデ、おまえ昨日まで入院してましたよね?」
体調悪くないですかと聞くと、もう大丈夫だと弱々しい声で返ってくるので、いやダメだってことにしましょうと言う。
「えっ?」
「決勝戦のために無理をして、体調が悪化したので様子を見るために会見は延期、そうスタッフに伝えてきます。なのでこのまま帰りましょう」
「いや、そんなわけには」
ようやく顔をあげた相手に、その酷い顔を見せておまえのファンを悲しませるわけにはいかねえんですよ、と肩を叩きまずは荷物片づけますよとカバンを手に控室の私物を掴んで入れていく。
「ダンデくん、そろそろ会見の時間だけど、大丈夫かい?」
「大丈夫じゃなさそうです」
「ちょっとネズ」
扉の向こうから、そうなのかいと声をかけてくれるカブさんに、ダンデに変わって外に出ると、流石に人前に出せる状態ではなさそうなのでと事情を説明する。
「確かに昨日から連戦続きだったし、メディアにはその説明で大丈夫だろうね」
「ご迷惑おかけします」
「いや、ネズくんこそ大丈夫なのかい?」
ここから連れ出すと言っても、今はタクシーの出入りも監視がついてて簡単にはいかないよと言う相手に、抜け道は心得てますのでと返す。
「スタジアムから抜けた後は、どうするんだい?」
「仕方ないので、頃合いを見てダンデのリザードンに頼もうかと」
「それ絶対に目立つわよ」
この近隣で飛び立つリザードンなんてカメラですっぱ抜かれたら終わりだし、といやそうな顔でルリナが言う。通りかかったら、思ったよりまずい話をしてたからビックリしたと肩をすくめてみせる。
「この近くの運河までなら、ネズなら人目を避けて連れ出せる?」
「できると思いますけど、そこからどうするんです?」
「近くのヨットハーバーに船を停めてるから、乗せてあげる」
今から急いで向かえば、二人をピックアップするのは無理じゃないわと言う彼女に、いいんですかと聞けばまあ同期のよしみよと肩をすくめて返し、じゃあ善は急げってねと走って行ってしまった。
「ダンデくんのことはよろしく頼むよ」
「わかりました」
まだなにか口を挟もうとしてきたダンデに、二人の好意を踏みにじるわけにはいきませんし、このまま逃亡しますよと肩を叩く。
「悪いこと、してるな」
「いいじゃないんですか、おまえ聖人君子もかくやみたいな生活してたんですし」
あくタイプの策略に乗るのも楽しいと思いますよと言えば、負けて逃亡なんてチャンピオンらしくないなと首を振る。
「試合が終わった後にインタビューには答えてるんです、仕事としては充分こなしたと思いますよ。おれたちは、リーグの途中で負けてインタビューはあっても、会見まではすることないんで」
一人だけ仕事量が多いのは不公平でしょう、なのでいいんですよ。
「ほら、行きますよダンデ」
荷物はとっくにまとめ終わった、おまえが腰をあげてくれれば連れ出せる状態にはなっている、あとは手を取ってくれれば計画は達成できるのだが。
「なんだか不思議だな、前はこのシュートシティに来るために、ネズと手を繋いでたのに」
「いつの話ですか、それ」
十年前だなと返す相手が、こちらの手を取ってくれたので行きましょうかと歩き出す。
スタジアム内の通路はここ何年もの間でよく知っている、ローズ委員長から逃げるためもあるし、それ意外でも音楽イベントに呼ばれた日には、スタッフ専用通路を最短で移動する必要があったりして、通常の道以外も頭に入っている。
それに加えて他のスタッフの声や足音を聞きわけられるので、かち合う前に別の通路に入ることで避けることはできる。引っ張って連れてきている相手には、バレたら終わりなんでと口止めしているので、なにも言わずされるがままついて来てくれている。
外のスタッフにみつからないように辿り着いた非常階段のドアを閉め、ようやく人気のない所まで来たと安堵の息を吐く。
「なんだか、本当に逃亡してるみたいだ」
「そりゃ逃走中ですから、この前まではルリナと同じことしました」
どうしてと聞かれるので、彼女ゴシップ誌にすっぱ抜かれたのでと言うと、知らなかったとつぶやく。おまえそういう話は興味なさそうですもんね。
「完全にでっちあげだったんですけどね、ルリナにしてみればいい迷惑ってやつです。待ち構えている記者と、できるだけ会わないように帰るにはどうしたらいいかと頭抱えてたので、ちょっと脱出に手を貸したんです」
