カゲロウは有明の空を見るか -幼虫-
密やかにでもまことしやかに、口伝いに語られる。
祈りのように呪いのように、人から人へ親から子へつらつらと、そこにあった意味さえ忘れて語り継ぐ。
全て、神さまの言うとおり。
風の強い日の午後、池に一人で足をつけて立っていた。濁りきってぬかるんだそんな場所で、ぼうっとした顔で空を見あげてなんか、まるでこれから死にに行くように見えたから、慌てて柵を飛び越えてそばに駆け寄った。
「なにやってんだ危ないぞ!」
「えっ、あの」
三月の終わりで風はまだ冷たかった、それ以上に池の水は冷たくて歩くたびに足元の土が絡みつき、ただただ気持ち悪い。
「ほら早く行くぞ」
「あのいや、俺は」
「なんか落っことしたとか?」
「そういうわけ、じゃないんすけど、でも」
なら早くあがろうぜ風邪ひくぞと相手の体を掴んで、抱えあげて岸まで連れて行く。泥だらけの足は素足だったから、怪我とかしてないだろうなと確認すると、大丈夫っすよと小声で返すものの、体のほうは芯まで冷えているのか震えが止まらない。
そんな相手に着ていた上着を渡すものの、いえ汚れるからいいっすと遠慮するので無理にでも上から被せて手を引く。
「俺の家ここから近いからさ、風呂入ってけよ」
「え、でも」
「いいから、早いとこ行こうぜ」
慌てて放り出したせいで倒れていた自転車を引き起こして、後ろに乗るように言うと仕方なしに従ってくれた、じゃあ行くぞと走り出した俺の後ろで、身じろぎする相手にしっかり掴まれよと声をかける。
「あんたこの辺の人じゃないでしょ」
「いや、去年引っ越してきた」
「そうっすか」
聞かないんですかなんであんなことしてたのかという質問に、話したくないんなら言わなくていいぜと返す。
「なんかいやだろ、知らない奴に説教されるのも、同情されるのも」
俺そんな偉くないし、あと普通に寒いから早いとこ家に帰りたい、だから飛ばすからしっかり掴まってろと言うとペダルを漕ぐ足に力を入れてスピードをあげる。ちょっとあんたなと叫ぶ相手が、振り落とされないように腰に抱きついてきたので、一気に家まで走るぞと笑いながら返す。
「そうそう、俺なローランっていうんだ、おまえは?」
「マンドリカルドっす」
相手の名前を繰り返しとりあえず頭に叩きこむと、できるだけ最短距離で家路を急いだ。
今まで出したことないくらいの速度で帰路を走り抜け、屋根が見え始めた辺りからは速度を徐々にゆるめて玄関前に乗りつけ、困ったように周りを見回していた相手を抱きあげ、まあとにかく入ろうぜと声をかける。
「シャルルマーニュ、アストルフォ、なあ誰かいるか?」
どうした玄関先で騒がしいぞと顔を出した二人が、おまえなんだその格好と慌てて駆け寄ってきたので、悪いけど風呂入りたいから後の用意頼んでいいか告げ、泥だらけだった相手を抱えたまま足の汚れだけ簡単に落としてから家に入る、わかったから早く行けとシ叫ぶシャルルマーニュはいったん奥に引っこみ、二人ともこっちねとアストルフォに風呂場に押しこまれた。
「二人まとめてっすか?」
「悪いな、狭いけど我慢してくれ」
いや文句はねえっすけど俺のせいなんで、なんというか迷惑しかかけてないけど、あんた平気なのかと不思議そうに声をかけられる。
「なにが?」
「いや普通あんなとこ見て、関わりたくないっしょ」
ここまで世話焼いてくれるとか、めちゃくちゃお節介だなって思ってと視線を逸らしてつぶやく相手に、そうかもしれないけど、まあ放っておけなかったからさと服を脱いで洗濯用のカゴに入れていくと。ほら早いとこ入ろうぜと風呂の戸を開けると、ためらいを見せつつも着てた服を脱いで一緒に入ってくれた。
