愛をください、貴方の。

カカルディアの回顧録・終/h1>

「ロシナンテから手紙で聞いてるよ」
ふてぶてしい面したガキだな、とその男はため息混じりに言った。白髪混じりの短髪で、顔に傷跡がある。白衣を身につけてはいるものの、どう考えても堅気の医者ではない。闇医者だと聞いていたのは、本当なんだろうなと見るだけでわかる。
「ジョーカーのとこから逃げてきたんだって?」
大変だったなと言う相手が、俺の目の前にスープの入ったカップを置いてくれた。体は冷えていたが、とても手をつける気になれなかった。
「……まあ、信用されてないのはわかってるけどな。お前のことを大事にしてた人から頼まれてるんだ、少しは警戒を解いてくれ」
呆れたようにため息をつく相手に、名前をたずねると今はナインと名乗ってると返ってきた。
その名前は確かにコラさんから聞いていた、ドクター・ナイン、裏町でひっそりと仕事をしてる闇医者だという。
しかし、その言葉に少し引っかかりを覚えた。
「今は?」
どういう意味だと無言で訴えかけると、相手は俺を見つめて仕方ねえんだと言った。
「わけあって名前が言えない、だから偽名だ。お前はどうする?」
本名は聞いてるんだが、隠した方がいいんじゃないか?とたずねる男に向け、なんと答えるべきかしばらく考えてから、カルディアと名乗った。
「よし!カルディアな。お前は今日から俺の助手として働いてもらう。ロシナンテからは医学の知識はあると聞いてるが、実践はしてないだろう?」
立派な執刀医にしてやるよと男は顔の皺を伸ばして笑うと、俺の頭を撫でてくれた。
「さあ、忙しくなるぞ。まずは薬の手配をしてくれてるキンジ屋に合わせてやる、それからウチに出入りしてるテレサ屋って情報屋だろ?それから、戦闘について身につけたいならジャック屋つーのがいる、元人斬りで賞金首だが、男は殺さねえから安心しろ」
「あの……「屋」ってなに?」
屋号呼びが珍しいか?とドクター・ナインは言った。
「金やら情報やら、取引がある相手のことを俺はそう呼んでる」
「コ……ロシナンテさんは、違ったのか?」
コードネームでなく、本名で呼ぶということは海軍の仕事で会ったのかもしれない。闇医者とはいえ、必ずしも海賊関係とは限らないだろうと思ったのだ。
「あいつは、昔馴染みなんだよ」
金品で取引って間柄じゃなかった、だから俺のとこにお前を寄越したんだろとドクターは言った。
「金で取引してる奴は、相手に倍の金をかけられれば簡単に売り渡す。余程の弱みを握ってりゃ別だろうけどな。だから、金で解決しなくていい相手の方が、信用できるってことだ」
そこんとこわきまえてんだ、あいつはあれでも。そう言って、ドクターは寂しそうに、しかし、死んだか……と呟いた。
誰に殺されたのか、予想できたのか酷いこともあるもんだと続ける。
「つくづく、野心に燃える奴ってのは恐ろしいもんだ」
あれは執念かねえと、呆れたようにドクター・ナインは言った。そして、できなかったコラさんの葬式をひっそりと行ってくれた。

そこからドクターは俺のために様々な手術について実地で教えてくれた。実際の患者相手にだから悪いなと思ったものの、どうにかできなきゃその処置もするだけだと取り合わない。
そのおかげか、執刀医としての実技での技術はどんどん身についていった。本で知っていた知識が、実際の現場だとこうも勝手が変わってくる、けれども基礎がわかれば対処もできる。
とても面白いと、そう思った。