表で待ち構えてる記者にはキバナを差し出しておいたので、あっちに食いついて時間稼ぎもできましたからね。今回の足止めはカブさんに任せるしかないのですが、それに関してはうまくしてくれるとは思う。
「ああ、表ではヤローが見回りをしてくれたようです、今のところ使おうとしてるルートに記者の姿はないと」
ならばこのまま突っ切ってしまいますよと階段を駆け降りて、内側から非常口の扉を開ける。晴れ渡った空に細い月が出ているのを見つめ、もう少しこの街が暗ければ、逃避行も楽なんだがなと肩を落とす。
迷子にならないよう絶対に手は離さないでくださいと言い含めると、わかってるよと少し困ったようにダンデは笑う。落ち合う場所まで駆けて行く間に隣を行く相手が少し弱々しく笑ったので、どうしましたと聞くとなんだか楽しくなってきたと言う。
「こんなふうにさ、誰かと共謀して逃げるなんて、初めてだから」
「そうですか」
多少はマシな顔になったので、こちらも少しだけ安心した。控室に居たときはこの世の終わりみたいだったから、流石にそんな憔悴した状態を見せるわけにはいくまい。特に彼の弟になんて見せるわけにいかない、彼には新チャンピオンのそばにできるだけ居てほしいと先に連絡してある、同じことはマリィにも伝えた、二人と他のジムリーダーがついていてくれるなら、彼女のことは心配いらない。
夜の道を一気に駆け抜けて、河川敷まで降りると白い小型の船に乗ったルリナがこっちと手を振ってくれた。
「早く乗って!」
「もしかして、飛び乗れって言ってます?」
それなりに距離があるんですけど、ここ河川のルール上どうしても停泊はできないのと答えられるので、ネズちょっとごめんなという声と共に体が宙に浮いた。
「ちょっと、なにを!」
「捕まっててくれ」
いくぞと言うと同時に助走をつけて飛びあがる、ひっと小さな悲鳴をあげて相手の首にぎゅっと抱き着くものの、おれを抱き抱えていても軽々と飛んで船の上に降り立った。
「おま、おまえ信じらんねえ!」
よくこんなことできますねと叫ぶと同時に、ルリナが二人とも無事なら飛ばすからねと船のスピードをあげる。
「ああもう、無茶をやりやがりますねえ」
「言い出した本人が今更なに?」
みつかる前に飛ばすからねとぐんぐんスピードをあげて河川を進んで海まで出る、小型とはいえこんなプレジャーボート運転できるんですねと関心していると、一応は港町出身だからねと返される。
「海に出るとき、便利なのよ。たまには海上でみんなを泳がせたいじゃない」
休憩するのに使えるし、あとは海を走るのはやっぱり楽しいと話す。確かにスピードは出すぎではあるものの、風を感じて心地いいのは間違いない。
「リザードンに乗って飛んでるときに近いな」
遅刻しそうなときのスピードだと言うダンデに、おまえ本当にいい加減にしたほうがいいですよと溜息を吐く。
「ねえ、どこまで連れて行けばいい?」
「とりあえずスパイクタウンの裏までお願いできますか、ジムトレーナーたちは出払ってますし、一番目立たないでしょう」
「了解」
海上に出てからはスピードを少し落として波を切るように進んでいく、夜の走行にも慣れているらしく、鼻歌混じりに舵を取っている。
「ねえ、よかったらネズが歌ってくれない?」
なんでと聞けば、船乗りに歌はつき物だしと返ってくる。おれは陽気な船乗りの歌なんて知りませんよと言っても、別に気分があがる曲ならなんでもいいからさと彼女は言う。
「オレも聴きたいな、久しぶりにネズの歌」
「そうですか」
仕方ないですねと肩を落として、気分のままに浮かんできた曲を歌い出す。暗い空に浮かぶ星を眺める人魚のような気分で、なんとなく湧き出てくるままに歌詞を紡いでいて、これはらしくないラブソングになりそうだなと眉を潜める。
「いいじゃない、新曲?」
「即興ですよ、今の気分で」
普段は取らないメロディーですけど、悪くないですかとたずねるとわたしは好きよと返ってきた。
「なんか女性ウケしそうな曲だなって、優しめのメロディラインだし」
「そう言ってくれるんなら、完成させましょうかね」