成長期の男子二人では流石にちょっと狭いものの、そこは仕方ないと諦めてまずシャワーで汚れていた脚から洗い流していく。怪我してないかと聞いたとき大丈夫だと言っていたけど、浅い傷がところどころについているし、水などに当たると流石に痛いらしく顔を歪めるので、後でちゃんと消毒したほうがいいぞと注意する。
「足の裏とか平気か、なんか踏んだりしてないよな」
「うん大丈夫」
多少の切り傷で済んでるしそんな大事にはならないかとと言うけれど、あんな池で出来た傷って体によくないだろ、なにかあってからじゃ遅いわけだしさ、そう言いながら泡立てたタオルで体を拭っていくと、痛いと涙目で訴えかけられる。
「ああほら傷に染みてるんだろ」
「自分で、やるんで本当に大丈夫」
「そうか?」
背中くらい流してやるからと、説得して背に回るとあんたお節介がすぎませんとつぶやく、アストルフォとかとよく風呂入るからなと返す。
「えっと、誰」
「さっき居たろ、ピンクの三つ編み頭の」
「女の子と一緒に入ってるんすか?」
いやあいつ男と指摘したら、えっそれはえっと想像通りの反応を見せて思わず吹き出す。わかるよ急に聞いたらびっくりするよな、そんな話をしつつ背中から上半身までを綺麗にして洗い流すと、やっぱり足だけは痛みが走るらしく身を悶えるので、大丈夫かと声をかける。
体の汚れを落として貯めておいた湯に浸かると、相手の顔色が少しよくなった気がする。二人分の着替え用意しといたからねと明るい声がかけられたので、ありがとうなと内側から声を返すと二人ともゆっくり温まりなよというアストルフォに、わかったと返す。
「この季節に水浴びはダメだろ」
そんな楽しいものではないっすよと深く息を吐いてつぶやく、ちょっと事情があって、しなきゃいけないことがあるんですと、湯に浸かって力が抜けたらしい相手がつぶやく。
「いや三月に池に入るって、極限のイジメじゃないんだから」
犯罪にあたるなら通報するがどうすると聞けば、たぶん取り合ってくれねえっすよと興味なさそうに返す。
「神事っつうか儀式っつうか、なんかまあそういうもんで」
「周り誰もいなかったけど」
そういうのって監督責任とか問題にならないか、少なくとも子供一人でさせていい内容じゃないだろと言えば、いやまあ誰もいなかったとかじゃないんだけど、とにかく俺が抵抗し続けた結果で、まあいいんですよそこはとつぶやく。
「でもさ、もうちょっと暖かくなってからでよかったんじゃ」
「あそこね、もうすぐ工事が始まるんで、なくなっちゃうんですよ」
この辺とか大型の開発が入ることになって、反対してた人もそれなりにいたけど、古いだけの土地でなにか特殊な生き物がいるわけでもなし、衰退していつかは手放すことになるはずだった場所だから、それがまあ急に来たってだけ。
「だから最後なんすよ、俺で」
いやで逃げ回ってたものの、俺が我慢すりゃ済む話だしこれで終わるならいいかなと、とはいえ一人ってそれなりに心にキてたんで、だからありがとうございます。
「誰も助けてくれないんだろうなって、思ってたんで」
正直すっごい嬉しかった、少し涙混じりにつぶやく相手の目の奥に感謝と悲しみの色が感情が透けて見えたので、なら声かけてよかったと返すと、だけどあんまり他人の事情に首突っこまないほうがいいっすよと、ちゃっかり釘を刺されなんでだよと聞き返す。
「なんていうか余計なもん見るだけですんで」
「俺は別に気にしないけど」
「いや絶対に後悔します」
大丈夫だってと濡れた手で頭を撫でると、やめてくれと小声で抵抗しつつも、たぶんあとでわかると思いますと言って目を閉じた。