「天才っていうのは、お前みたいなやつのことを言うのかね……」
ある時、ぼそりとドクター・ナインは呟いた。
患者の手術を一人で任され、なんとか完了させた後のことだ。
「普通は研修医でも半年はかかる手術を、たかだか一週間で身につける。知識がものを言ってるんだろうが、とにかくお前はとんでもねえ才能があるよ」
運命の転び方次第じゃ、歴史に名前が残るような名医になったろうさとドクターは言った。
「そういうことには、もう俺は興味ないんで」
「そう言うなよカルディア。ロシナンテから立派な医者にしてくれと頼まれた俺としては、そんなに教えるところがないのが寂しくて仕方ないのさ」
まあ、おかげで楽させてもらってるけどよと笑う相手に、コラさんとの関係を聞いても教えてはくれなかった。ただ、昔馴染みであることと、お互いに恩があるとだけ返ってきた。
「あいつは俺のことを助けてくれて、俺はあいつのことを助けてやった。それからだよ、なにかあったら互いに助けてやってる」
お前のことが、最後の頼みだったと言うと、煙草を吸ってくると言って外へ出た。
ドクター・ナインは今は俺に一手に現場を任せているものの、尊敬できるだけの医学の知識があった。それを惜しみなく俺に教えてくれた。スポンジみたいな頭してるなと言われたから怒ると、教えたことすぐに飲みこんじまうって意味だよと頭をかき回された。つまりは褒めてるつもりだったらしい、表現が悪いと言えば、そんなもんかな?と男は笑った。
「俺よりもキンジ屋のが言葉使いは荒いだろう」
「キンジ屋さんは商売人ですし、あれでいいんじゃないですか。ジャック屋さんは、意外と紳士ですけど」
見た目と違ってと付け加えると、あれで性癖が普通ならなあとドクターは言った。
「好きになった女を八つ裂きにしないと気が済まないなんて、ジャック屋も哀れだ」
あれは俺じゃ治してやれねえと言う相手に、精神病ですからねと返す。
そんなもんじゃないさ、気狂いとか病気で片づくもんじゃねえと、ドクターは言ってのけた。普通なのだ、あれがあの男にとってはなとつけくわえる。
「でもそれ以外は、いい人ですね」
「そうか。お前が飯の誘いに乗ってくれないと、嘆いてたぞ」
もうちょい優しくしてやれと言われて、俺は首を横に振った。
「どんな相手がなにを仕込んでるかわからないものは、食べませんよ」
「……そうか」
それは懸命な判断だと言って、ドクターは俺の頭を撫でて、煙草を吸って来ると庭に出て行った。

ドクターの様子がおかしいことには気がついていた。
元気そうに振舞ってはいるものの、執刀の際の手が止まり俺に任せたりする。実習という名目の他に理由があるんだろうことはわかった。
最近、使いこなせるようになってきたスキャンで身体をこっそり調べてみたけれども、疾患のようなものはみつからなかった、だか異常は確かにあった。
「ドクター、その体」
煙草を吸って戻ってきた相手に指摘すると、彼は苦笑いしてため息を吐いた。
「勝手にスキャンで調べたか?」
「早く手を打たないと、死にますよ?」
「わかってる、俺も大変な身なんだよ」
後先長くないのはわかってるさ、と言った彼の体には科学物質が投与されている。すぐに死ぬ量ではなく、徐々に蝕まれるように工夫されている。
「黙っているならいいが、下手に動けば暗殺対処ってことだ」
そういうのに狙われてんだよ、と諦めたように吐き出す。
「ああ大丈夫だ、お前に害は及ばせねえよ」
あいつ等が欲しいのは、俺が握ってる情報だけだからなと彼は言った。
「相手は海賊?」
「いいや」
「じゃあ海軍?」
「そんなこと聞いても仕方ないだろう」
どこにでもそんな奴はいる、真人間だろうがなんだろうが、自分のために家族のためにと考える内に悪人になり非道に生まれ変わる。
相手が誰かなんて関係ない、ただ死ぬまではそう長くない。
そう言った相手に、俺ならそれを除去してやれると言った。
「お前のオペオペの能力でか?確かに可能だろうが、やめとけ」
「どうしてですか?」
「奴等は俺が死んだっていう知らせが入るのを見張ってる、時期が来てもそれが入らなきゃ、おそらくはお前もタダじゃ済まない」
「それならそれでいいじゃないですか」
どうせ生きられないと思っているんだろう相手に、俺は逃げればいいんだと言った。
「どうせ死ぬ命なら、どこで死んでも一緒でしょう?なら、ここで一回生き延びて、どこかへ逃げても同じ」
生き延びれたら幸いだし、死ぬなら同じ。
じゃあ、生きる方法を考えるのが医者ってもんじゃないのか?
「あーあ、ロシナンテみたいなこと言いやがるなあお前」
苦笑いする相手に、俺に任せてくれますか?とたずねる。
「いいだろう、そのかわりだが、成功したらお前は俺の元から出て行け。餞別はくれてやる。どうにも、お前にはただの医者だけで収まらないもんを感じる」
傍に置いておくのはよくないだろと言う相手に、そうでしょうねと返した。
「それじゃあ、卒業試験を見届けてやるよ」
頼むと言ったドクターに麻酔を打って眠らせて、能力を使った大規模なオペを開始した。