実際に販売できるかは不明ですよ、おれにもパブリックイメージがあるん。ライブオンリーか楽曲提供という形を取るか、ともかくいいと言ってくれるんならこの曲はもっと進めてもいいのかもしれない、思いつきのままに歌った曲でもおよその形はできてしまったので、後で譜面に起こさないと。
「曲ってそんなすぐにできるものなの?」
「人によりけりでしょうね、ノってるときは結構早くできますよ」
普段から流れてくる音を拾って、増幅させながら作っていってるのだから、こうして新しい刺激を受けると別のメロディが流れてくる、そういうときは面白いモノができることも多い。
「ダンデはどうですか」
さっきから黙ってますけどと聞き返すと、ハッとしたように顔をあげていや、聴き入ってしまってたと恥ずかしそうに言う。穴が空くほど見つめられてもこちらも困るんで、少しは反応してほしい。
「いや、相変わらずネズは綺麗だなと」
「おまえね」
「あのさ一応わたしも居るから、惚気るんならあとでお願い」
馬に蹴られる気はないからと冷めた声で釘を刺すルリナに、気分転換にもう一曲歌いますよと返す。
「なにかリクエストあります?」
「それじゃあラブソング以外で、なんかアップテンポの曲」
「了解です」
自分の曲の中から彼女の気分に合うものを選び出し歌い出す、波間に響く歌声は意外とよく通り遠くまで届いていくかもしれない。
ルリナの協力により、かなり早くスパイクタウンの裏手まで辿り着いた、こっちのことはなんとかするからダンデのことは頼むわと言われて、改めてお礼を言って別れる。
「ここからどうする?」
「とりあえず、おれの家に行きましょうか」
こちらですと手を取って案内していく、珍しそうに周りを見回しているダンデに、あまり見回るものじゃないですよ、大したものはないんでと返す。
「ほら着きましたよ」
丁度この町のジムの裏手にあたるんですと紹介したら、こんなふうになってたんだなと意外そうに話す。
「結局、スパイクタウンも来なかったですもんね」
「いや実は、来てみたことはあるんだぜ?」
一応、こっそりと中を歩いてジムまで行ってみようとして、途中で迷って入り口まで戻るを繰り返してしまってと言う相手に、もう驚きませんよと返す。
「来るなら事前に連絡ください」
「いや迷惑になるかな、と」
「構わないんで」
鍵を開けてほら入ってくださいと招き入れると、お邪魔しますと少し緊張気味の声で中に入る。とりあえずシャワー浴びて来たらどうです、着替えは確かカバンに入れてたでしょうと聞けば、いいのかと聞き返される。
「別にいいですよ、マリィはシュートシティに泊まりですし」
そこの突き当たりなので好きに使ってください、タオルは用意しておきますからとシャワールームに押しこみ、なにか飲み物でも用意しようかと戸棚を開けて中を確認すれば、丁度気分を落ち着かせるというハーブティーがまだ残っていた。お客さまなんて久しぶりなので客人用のカップを洗うところから始まってしまうが、いいお茶があっただけましでしょうか。
「お風呂ありがとうな」
「もう出てきたんですか?」
落ち着かなくてと言う相手に、もう少しでお茶ができるんで座って待っててくださいと返すと、うんとつぶやくもののソファには向かわずおれの後ろに立つ、見てて楽しいものでもないでしょうと指摘するが、そうでもないよぞとダンデは返す。
「そばに居たいんだけど、ダメか?」
「そんな声で言われて、拒否できるわけねえでしょう」
好きにしたらいいですと返すと、それならと後ろからぎゅっと抱き締められる。
「ちょっと、ダンデ!」
流石に火元でじゃれつくのはよせ危ないと返すものの、少しだけだからと弱い声で返されるとダメとも言い難い、おまえ効果抜群だとわかってやってるでしょう。
「もうお湯が沸くんで、いったん離れてください」
「ネズ細いな」
さっき抱きあげたときも思ったけどかなり軽かったぞ、体調は問題ないのかと聞かれて、よく色んな人から聞かれますけど特に問題はないですよと返す。
「今にも折れそうだけど」
「そんなにヤワじゃないですよ、ほらダンデ、お茶にしましょう」
沸きたったお湯をポットに注ぎ準備は整ったので、もうちょっと落ち着ける場所に移動しましょう提案すれば、わかったと返ってきた。
ようやく開放されたと思ったらソファに座った、相手にまたぎゅっと膝の上に乗る形で抱き締められた、危ねえんで離せと言ってもそれはいやだと首を振る。