それ以降は特に質問に答えてくれなかったものの、風呂からあがって用意してもらった服に着替えて居間に案内したら、お茶用意しておいたよとアストルフォから出迎えられ、きみどこの学校と声をかけられている。
「あっとその、中学卒業したばっかで」
「へー僕とローランもなんだ、高校どこ行く予定?」
えっタメだったんすかと俺を振り返って聞き返すので、そうみたいだなと返せばこれが成長期ってやつの力かと体格差にへたりこむ相手に対し、それで高校どこ行くのと質問を続けていき、視線を逸らされつつ聞いた答えに待って同じじゃんと目を輝かせる。
「そうなんっすか?」
やったぜ入学前から友達ゲットと喜ぶアストルフォに、本気で言ってますと少し口元を引きつらせながらつぶやく。
「なにが?」
「いや、池から引っこ抜かれて連れて来られたような奴っすよ、普通に考えてヤバいでしょ」
「でもローランが助けて来たから」
悪い奴じゃないって思ったから家まで連れて来たんでしょ、なら仲良くなれるんじゃないかなって思って。
「そんな理由で」
「僕にとってはそれで充分だって」
変な奴だなとつぶやく相手に、失礼しちゃうなと笑いつつもまあでも変なのはそうかと一人納得しているので、コントはいい加減にしとけよとシャルルマーニュが割って入る。
「体は温まったか? 怪我してるって聞いたけど」
「ああ、かすり傷なんで平気っす」
視線を再び視線をさまよわせる相手に変わって、結構ガッツリいってただろ消毒くらいしとけと取り押さえようとしたところで、来客を告げるチャイムが鳴った。
「ここにさマンドリカルドって子、来てるでしょ?」
ちょっと目を離した隙にいなくなってるから、うっかり沈んだかと思って心配したじゃんと言う長髪の男を前に、俺たちの視線は助け出した少年に向く、どうやら顔見知りらしい彼はあんた知ってて無視したんだろといやそうな顔をする。
「いやだなあ、そんな人が仕事サボってたみたいに」
「燕青さんの言うことは、いつも信じらんねえ」
「えっと、失礼ながら真っ当なご職業の人でいいのか?」
パッと見は優男風な顔立ちだけど、服の端から覗く刺青がどう見てもその筋の人にしか見えない、少なくともマンドリカルドの知り合いなのは間違いなさそうだけど、とはいえ子供一人を池に放置して平気ってのは、ちょっと感心できないんだよなと間に入る。
「えっと一応、俺の知り合いっす」
「親族のかた?」
「そういうんじゃないんだけど、なんていうか」
「出入りの漢方医、兼薬屋っていうとこ?」
正確には俺の先生がなんだけど、年が近いし話もしやすいだろうって弟子の俺がよく送り迎えしてるわけ、そんで迎えに来たらいなくなっててさ、なんかあったら俺めちゃくちゃ怒られちゃうし、色々と探し回って迎えに来たわけよ。
「一応言っておくけどチャリでもニケツは法律違反だからね、そこの金髪のお兄さんは特にめちゃくちゃ目立つんだから、気をつけな」
ほら帰ろうぜと声をかけてくる黒髪の男に対し、すみませんお世話になりましたと俺たちにきちんと頭をさげ、貸してもらった服はまた返しに来ますんでとつけ加える。
「そんな気にせず、普通に遊びに来ていいぞ?」
「あーいや、そこまで迷惑かけるわけには」
「俺はまた会いたいけどな」
僕もと横から割って入るアストルフォに、そうっすかと目を逸らしてつぶやき、連絡先だけでも教えてくれよと言えば、しょうがないなと溜息を吐いてから唯一持っていたらしいスマホを出し応じてくれた。
「本当に、あんま関わらないほうがいいっすよ」
「でも同じ学校だろ」
どっかで顔合わせるだろ、知らねえっすよそれなりの規模でしょ、三年かかっても全然会わないかもよと本人は取り合わなかったけど、その否定は入学式のあとですぐ破られた。