病魔に侵されていく体を抱きしめて、彼は大丈夫だと言ってくれた。
人々から後ろ指を指され、近づくなと叫ぶ大人達、見捨てた医者達を蹴散らして、彼だけが俺の手を引いてくれた。
温かいと思ったのは、久しぶりのことだった。
こんな風に人と触れ合ったのも、優しくしてくれたのも、家族を失ってからは彼が初めてだ。
その男が何度も言ってくれた言葉を自分で口に登らせる。
「きっと大丈夫」
あなたを自由にしよう、そう心強く決めたのは彼への罪滅ぼしだろうか。

オペが終わった翌朝、しっかりしたもんだと感心するドクターにまだ立ち上がるなと告げた。
「そういうわけにもいかねえよ、逃げるなら支度もいるしなあ」
突然にはいかねえから、気がついたらいなくなってたって風にしないといけない。そう言って笑った。
「というか、お前の方が先に出て行った方がいい。俺の関係で狙われるかもしれないなら、なおさらな」
早いに越したことはないと、俺が使っていた医療器具を詰めるのを手伝ってくれ、いくらかの金を渡された。
「あと、これが俺からの餞別だ」
受け取れと言ったドクター・ナインが差し出したのは、刀身の長い刀だった。
「昔、俺が使ってたもんだ。手入れは欠かしてない、切れ味は保障する」
銘は鬼哭だと言われて、口の中でそれを繰り返す。
手術は成功したが、完治して完全に動けるようになるまでは傍に居ると言ったが彼は聞き入れてくれなかった。
「そんなことより早く行け、俺はこの店を畳むのに忙しい。昨日はこっそりと言ったが、どうもそんな暇もない気がしてきた。お前はぐずぐずしちゃいられねえだろ」
この港なら、どっかの船医になって潜りこめる船があるかもしれない、どうするかは自分で考えろと彼はベッドの上で言った。
「じゃあ、達者で生きろよ。トラファルガー・ロー」
笑って俺を送り出してくれた。
これから先にどこへ行くのかは、結局は教えてくれなかった。

港に潜伏して船を探している最中スラムの片隅で爆発が起きたと聞いた。
火事になり巻きこまれて数人が死んだと聞いたが、火元がどこだったのか大体聞いて、思わず引き返しそうになりやめた。
最後に彼は言っていた、急いで片づけなければいけないと。爆発という言葉もおかしい、ガス管は確かに通っているものの、わざと着火でもしなければ爆発するわけがないし、それならまずもって火事になるだろう。
ならば、ドクター自身が爆発させたのかもしれない。死んだ人間に彼が含まれているのか、それはわからないけれども、きっと逃げたのだとそう信じるしかない。
渡された刀を持っ手に力をこめる。餞別だと渡されたそれが、彼にとってどんなものだったのかわからない。けれど、なんとなく大事にしなければいけないものだとはわかっていた。
うかうかしていられない、俺は早く乗れる船をみつけなければ。
「さよなら、ドクター」

俺は、あなたを自由にできただろうか?