ルリナと合流したときに少しはマシになったかと思ったんですけど、どうやら一時的なものだったらしい。これはしばらく身動きできそうにないなと諦め、とりあえず濃くなる前にと手を伸ばして二人分のお茶をカップに入れ、冷める前に飲んでくださいよとテーブルに戻し、自分の分に口をつける。
「食事に行こう、って言ってたよな」
「そういえばリーグが始まる前に、約束しましたよね」
今も一緒行ってくれっるかとたずねてくる相手に、なんで拒否すると思うんですかと反対に聞き返す。
「実は、まだ予約してなくて」
「いいですよいつでも、おまえの都合がいいときで」
「本当に?」
もちろんですよと返すけれど、後ろから抱きこまれているので相手の顔は見えていない、不安になっているのはわかりますけど、人形のように抱えるにしては手触りはいまいちじゃないかと思う、ただ指摘しても離してくれる気配はない。
「ネズは、恋人はいるのか?」
今更それを聞くんですかとたずねると、それもそうだなと呆れたような声で返される。
「いると言ったら、おまえどうするんです?」
えっと動揺する声があがると同時に回されていた腕が離れるので、体の向きを変えてそんな人いませんよと返す。
「あ、そうなのか?」
「昔からですけど、こんなのに言い寄るもの好きはそういないもので」
「ネズは、昔から今もずっと美人だぜ?」
「そうですか」
相変わらずもの好きですねと相手の頭を撫でつけると、恥ずかしいからやめてくれと困ったように顔を伏せるので、しょげてるおまえなんて珍しいのでこの機に堪能させてもらいますよと言う。
「おまえは本当に、よく勤めあげました」
このままずっと手の届かない天井に居続けるつもりなんじゃないかと、少し疑っていたくらいだ。
「降りてきたオレは格好悪い?」
「いいえ、おまえは元からいい男なんで」
再び腕が回されて抱き着かれる、仕方ない奴ですねとつぶやきおれのほうも腕を回してやると、腕の力が更に強くなる。
なにも変わらないんだなとつぶやくダンデにいえ結構変わりましたよと言う、見てのとおり髪もかなり伸びたでしょう。
「でも相変わらずヒールを履いてる」
「好きですから」
「歌も歌ってる」
「やりたかったことなので」
「それに綺麗だ」
それしか褒め言葉ないんですかとからかい混じりに返すと、さっきの船の上でもそうだったけど歌うネズはすごく綺麗なんだ、海上で歌う人魚に見えたと真面目に返されてしまって、おまえの女神さまは健在だったということですか溜息を吐く。
「ネズのライブ、行ってみたいな」
「招待してやりますよ」
迷子になったら困るのとおまえ目立つので、関係者席のいいとこ抑えておいてやります。ロックのライブには行ったことないんだけど、別になにも気負う必要はないんで好きな格好で来たらいいですよ、特段ルールがあるってわけじゃないですし。
「シュートシティの遊園地も、行ってないな」
「おまえのコーディネートをしてからなので、まずは買い物からですかね」
叶えてない約束は他にないだろうか。
「全部、叶えてくれるのか?」
「ええ」
そのくらいつき合ってもいいでしょう、だって十年も孤独に立ってきたのだから、これからは彼の我儘を聞く番だ。
「オレの感情にも、向き合ってくれるのか?」
「そういう約束でしたから」
そう返答したおれの前で、顔をあげると試合のときに見せるようなひどく真剣な熱の籠った視線を向けられる。
「ネズ、まだきみのこと好きなんだ」
「そのようですね」
いやじゃないのかとたずねてくる相手に、きらいな相手とは顔を合わせないようにしているので、自宅まで招き入れている時点でそれなりに心は許していますよ。
「だってあれから十年経ったのに、笑われるかと」
「おあいこですよ、おれもまだ好きなまんまです」
本当にと目を輝かせるダンデに、ここで嘘を言うほど天邪鬼ではないんでと返すと、ずっとそんな素振り見せなかったのにと言うが、おまえの足枷になりたくなかったんで、それと委員長を避けている内にまあ疎遠になってしまったのはあります。
「本当は子供のころの話だって、思い出話にしたかったんですけどね。女々しいことに、まだ好きですよ」
「そっか」