「なあローランってあいつと仲いいよな?」
誰だよと聞けば、ほらあの一番後ろの席のとこっそり指差して言われるので、マンドリカルドなら確かにそこそこ仲いいけど、じゃああの話ってマジなのと聞かれる。
「なんのことだ?」
要領を得ない質問に詳しい事情を求めれば、実はさと目を細めて楽しそうに教えてくれる噂、こういうときは大体よくない話だと経験上なんとなく理解している。
地味な見た目してるけど中学のときめちゃくちゃ荒れてたらしいぜ、今も不良に絡まれて喧嘩売ってるとか。
「そんなことないけどな」
「結構な頻度で絡まれてるって聞いたけど」
まあ昔から喧嘩をふっかけられるというか、変なイチャモンをつけられるのは本当らしいけど、自分から売るようなことはしてない、目立つから絡まれて大変そうだな程度だ。俺からすれば今に始まったことでもない。
「でも他にもヤバい噂あるだろ」
「他にもって?」
「なんか背中にさ、刺青が入ってるとか」
そういう危ないとこの家なんじゃないかって言われてんの、そんな証拠どこにあるんだよと聞けば、実際にびっしりタトゥー入ってる男と話してたとこ見たって奴いるし、それに水泳の授業とか出てないじゃん、合同授業のときもいなかっただろと好奇の色を隠すことなく続ける。
「あいつ部活も入ってないのに、なんでか夏の体育で陸上なんて選んでるし」
「水泳が苦手だって言ってたけど?」
「苦手って言っても暑いなか走るバカいるかよ、まだ泳いだほうがマシだろ」
それにあいつ上の服、絶対に脱がないんだって。
本当でも嘘でもどっちでも構わない、面白ければそれでいい、ヤバいとか言いながらその恐怖すらも意味深で楽しんでいる口ぶりに、そういうの興味ないんだよなと淡々と返す。
「興味ないって、おまえ」
「いや面白くないだろ、本人から言われたわけでもないのに」
聞いても答えないんだって、言えないってことは隠したいことあるんだろと返されるけど、そりゃそんな興味本位だけの口調でたずねてくる相手に話してどうなるか、簡単に想像できるからに決まってる。仮に真っ当な理由だったとしてもまたなんか言われるんだろうけど。
「白黒はっきりしたらいいんだな?」
「はあ?」
噂の的になってる相手は、教室の端でこちらのことに気にも止めずにぼけっと外を眺めている、その横顔がなんだか暗く沈んで見えたのは気のせいってわけでもないんだろう、そんな相手のそばまで大股で歩いて寄って行くとこちらに顔を向ける。
「なんか用すか?」
「マンドリカルド突然だが脱げ」
「はあ?」
なんでと叫ぶ相手をひっ捕まえて、カッターシャツのボタンを引千切るほどの力で無理に引っ張る、周囲の視線を一気に集めて涙目になりながら暴れる相手を押さえつけ、絶対に脱がないという黒いアンダーウェアに手をかけて、下にある白い背中を晒してやると、えっとざわつく周囲の奴に普通だろと淡々とした視線を向けてやる。
「なにすんだよ!」
「いや、なんか滅茶苦茶なこと言う奴がいたから」
水泳に入れないのは体に理由があるんじゃないかとかなんとか。
「えっ、まあ間違いではないけど」
塩素の強い水に浸かるとアレルギーが出て体調崩すし、てかそんなこと言わせるために人の服をひん剥くなよ恥ずかしいな。
「なんだよ一緒に風呂入った仲だろ」
「状況が全然違うし理由にならねえ! つか無理に引っ張るから、ボタン外れたじゃないか」
今日どうしろってんだよと涙目で叫ぶ相手に、まあまあ誤解は解いてなんぼだろと笑顔で返せば、それ以上の代償がでかいんだと少し首元が伸びたアンダーウェアを身につけ、完全には閉じなくなったシャツを片手に大きな溜息を吐く。