「ローお前を自由にしてやるんだ」
なににも縛られる必要はない、そう言って俺を連れ出してくれた。
俺にとっての本当の自由とはなんだろう。
故郷と家族を失った時は、全てをぶち壊してやろうとした。
俺にとっての最後の自由は死だったから、それをどんな形で迎えるかを考えた。
だから生きようと考えたことはなかったのだ。
生きて何がしたいと思ったこともなかったし、そもそも大人になれるとも思っていない。
彼が掲げた自由とは、俺にとってはこの世に存在しない夢物語でしかなくて。
もし仮に奇跡が起きて病が治ったとしても、この両手にかけられた鎖は重くのしかかるだろうと、そう思っていた。
それでも自由を掲げるんだろうか。

「どうしたロー?眠れないのか」
寝ずに火の番をしていたコラさんは、俺の視線を受けて顔をあげた。そういうわけではないと首を振ると、彼は近くまで来て俺の頭を撫でてくれた。
早く寝ないと明日もすぐに出発するぞと優しく声をかける相手を見つめて、問いかける。
「コラさん、自由ってなにしたらいいんだ?」
「なんでもいいのさ、ローの好きなように生きればいい。これからお前にある時間で、なにをしたいのか考えればいい」
なりたいものとか、やりたいこととか、行きたい場所とか、なにかないのか?と問いかける相手に、しばらく無言で考える。
「…………医者になりたい」
「医者に?」
「どんな病気の人も見捨てない、医者になりたい」
そう言ったら彼は顔を輝かせて「いい夢だな!」と言うと、俺の体を抱き上げた。
「夢?」
「そうだ、お前の夢だ」
だから苦しくても、辛くても必ず生きようと言う。
「夢っていうのはな、生きる力になるんだ」
それがあればお前は大丈夫だと、彼は嬉しそうに笑う。逃亡生活をしているというのに、こんなに明るく間の抜けた表情を見せる彼は、本当に優しいんだろう。
その手を伸ばして触れて、幸せになろうとは言えなかった。

医者になりたいという言葉は、半分は嘘じゃなかった。いつも父の仕事を見て育ってきたから、苦しんでいる人を救いたいと思っていたのは事実。だけどもう半分は、彼を喜ばせるために口にしただけだ。
必ず救うと望みをかける相手には悪いけれども、簡単にその言葉を信じられるくらいに俺は子供ではなかった。自分が宝物にしてきた夢や希望なんていう光り輝くものが、ただのガラクタとして世界に捨て去られることを知ってしまった時に、子供は一歩、大人に近づく。
俺の夢や希望は、壊されすぎた。幻想の仮面を被っていた大人の作った汚い世界の顔を知ってしまった瞬間に、脳にある輝く世界を見ていた領域が音もなく機能を止めた。そのかわりに、冷たく続く現実を冷静に判断しろと告げてくる。

夢を見るな、きっと誰も救ってなんてくれない。

彼だってわかってるはずだ、心から俺を助けられるなんて考えてはいないに決まっている。そう思うけれども、決してこんな言葉は聞き入れてくれないんだろう。それもわかっていたから、黙って彼に夢を見せてあげようと思った。
二人とも、自分のためじゃなくて相手に夢を見せるために、寄り添っている。
真っ白に塗り潰される前に、よりたくさんの夢を彼に見せてあげられたのならば、俺はそれで充分だ。

片手で簡単に背負いあげられて、彼の肩から落ちないようにしっかり捕まった。
体中に広がった白い痣を隠すために、しっかりと衣服を着ている。どこへ行っても、どんなに弱っていても化物扱いされるのは俺の方。
彼だけが触れてくれる、彼だけが人として見てくれる。
優しさなのか同情なのか、見捨てずにいてくれるのは意地なのか。もう夢なんて見ないと決めていた俺の頭では、彼の行動は理解できないでいた。
服を着替える途中、ほとんど白く染まった体は、それでもモンスターと嫌われる程度には十分に奇妙な存在だった。昨日よりも今日、更に白さが増したような気がする。