そうかと確かめるようにもう一度つぶやいて、眩しいほど綺麗な顔を寄せられる。キスでもされるのかと身構えたけれども、ただ額を寄せて照れたように笑っただけだった。
「あの、遠慮する相手は、別にいねえんで、手出しても怒りませんよ」
その言葉の意味を理解できているのかいないのか、顔色を変えないままの相手にどう説明をすべきかと考えている間に、ダンデ越しに自宅の天井を見つめることになっていた。
息を塞がれているキスくらいはいいかと思ったが、こんなディープなやつをかまされるとは、完全に予想外だったため受け身になってしまった。
「んっ、ふぅ……あっ」
「子供扱いは流石に怒るぜ?」
唇を舐められてふっと息を零して笑う大人の男は、本当にダンデなんだろうか。
「ネズとは時間を埋めていきたいんだ、ゆっくり」
あんまり刺激的なこと言われると我慢できなくなりそうなんだけど、ネズはそれでもいいのかと反対にたずねられる、勝手に主導権はこちらにあるかと思っていただけに、おれは無言で目を逸らすしかなかった。
「顔真っ赤だな、可愛い」
「うるさい、この色男!」
ちょっと離してくださいと胸を押し返すと、わかったと案外簡単に離れてくれた。少し落ち着かなければと残っていたお茶に口をつける、少し冷めてきているものの甘い香りのするそれは、内側から頭を整理させるのに役立ってくれそうだった。
「これ美味しいな」
「ええ、おれも気に入ってるんです、気分が落ち着くとか」
今とても必要とされている効果だけど、意味は成してくれそうで安心する。にしても、目の前にいるダンデの表情の変わりようが怖い、あれが大人だと言われたらそうなんですけれども。
「なあネズ、もう一回抱き締めていいか?」
「今離れたばかりですけど」
遠慮しなくていいと思ったら手放すのが惜しいんだといい笑顔で言われる、それが本気なんだとしたら、そこに収まったら最後離してくれそうにないんですけど。
「もう心配するほど精神やられてねえでしょ?」
「そんなことないぞ」
まだ結構ダメージは大きいと主張する相手に、本当ですかと疑いの目を向ける。顔色はかなりよくなったように見えるが、それはシャワーを浴びてきたからというのもあるんでしょう。
「ちょっと頭の整理をしたくて、これからの話をしないか?」
ダメかと首を傾げてお願いするダンデに、その顔に弱いとわかっててやってるんなら、こいつも思っているより策士だなと諦めてそばに寄る。先ほどのような押さえつける強い力はない、優しく包まれるようなハグを受け、これからって他になにをしたいんですかと聞き返す。
「チャンピオの座は明け渡すことになるから、今後どうしていこうかなと。バトルの解説とかは向いてないだろうし」
「ええ、おまえの場合は実況席に収まってないでしょう」
ボルテージがあがってくると我慢できないだろうし、やっぱり実戦に立てる場所にいるのがいいとは思う。しばらくはエキシビジョンなどの申しこみが殺到するので、そこは心配しなくていいんじゃないですか。
「でもオレの夢は、ガラルの若者たちがもっとバトルで強くなることだから、そうだな……師匠のように、後続を育成するような仕事がしたいな」
スクール講師とかと提案する相手に、おまえが教壇に立つ姿はあまり想像できませんねと返す。実際、スクールでもデモンストレーションでバトルをすることはあったようだが、常勤の講師としては向いてないだろう。
「そうか?」
「突出した天才というのは、教えるのには向かないんですよ。たとえばカブさんは教師として向いてると思いますよ、実直で真面目かつ戦略を練って進むタイプなので、人に合わせた戦闘スタイルを教えられるタイプです。逆にルリナなどは己のスタイルを貫くタイプですから、教師として教えるにはあまり向かないタイプといえます」
なのでスクールのような画一した場所、テンプレートが必要な場には向かないのだ。
では彼の師匠のように独自の道場主となって、育成プログラムを作ることができるのかという点についてだが、まず島一つくらいは簡単に買えてしまいそうではある。しかし人の手が入ってない場所ではこいつ簡単に迷子になりやがるので、未開の地に作るのは得策ではないことだろう。
その線は難しいかと肩を落とす相手に、自分の特技を活かすという点では悪くないんじゃないですかと返す。