「裁縫道具いる?」
「すんません、借りていいすか?」
そんなん持ち歩いてるんだなと差し出して来た相手に言えば、いや後輩からのプレゼントでとちょっと顔を染めてつぶやく立香に、大切なもんなら他人に貸さないほうがいいんじゃないかとマンドリカルドは固まる。
「こういう緊急事態に使えるようにって、貰った物だし」
「そうっすか」
それじゃありがたくお借りしますと言い、早いとこどうにかしないととシャツのボタンに向き合っているので、それじゃ俺はこれで帰るなと返す。
「おい待て、人の服引き千切っておいてなんもなしはないっしょ」
「おまえの名誉を守ったんだけど?」
方法があまりに強引だったし今のはローランが悪いよと苦笑の立香に指摘され、じゃあ昼メシ奢るから許してくれと両手を合わせて謝れば、溜息混じりのしょうがないなをくれた。
「じゃあまた昼にな!」
「わかった、後でな」
またなと手を振って答える、周りを見回せばなんだやっぱり嘘なんじゃない、なんか盛りすぎだなって思ってたんだよねと口々にささやく声が聞こえてくる。声をかけてきた相手はすでに退散しておらず、一人残されてしまっていたのに気づくが問題ない。
さて次の授業行くかと歩き出した俺の前に、ローラン待ってと笑顔のまんま飛び出して来たアストルフォを受け止めて、おまえも元気そうだなと苦笑混じりに返す。
「あのさ今日って、古典の教科書持ってたりしない?」
「また忘れたのか」
ごめんとでも貸してくれると助かると両手を合わせて言うので、まあいいけどちゃんと返してくれよ、この間なんか貸してもらったこと忘れてそのまま持って帰っただろと指摘すると、ごめんってばと跳ねるたびにスカートがひらめくので、ちゃんと下履いてるよなと心配して声をかけると、もちろんだともと裾を摘んでみせる。
「そこまでしろとは言ってない」
「えー」
なんだよ似合わないってと頬を膨らませるので、おまえはちゃんと可愛いから、周りの目を色々と考えろとだけ返しておく。
「おまえも目立つんだから、な」
うんと明るい声で頷くので、教科書なら後で貸すから取りに来いよと頭を撫でると、ありがとうとオーバー気味の礼を受け、今度こそ移動教室のため急いで向かった。
「俺のことなんて、放っておけばいいのに」
学食のテーブルに向き合って座り、今日は奢りだからとカツカレーを頬張ってる相手に、そうもいかないだろと返す。
入学してから二ヶ月以上、もういい加減におまえの悪評くらい洗い流されてもいい頃合いだ、そもそも火消しをしないから燃えるんだぞと言い返すと、どうせ信じてくれないんで、いっそ黙ってるほうが楽なんだよといやそうにつぶやく。
「ほらそういうとこ」
「いいんだって、あと普通にボタン飛ばされたのは迷惑」
あのあと四苦八苦しながらつけたんだぞ、藤丸がいなかったらマジでどうにもならなかったと、苦手なりにつけ直したボタンを指差して言う。糸の色が違うのは、慌ててつけたからそこまで合わせている暇がなかったからだろう。
「ローラン、マンドリカルド!」
ヤッホー隣いいと聞いてくるアストルフォに、聞く前に座ってるじゃないすかと呆れ顔を向ける相手は、これ忘れないうちに返すねと古典の教科書を返却してくる。
「五時間目だって覚えてたのか?」
「あはは、マンドリカルドがね」
返さなくていいのって指摘されるまで忘れてたよ、取りに戻ってよかったと笑うと食事に取りかかるので、教室に戻ってからでもよかったのに、まあ覚えてる間に返してもらったほうが助かるんだけどとつぶやく。
「ねえもうすぐ夏休みでしょ?」
「の前に期末試験っすよ」