「もうなにしても無駄なんだ」
小さな声で呟いたつもりだったけれど、彼はそれを目ざとく聞きつけた。
「そういう夢のないことは言うな、お前の病気は必ず治る」
「夢なんてないよ」
この世には夢も希望もない、そう言い切ったら、そんなことは言うな!と怒鳴りつけられた。
随分と剣幕になって怒る相手を、俺は冷静に見つめる。
「大人になって、医者になるんだろう?叶えたいことがあるなら、途中で諦めるな!」
「諦めてるんじゃない、現実を冷静に判断したらそうだって言ってるだけだ」
「バカなこと言うな!信じろ!」
「なにを信じればいい?」
真面目な顔で冷え切った声で彼に問いかける。
温かすぎる彼に、俺に必死で夢を見せようとする彼に聞き返す。
それは、本当にあるものなのか?
希望も夢も、見るだけなら簡単だ。けれど、根拠がなければ永久に手に届かない。遠すぎる灯台の火に、人を導くことはできやしない。
もしその光が本当にあるなら、見せてくれよ。俺の未来を照らしてくれていると示してくれ。
そうすれば信じてもいい。

「コラさん、俺はなにを信じたらいいの?」
問いかけた俺を彼はただ抱きしめた。胸に押し当てられて、暖かい温度にすっぽりと包みこまれる。
強い力で押し付けられた先で、ドクリと心臓が動いている。
テンポよく、小刻みに彼の心臓が動いている。

「ロー、聞こえるか?」
心臓が動いてるだろ?と言うので、そりゃ生きてるから当たり前だろうと思った。
「お前の心臓も動いているよな?」
「うん」
「お前がどう思っていようとな、お前の体は生きたいって思ってるんだよ」
だから心臓は動いてるんだと、震える声で彼は言う。
そうじゃない、心臓というのは人体の中でも自立した器官として動き続けている、呼吸や脳の活動維持その全てに必要な血液の供給をするために、脳の意思とは関係なく働くようにできている。常に動くためにあるから筋肉でできていて、肉としては非常に硬い。そんな肉の塊でしかない。
体自身には意思はない、それはただの幻想だと切って捨てるのは簡単だ。

「お前の小さな体が必至で生きようともがいてるのに、お前が生きたくないなんて言うなよ」
病気と闘うのは人体構造においては通常の反応だ、人間の体は自身が生み出したわけじゃない遺物をとことん嫌う。そういう風に勝手にプログラミングされて、動いているだけにすぎない。
体が勝手に生きているだけだ。

「ロー、心臓に心があるって人がいるだろ。なんでかわかるか?」
「……わからない」
心は意識の問題だ、脳の活動として捉えるのが普通だ。けれどもしばしば、人は心臓に心というものがあるという。
彼の着ているハート柄のシャツ越しに、心音が聞こえている。
熱くて、脈拍の早い心臓だ。
「人が生きるのはな、体が生きてるからだけじゃない。心が生きてないと、人は生きてないんだよロー。だからな、人を生かしてくれる大事な心臓と心は、どっかで繋がってるんだ」
これが動いている内は、心を殺しちゃいけないとコラさんは言う。
それをなくしてしまっても、人は死んでしまうんだからと。
「心臓が動かなくなる前に心を殺しちゃ駄目だ、それが死んだらお前はずっと辛いだけだ」
俺の頭を撫でて、そっと触れるキスをくれた。優しくてくすぐったいその触れ合いに、心臓から急にどっと血が流れ出すのがわかった。