「ネズはジムリーダーを引退したら、歌手として生きていくんだよな?」
「その予定です、しばらくはスパイクタウンの代表も兼任ですけど」
マリィのサポートとして、契約やら町の取り締まりやら仕事はいくつか回していく予定だ。元からちゃんとしていればよかったんですけどね、おれがダメな奴なんで保留にしていた事項もある。
「そもそもスパイクジムは、おれの代の前からライブハウスでもありますから。そこの運営は今後もしばらくおれが継続して行います」
「運営かあ、作曲やライブだけに専念することはできないんだな」
「いや、自分の立てるステージが常に用意されている状態なので、むしろ利点は多いんですよ」
ライブを開いて常に満員というわけではありませんけど、少なくとも披露できる場が日常的にある状態というのは稀なのだ。完全にジムの実権をマリィに移した後は、おれ自身も新しいスタイルのライブハウスを作ってみたいな、と漠然とだが思っている。
「どんな所にしたいんだ?」
「あくまで、理想ではありますが。普通のステージではなく、今のようにポケモンバトルのフィールドを併設した、特別なステージにしたいんです」
普通のライブステージとして使ってもいいし、野良のバトルフィールドとして貸し出すのもありだ。けど、できるならおれはライブギグとポケモンバトルを両立した、面白いスタイルの見せかたはできないかと、前から考えていたんだ。
「特別ルールを作ることになるので、スタンダードとして浸透はしなさそうですけど、ストリンダーの音やラプラスの歌声が響く、自らの魅力を発揮できる場になればいいなと」
問題は、あくまでもバトルもライブも主役なので偏りが出ないような調整と、他の地方で開かれているコンテストとの差分化、そこのクリアは難しそうだ、でも完成したら楽しいのではないかそう思っている。
ライブとバトルを組み合わせるなんて面白いなと頷くダンデに、まあ一般的なルールじゃないので難しいのはわかってます、あくまで理想論で展望もほぼないのでと返す。
そこでなにか思いましたように、そうだとスマホを呼び寄せてなにやら資料を開く。
「コンテストで思い出したんだが、ポケモンリーグの他にも腕利きのトレーナーが集まるバトル施設がある地方があった」
海外に招待されたときに顔を出したことがあるんだが、様々なルールがあってそれに合わせて数多くのトレーナーたちがバトル技術を日々高めあっていた、そういう施設がガラルにもあればなあと前から思っていたんだ。
「ローズタワーの中にあるマクロコスモス社は完全に撤退するから、建物が売りに出されるって聞いたんだ。あの一棟があればそういう施設を作れそうじゃないか、あそこならダイマックスもできるし」
「渡りに船ってことですか」
島一つと規模はさほど変わらないような気がするものの、まあでもやることは派手でいいんじゃないですか、あそこはシュートシティのランドマークみたいなところもありますし、前チャンピオンの所有物となると安心感も増すというものです。
「バトル施設は支配人がいるものですし、今まではリーグ挑戦してもほとんど辿り着けなかったダンデに挑戦できる、となれば人は集まるでしょうね」
とはいえ運営なんてしたことないでしょう、おまえできるんですかと聞くとそこはどうにかするしかないなと、行き当たりばったりであることがわかる。まあ今思いついたばかりでしょうし、まだ入札始まってないから間に合うかもしれないなと言う相手は、このまま突き進んでいきそうだ。こうなると誰も止めることはできない、おまえはそういう奴なので。
「ダンデ、おまえスーツとか揃えてるんですか?」
「一応は持ってるけど、なんで?」
「支配人になるならそれなりのフォーマルな服が必要でしょう。ユニフォームで出るのは、やはり場にそぐわない」
とはいえ委員長のようなスーツ姿は見たくないので、それなりに似合うフォーマルな服装を仕立てに行きましょうか。
「一緒に行ってくれるのか?」
「おれの趣味でいいんなら」
ネズなら安心して任せられると言うので、じゃあいつ行きましょうかとおれもスマホを取り出してたずねる、先に予定を入れておかないとおまえ勝手に進んで決めていきそうなので。
「なんだか楽しいな、新しいことを始めるのは」