いやなこと思い出させないでよブーイングを返すが、それでねと次にはもう切り替えて話を進める。
「せっかくだしさ、みんなでどっか遊びに行かない?」
立香も誘ってさ、みんなで色々と行きたい所あるんだと言う相手に、楽しみがあるとやる気は出るよなと返す。
「あの俺はちょっと、家の用事とかあるんで」
「それ夏休み全部使ってとかだったりする?」
空いてる日でいいから遊ぼうよみんなに会いたいんだと言う相手に、困ったなと表情を曇らせるので家族と相談してからでいいんだぞ、まだ本当の約束ってわけでもないしさと助け舟を出す。
「まあでも俺も会いたいな、一ヶ月ってそこそこ長いし」
そうだなと迷いの色を乗せた瞳がしばしさまよっている、もう少し力押しすれば了承してくれるんじゃないかと期待を乗せて回答を待つと、わかったと再び視線を合わせて返す。
「全部埋まってるってわけでもないし、ちょっと相談してみる」
やったじゃあみんなで海とか行こうよとはしゃぐ相手に、海っすかとつぶやく。
「やっぱ人混みは苦手?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
予定が合えばなと苦笑する彼に、合わせてみせるともと発案者はやる気を見せる。まずはテストを乗り越えて可愛い水着買いに行くぞとガッツポーズを取るので、そこまでしますかとつぶやくが、夏のオシャレはより気合いが必須なのと笑顔で返している。
「海以外はどこに行きたいんすか?」
「んーとそうだな、お祭りとかもいいなって思うんだけど、一番はやっぱ海かな、バーベキューはさ僕らだけでは難しそうじゃん?」
「シャルルマーニュに車とか頼むか?」
「ああ、それならいいかも」
旅行とか行きたいけどそっちは難しそうだし、そうだウチとか泊まりに来ない? お盆にはジークが来るって言ってるし、みんなで花火しようぜとどんどん予定を膨らませていくものの、まずはとにかく期末テストを突破しないことには予定も立てられないだろと指摘する。
「期末の結果次第では、夏休みにがっつり補習だぞ」
「絶対にイヤ」
思いっきり遊ぶんだと主張するアストルフォに、ならある程度の成績で乗り越えろよ、中間のレベルだとおまえが一番ヤバいんだぞと返す。
「ガンバリマス」
「しっかりしろよ」
なんだよテスト前にフラれたらローランだって頭真っ白になるくせに、いっそおまえ一人だけ補習祭になっちゃえと言い返してくるので、誰がいつそんなことになったと言い返せば、なんだよ中学の中間で一回あったろと指摘される。
「そんなことは、いやあったな」
「あるのかよ」
どんだけ心に来たんだよと笑うマンドリカルドに、当時好きだった先輩と帰り道が一緒になったから当たって砕けろの精神でいって、木端微塵に玉砕したんだよと涙混じりに返すと、それをテスト期間にやるのはヤバいでしょと更に笑われてしまった。
「今はいないんすか、好きな人っての」
「大丈夫だ、むしろ紹介してくれ」
「ローランのことだもん突然に惚れて、急にフラれるかも」
今日の放課後とかに運命を感じたとか言い出してもおかしくないって、そんな突然に人は恋に落ちたりしないだろと苦笑気味のマンドリカルドに、いいやこいつはそういうタイプだよ、僕がついてなかったら受験も危なかったねと言い切るので、そこまでっすかと思わず噴き出している。
「そうだ課題もあるし、放課後どっかに集まらない?」
なんだかんだテストは乗り越えないといけないし、正直ちょっと助けてほしいなんて。
「いいっすよ俺でよければ」
「よっしゃあ、ローランも来るよね?」
「行く」
じゃあ駅前でどっか探そ、絶対に期末なんて悪魔を乗り越えて最高の夏にするんだ。