「ロー、俺はお前に心をあげたいんだよ」
もう一度、体と意思が重なって生きていけるようにしたいんだよと彼は言う。
「どうして、そこまでして俺なんかを?」
胸の中に顔をうずめたまま尋ねると、彼はしばらく沈黙してから、そうだなと呟いた。
「俺の心をあげてもいいと思ったからだよ」
「だから、どうして俺に?」
「うん、わからない」
俺の心がそう思ったからなー、と空とぼけたように言った。
馬鹿みたいだと思った、お人好しとも思った。
けれど、頭を撫でてくれる手が優しくて、もういない両親が幼いころに自分にしてくれたあの手を思い出した。

「正直に言ってみろ、ロー。破壊だとか暴力だとか、殺し合いだとか、そんなものじゃなくて、ロー。本当はどうしたい?」
ああ、暖かい。暖かくて、心地よくて、それでなんで涙が出るんだ?
思い出すなと何度も言った、消えてほしいと何度も思った。
真っ白になって死んでいく町を見て、そしてそれを見殺しにした世界を見て、どれだけ正義を叫んでも誰も救ってなんてくれないとわかった。
だから全部、なくなってしまえばいいって思ったんだ。
だけど……。
「ずっと……一緒に居てほしかった」

あんなことにならなければ、世界が声を聞き届けてくれれば、もしかしたら一緒にいられたかもしれない。
俺の家族も、町の人も、ずっと一緒にあそこで笑っていられたんだ。
「じゃあ、お前が生きなきゃ意味がないだろ?」
「……なんで?」
「お前の心臓は、お前の父さんと母さんがくれたものだからな」
そう言うとまた、俺の額にキスをしてくれた。
「心臓を動かしているのは、お前に生きていてほしい人達の力だ。お前の体が動いているのは、お前に生きていてほしい人達がいたからだ」
お前のお父さんもお母さんも、妹さんも、お前が育った町の人達も、たった一人だけ、生き残ったお前が覚えておかなくてどうするんだ?
「だから、最後に残してくれた人の力を殺すんじゃない」
だけど心配するな、沢山の人を背負いこんで、その重さで潰れそうになったって大丈夫だ。
お前の傍には俺がいるからな。
俺が一緒に背負ってやるからな。
お前の命は、お前だけのものじゃないんだ。
一緒に居れば寂しくないし、恐くないし、寒くないし。
なにより、楽しいだろ?
俺の頭にキスを落として、コラさんは笑う。
こんな時でも彼は笑いかけてくれる。

心臓に心があるらしい、そんな絵空事なんて信じてもいなかった。
どれだけ解剖しても、カエルの心臓に心なんてものは入ってなかったからだ。
けれど、彼の言葉を信じてもいいとこの時思った。
動かす仕組みは知っていたけれど、どんな力を使ってそれが動いているのかは、どの医学書にも書いていなかったからだ。

金が入ったんだと言って、ある日、宿屋に泊まった。雪の降る街で、酷く寒いから野宿は体に触るだろうと彼は優しく告げた。
宿屋の下は居酒屋になっていて、宿泊客や街の人間が飲みに来ていた。そこで安い魚料理を食べていると、普段は気にも留めないラジオから流れる曲が耳に入ってきた。

〜錆びた鎖滲む 涙と
嘆き掲げましょう  自由を〜

食べる手を止める。
男の歌声が、哀しげに店内を満たしていく。ほとんどの人達はそれに気を使うこともなく、食事をして、談笑している。聴こえているのは自分だけかもしれないなんて、そんな風に思ってしまう。

〜君にとっての本当の自由とはなに?
曖昧な答えは聞き飽きたさ
君にとっての本当の自由とは死かい?〜

体がやけに乾いていった。なんだか自分のことを言われているような、そんな錯覚を覚える。
歌詞の君とは多分、女の人を言ってる、暴行されて犯せれるそんなどこにも転がってる悲劇。
しばしその曲に聴き入っているとなにかに気づいたのか、コラさんがどうした?と声をかけてきた。
「店の奴等の視線が気になるのか?」
「いいや」
「音が気になるなら、決してやろうか?」
いつもみたいにと手をあげた相手を制して、この歌が聴きたいと正直に言った。
「歌?ああ、ラジオか」
お前が聴いてるなんて珍しいな、と言う相手にうんと曖昧に返す。
「そんなにいい歌か?」
子供に聴かせる内容じゃないと苦笑いする相手に、いいんだと返す。
俺はこの歌を聴きたかった。どうしても言えない言葉を飲みこんで、伝えてくれるその歌がやけに染みる。