「そうですか」
こんな感覚は久しぶりだ、ガラルはすっかり冒険したと思いこんでいたけれど、他にもまだやり残したことがあるんだなって。
「おまえは、やっぱり変わらねえですね」
「アニキ、これ借りていい?」
「いいですよ」
広げていた化粧品の中から、薄いピンクのアイシャドウをみつけて綺麗な色だけど、アニキこんなの趣味だったと疑問を投げかけられる。
「気分転換にいいかと、まあオフで使う用ですね」
ふーんと言いながら隣に座って、自分も化粧を始める。今日はどこか行くんですかと聞けば、ユウリとナックルシティへ買い物に行くんだと楽しそうに聞かせてくれる。
「アニキもお出かけやんね?」
「そうです、ちょっとシュートシティまで買い物に」
「最近シュートシティよく行ってるよね」
今までは避けてたのにと言われて、別に避けてたわけじゃないですよと否定する。ジムリーダーは目立つので、メディアに捕まったら面倒だっただけです。今は多少、好奇の目が落ち着いたので、大手を振ってとまではいかなくとも出歩くのは楽になったところはあります。
「デート?」
投げられた単語に思わず手が止まる、平静を装いつつなんでそう思うんですかと聞けば、服もメイクもちょっといつもと違うもんと言う。
「一人とか、他の人と出かけるときなら自分の趣味で行くでしょ。今日はちょっと大人しめ、だから相手に合わせてるのかなって」
目ざといですねと返せば、何年アニキの妹やってると思うのと勝ち誇ったような悪い笑みを返される、可愛いから許します。
「相手に合わせてるというよりは、単純にちょっと高級な店に寄る予定なので」
あまり派手な格好では入り口で拒否されてしまいますので、だから大人しめにしてます。
「そうやって気を使うくらいに、その人のこと大事にしてるんだ」
よかったと笑う妹に、なんでマリィのほうが嬉しそうなんですかとたずねると、アニキにあたしたち以外の大事な人がいるんが嬉しいんよと言う。
「いやじゃないんですね」
「前も言ったけど、心配してたんだ」
あたしもアニキには幸せになってほしいからさ、と言うとメイクを先に終えたマリィが行ってくるねと立ちあがる。
「気をつけて行ってくるんですよ」
「アニキもね」
シュートシティでタクシーを降りて、ダンデの自宅のインターフォンを鳴らすと今開けると声が返ってきた。
「おはようございますダンデ」
「ああ、おはよう」
すでに出かける準備は整っているのか、行こうかと手を差し出してきた相手に、今日はトレードマークの帽子はいいんですかと聞けば、流石にキャップ帽はドレスコードに引っかかるだろうと苦笑された。
髪を結って、眼鏡をかけた姿というのはちょっと見慣れないものの、それはこちらも同じかと肩を落とす。できるだけバレないようにと気を使うと、どうしても顔を隠す形に落ち着いてしまう。
今日はこいつの支配人としての服を仕立て、その後で食事に行く約束だった。こいつの手持ちの服はラフな格好かジャージかユニフォーム、パーティ用のスーツと幅があまりにも偏りすぎているので、ラフすぎずかといって見栄えに妥協しないだけの服が必要だと思っての提案だったものの、まさか本当におれに一任という形で落ち着くとは。
「本当にいいんですか?」
「ああ、きみの見立てなら大丈夫だろ」
今日の服だって事前にネズが選んでくれたものだし、おかしくないかと首を傾げる相手に大丈夫です、とても似合ってますよと返す。
「それにしても今日は人が多いな」
「休日ですから、こんなもんでしょう」
はぐれないように手は繋いだままのほうがいいでしょう、ダンデに迷子になられたら探すのに苦労しますし、せっかく忍んでいるというのにリザードンに頼るとモロにバレますからね。
にしてもガラルのトップが入れ替わっても、街はそれほど変わらない。天変地異に近い災害に見舞われたというのに、休日にもなれば人で賑わうこの地方は相変わらずで平和にすらかんじてしまう。
太陽が降りて来たとしても、世界は案外と変わらないものらしい。大騒ぎしていた自分が馬鹿らしくなってしまうほどに、なにも。
「ネズどうした?」
顔が少し暗いぞと指摘されて、大したことではないですと隣に居る相手のそばに寄る、ノイジーなのは苦手なんで早いとこ店に行きましょう。休日の昼前とあって人出も多いし、さっさと落ち着ける場所まで移動するならタクシーを拾ったらよかった、と少しだけ後悔する。