「そうっすか」
つぶやく相手の顔が曇ったので、無理にはいいからなと念押ししておいた。
駅前に向かう道すがら通りかかった車から、ようと声をかけてきた相手を見て隣を歩いていたマンドリカルドは小さく震えた。
「目立つから学校は来るなって、言ったっすよね?」
「もちろん承知してるよ、でもさ先生からのお達しだからしょうがないでしょ」
直に乗りつけなかっただけ褒めてくれてもいいだろと悪い顔で笑う相手に、しょうがないなと溜息を吐く。
「悪いちょっと、今日は帰らないと」
「そっかーじゃまた明日」
またなと軽く手を振り返してくれた相手を乗せた車を見送り、声かける場所だけは考えてくれたんだろうねとアストルフォが言う、確かに他の生徒らしい奴はいなかったしな。
「大丈夫かな?」
「学校に来てる以上は、なんとか大丈夫なんだろ」
とはいえ家の事情にまで口出しはできないもんねと言われて、そこが一番の問題だなとつぶやく。
「学校くらい普通に通っていいと思うんだけど」
「正直なとこ誤魔化しきれるもんでもないし、普通にってのは難しいよね」
実際ウチのクラスで真っ当に接してるのは立香と僕くらいだし、疑惑に対して本人が諦めてんだもん、変な噂も全部受け入れちゃってる自業自得だってさ。そこまで背負いこむ必要あるって思ったりするけど、本人はそれでいいって思ってるわけ、だからお手あげだよね。
「本人はいい奴なんだよ、こんな僕を受け入れてる時点でかなり人ができてるじゃん」
「それはそう」
「あー今のとこ肯定するのは人を疑う発言だぞ!」
酷いなあと口を尖らせる相手に、自分で言い出したんだろうがと切り返すものの、とはいえ問題はそっちじゃないんだよな。
「今からでも逃げ出す方法ってないの?」
「ないって聞いた、というかとっくの昔に決まってたとかで」
その決定が本人の意思じゃないのが腹立つけど、腹を括っている以上は決意を優先して苦しみから逃げる方法はないかって。
「ふーん」
「なんだよ、お節介だって?」
「そこまで言わないよ自分もお節介野郎ってとこあるし、だけどなんていうのかな、二人で共倒れとか見たくないんだよ」
僕は助けたいと思うから助ける、遊びたいと思うから遊びに誘う、友達になりたい相手には友達として手を伸ばす、みんなね。
「全部が終わったとき、みんな揃って笑っていることが一番かな」
「そうだな」
「思ったより上手くやってそうじゃん」
みんな心配してたんだよ、中学があんなだったから馴染めないんじゃないかって、知り合いがほとんどいないとこにして正解だったよねと言う相手に、そんな離れてないけどなと嫌味で抵抗する。
「それに進学先は決定事項だったろ」
「なんにも選択できないって? 行かせてもらえてるだけマシだと思うけど」
飼い殺しにされても文句を言えない立場でしょ、要はきみの体さえあればいいわけなんだし、真っ当な時代に生まれたことには感謝しろよと率直に述べてくる相手に、そうかもしれないけどさと小声でつぶやく。
「まあ反抗するのは正解だと思うぜ、死んだ相手に仕える義理はない」
あんたの場合だと仕えるってのも違うのか、その辺の細かいことをツッコまれんのもいやだろと飄々と語る背中から目を逸らし、あんたの相手は疲れるんであんま返事しないっすよと返す。
「いいよお、勝手に喋るから」
もうすぐ夏休みだし、お友達と遊んで来たらいいんじゃないのと言われるので、あんたどこで聞いたと睨み返せば、さあどこでしょうとミラー越しに笑いかける悪い顔が映る。
「ああ言っておくけど、学校に潜入したとかじゃないからね」
学生の身分を顧みての想定される会話だよ、きみ簡単に引っかかるしやっぱ面白いわと言うので、そうっすか不服を乗せて返す。