〜愛をください  貴方の
枯れた口にどうぞ  あなたと
愛されたい そう誰よりも  また後ろ指を指され
粘りを生む甘い日々  終わらせて〜

「コラさん」
「ん?なんだ?」
部屋に戻りたいと言えば、疲れたのか?と聞き返してくる。俺を片手で抱きあげると、食べかけの料理を宿の人に頼み部屋へと運んでもらい、彼は俺をベッドに横にすると残った料理を食べ始めた。
「食べたくなったら言えよ、お前の分は残しておくし」
うんと返して横になっても、まだ頭の中であの歌が流れていた。

今、この枯れた体に欲しいのは、食べ物でも水でもなかった。

「コラさん……キスして」
そっと顔をあげて言うと、食事の手を止めてビックリしたように俺を見る。けれどしばらくして、顔をほころばせてベッドへ近づいてくれた。
「珍しいな、お前が甘えてくるなんて」
そう言って、額に落ちてきた唇の熱を思い、そうじゃないと首を振る。
「なにがそうじゃないんだ?」
「コラさん、キスして」
もう一度言う、真剣な顔して告げる俺の目を見てしばし沈黙した後で、馬鹿なこと言うなと彼は優しい声で一喝した。
「そういうのは、大人になって女の子とやれ」
まったく、ませたこと言う子供だと続ける相手の名前を呼ぶ。
「コラさん」
「ロー、お前がなに考えてんのか知らねえけど俺は……」
「コラさん」
お願いだ。
そう言うと、彼はしばらく迷ったようだが俺の頬にそっと手を差し伸べてキスをしてくれた。
触れるだけの、優しいキスが長い時間続いた。
その行為のおかげで、心が温かくて、俺は泣きそうになった。

嬉しかった、ただ懇願から仕方なしに返されたものだとしても、彼が触れてくれることが幸せで仕方なかった。

愛されたかった。
少しだけでいいから、貴方に。

「ロー!もう病院を回る必要なんてない!」
お前の病気を治す手段がみつかった、大丈夫だ、なんとかしてみせる。
嬉しそうに語る相手に、嫌な予感がすると口にすることはできなかった。それはもしや、危険なことではないのか?どんな危ない橋を渡るのか、定かではないというのに、大丈夫だと彼は言う。
どうしてそこまで俺を助けようとしてくれるのか、わからなかった。
なんで生きてほしいんだ、どっちみち死ぬ人間なのに。そう思っても、彼の手は決して離れてくれなかった。
もしかしたら罪滅ぼしだったのだろうか、全ての苦しむ人を救うなんてことはできないと、そんなの誰だってわかる。
だから目の前にいる人間だけでも助けたいと、そう思ったのだろうか。それに理由がないと言われればそれまでなのだが。

「ほらロー、これを食え!」
彼が血まみれで手に入れてきたのは、時価五十億ベリーで取引される予定だった、オペオペの実だった。
初めて見る悪魔の実に、震える手でそれを持ち、さあと促されるままに一口齧った。
途端に口の中に広がる、とんでもない味に思わず顔をしかめれば、不味いだろうとコラさんも嫌そうに言う。
「悪魔の実は、どうも味はよくないんだ。とにかく、その能力が使いこなせるまでは、混乱することもあるだろうけど、とにかく落ち着くのを待とう」
知り合いにいい医者がいるんだ、闇医者だけど、腕は確かでな。お前のこともきっと面倒みてくれるに違いないと自信満々で言う相手に、そうかと言いながら受け取った地図と名刺は、少し離れた街を指していることに気づいた。
「一緒に行こう、俺が匿ってくれるように相談するから、お前は医者になれるように勉強したらいい」
腕は確かだからさ、とお墨付きをいただく相手に、それならと信じてもいいかと考えた。
「お前が医者になったら俺も嬉しいなあ、その能力を使えば沢山の人を助けられるぞ」
「本当に?」
勿論だと彼は言った。
俺一人を助けることで、たくさんの人を助けられる。それなら等価交換にはぴったりだ。