「こちらはシュートシティ駅前です、お天気もよく絶好のお出かけ日和ですね!」
休日のお昼の番組クルーだろう人たちの横を通り過ぎようとした際に、せっかくですのでお出かけ中のみなさんにインタビューしてみたいと思います、というリポーターの明るい声に、嫌な予感がしてダンデの手を引こうとしたものの一歩遅かった。
「すみません、本日はどこにお出かけの予定ですか?」
「えっ」
「あら?」
もしかしてダンデさんですか、そちらの素敵な女性はと問い詰められてどう答えるべきかとオロオロしている相手に、特大の溜息を吐く。女性クルーの畳みかけるような質問と、ダンデという名前に注目が集まっているので、更に苛立ちが増していく。
一人だったなら、女性に間違えてきた相手に舌打ちし、睨み返してから無視を決めてもいいんですけど、ダンデのパブリックイメージ上それはよろしくないでしょう。
妹よ、不甲斐ないアニキはどうしたらいいでしょう。
「本日はやはりデートで?」
「いや、えっと……あはは、弱ったなあ」
「弱ったなあ、じゃねえでしょう」
おれの声にえっと凍りついているリポーターを放置し、カメラクルーの前に出るとすみませんが今日はダンデもおれもオフなのでと返し、レンズを掴む。
「ああっちょっと!」
「これ以上、休暇の邪魔すんな」
掴んだレンズを上に押しやって、ダンデの腕を掴み直すとさっさと退散しますよと走り出す。せっかく目立たないように気をつけてたのに、なにもかも全部パアじゃねえか。
「キバナから着信ロト!」
「なんですか、こんなときに」
「いやだって今さ、昼飯の用意しながらテレビつけてたら生放送でダンデのデート、なんて流れてきたからめちゃくちゃ笑った」
しばらく笑いのネタには困らねえなと笑うキバナに、おまえこんなときに素早く連絡してくるの本当にいい性格してやがりますねと返すと、いやだって死ぬほど面白かったからさと言う。
それに苛立っていると隣から腕が伸びてきて、宙に浮いてたスマホロトムを掴む。
「すまないキバナ、今逃げるのに精一杯だ」
また今度と言って勝手に通話を切ってしまうと、これは流石に仕舞っておくぞとカバンの中に突っこまれた。
「悪いが、独り占めにしたいのはきみだけじゃないぞ」
隣を走るダンデがムッとした顔でつぶやくので、なんですかそれと思わず吹き出す。だって自分と一緒に居るのに他の奴と通話するからと言うので、勝手にかかってきたのにと返す。
「にしても、生放送でしたか」
「ニュースになるかな」
「おれが声出してなかったら、とんでもねえニュースだったでしょうけど、最後ので相手がネズだってばれたでしょ」
友達と出かけてたってだけで終わりじゃないですか、メディア側はおれの気性もよく知ってますし、しかも女性と間違われたとなればそりゃ怒って当然だって片づけられるんじゃないですかね。正直なところ世間の目よりも身内、特にマリィになんと説明すべきかのほうがよほど堪えるんですけど。
「まだ話してないのか」
「自分のアニキの恋人が男っていうのは、流石にすぐに話せる内容じゃねえでしょ」
いずれときを見てと思っていたのに、なんと言えばいいものか。
そう頭を抱えると、そのときはオレも一緒に挨拶しないとなとのんびり言うので、おまえもうちょっと順序を考えたたらどうなんですと呆れて返す。
「家族に恋人は紹介するものだろ?」
「ということは、おれはホップに紹介されるんですか?」
泡吹いて倒れませんかね、どうだろう意外とホップは肝が据わってるし大丈夫だと思うけどと返されるものの、果たしてそんなうまくいくもんですかね。
とはいえ隣で笑っている姿は気が抜けている、その楽しそうな顔ときたら、ずいぶんと人らしくなったじゃないですか。
「ははは、やることがたくさんあるな」
「笑いごとじゃねえですよ」
ああでも、こんな愉快なことも早々ねえので少しくらい、いいか。
一応くっついた二人です。
個人的にはもうちょっと続きを書きたいなあと思ってます。
ネズさんのライブに行くダンデさんとか、ちょっと興味あります。
100%関係者席にいらっしゃるんだろうなと。
2021年9月5日 pixivより再掲