希望を託されていると知った。この細すぎる手に、まだ白さの残る手に誰かの役に立つ力があるのだと。
「コラさん」
「なんだ?」
「俺、医者になるからな」
絶対に、約束するからと言ったら、応急処置をしたもののまだ腫れた顔のままで嬉しそうに彼は笑った。

そして、雪の降りしきる中、彼は引き金を引けないままに、実の兄に撃たれて死んだのだ。
俺を庇って、死んでしまった。
どうやって泣けばいいのか、もうわからなかった。
ただ、ただあなたがくれた心が痛くて、仕方なかった。

目を開けると、まだまだ船室は暗く。時計を確認せずとも朝までは遠いのはわかった。

眠りにつくと思い出す。
枯れた体に心をあげようと言ったあの人が、死んでいったあの日。
愛されたい、そう声に出せば笑われると思って口をつぐんできた。
誰からも嫌われたこの体を背負って、自暴自棄になっていた俺が刺したあの傷も、彼は痛かったろうと泣いてくれた。
痛かったのがどこかなんてもう、わからないくらいに傷ついていた。

心をあげようとキスしてくれた、彼の優しい手を思い出して頭に触れる。
あなたはいともたやすく俺が望んでいたものをくれた。望んでいたものをくれた上で、死んでしまった。

二人で生きようって言ったのに、一緒に行こうって約束したのに、最後に嘘つくなんて酷いじゃないか。
最後に愛をくれるなんて、酷いじゃないか。
枯れた体に一度だけ与えられた水は、確かに心を満たしてくれた。だからこそ今、酷く体が乾いているように感じる。
それでも手を伸ばしてはいけないと、禁じた。
港から見上げた黒い煙に、俺の背負っているものを改めて気づかされたのだ。
それは名前のない医者の背負ってきたものかもしれないけれど、でも、彼の分の十字架も俺は掬い取ってここに塞いでいる。
俺の体を満たしてくれる水が、血になって動いている。
それは誰の水だったのか、もうわからない。
「メス」を使って取り出した自分の心臓は、手の中で確かに動いていた。
両親が作り出して、あの人が再び心をくれた心臓だ。
一緒に持ってくれると言った墓を、あなた一人分、また背負わなければいけなくなってしまった。
そして、俺はあれから更に増えた墓を前に座って、誰かの死を胸に置いて生きている。
どんな音も響かない、静かな空間に二人で横になった記憶が随分と昔のもののようだ。

「バイバイ、ロー」
そんな声が耳元で聞こえて、目を閉じた。
俺の愛した道化師が、相変わらず手を振って別れを告げてくる。
本当は、あなたが言いたいこと、わかってるんだコラさん。
でも、嫌だよ。
俺の心臓は、あなたが居なきゃ生きていけないんだ。

それはドレスローザに辿り着く、前日の夜のことだった。

あとがき
カルディアの回顧録、以上で終了です!!
ローの屋号呼びと鬼哭の入手経路のためだけに、オリキャラ出しましたが、基本はコラさん回でした。
最後は、やっぱりこの人しかいないだろうと思っていたので……。
ローが宿屋で聴いていた歌は「sukekiyo」の「mama」という曲です。
私「DIR EN GREY」が好きなんですが、そのVo.京さんのソロプロジェクトバンドの歌でして……ある時にふと「この歌、ローにしか聴こえない」現象を起こしてそろそろ数か月ほど経ちます。 それだけで、作品書いたのもどうかとしていますが……私、非常に楽しかったです。
長い間、お付き合いしてくださいましてありがとうございました!
2015年3月6日 pixivより再掲

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