「仲いいじゃんあの金髪イケメンくんと、もう一人の三つ編みの可愛い男子と、もう一人クラスメイトの善性の塊みたいな子と」
「アストルフォが男子だと知ってる時点で、もうなんも信じらんねえ」
調べたらわかる程度のことでしょ、きみの周りのことは把握しておかないと困るんだよね、なにかあったときに反応できないし。
「池に放置した野郎の言葉とは思えないな」
「あれはしょうがなかったんだよ、ちょっと前にきみに手を出した奴等が噂を聞いて集まって来てたから、ちょっと角でお話しが必要になって」
下手なことしてないでしょうねと聞けば、大丈夫だよ新生活に入る直前くらいには歩けるくらいに留めておいたと、およそ医療従事者らしくない言葉を返される。
てかそのせいで放置されたこっちの身にもなってくれ、もうちょっと遅かったら足の感覚を失って戻ってこれなかったかもしれないんだぞ、そうなったら俺が助けに入る予定だったし問題ないってと笑う相手に、その前に引き抜かれたんだけどなとつけ加える。
「いいじゃんおかげで友達ができたんだしさ、あんたみたいなのとつき合ってくれるなんて奇特な奴は大事にしたほうがいいぜ」
だから遊びに行ってきなって、先生もそこまで行動制限しないからさ、なんてこっちの気も知らないで簡単に言ってのける相手に、海に行きたいって言われてるんですけどと返すと笑顔が少し曇った。
「あーそれは問題になるか」
まあ始まる前ならなんとかなるんじゃない、行くんなら早い時期にしなよ、八月に入ったらあんたの身がもたないかもだし。
「そんな痛いんすか?」
「こればっかりは本当に人によるとしか言えないな、平然としてる奴もいる一方で、ちょっとも耐えらんねえって意気地なしもとかく多い」
傷がどうっていうより身を削られてるかんじかね、まあ死ぬほど痛いってもんでもないよ、少しの間耐えれば済むわけだし、ただその後で人前には出にくくなるってだけ。
「そうっすか」
「あんたは自分で選べないからね、そこは同情するけど」
「いらねえっす」
勝手に人に同情されんのはなんか腹立つと返すと思ったより言うじゃないかと面白そうな声で返されるので、あんた嫌味も通じないの本当に面倒だなと視線を窓の外に向ける。
「そう言うなって、送迎と身辺警護と傷のケアまでできちゃう万能なお兄さんだぞ?」
嘘くさいなとつぶやくと、本当にできちゃうんだから任せてくれよとまた信用できない笑顔を貼りつけて返される。
「遠くに遊びに行くんなら足にはなるよ、そっちのほうが安心だし」
「シャルルマーニュさんに、初対面でめちゃくちゃ警戒されただろうが」
「そりゃ当然の反応だから俺は気にしないって」
「俺が気にするんだよ」
他の人たちに俺のせいで迷惑かけたくないしさと返すと、子供がそんなもん気にするなよ、世間の目に対しては本当に手厳しいなと口を尖らせてつぶやく。
「他人の視線ばっか気にしてたら、まともに外を出歩けなくなるぞ」
でも気にかけないと誰かを傷つける、不用意にそんなことしたくないんだと言えば、あんたに傷つけるほどの棘はもうねえよと鼻先で笑い飛ばされる。
「跳ねっ返りだったころは手を焼かされたけど、従順すぎてもそれで面白くねえなって」
「どっちなんだよ」
もういいだろこっちは覚悟を決めてるんだから好きにすれば、暴れて抵抗するだけ痛い目を見るって骨身に染みてるんだ、文字通り。骨はやってないだろとカラカラ笑うけど、冗談になってないんだよ。
そんな相手からの言葉をもう一切無視していると、車はどんどん町から離れて見慣れた郊外の森に半分埋まったような建物までやって来た。
「ほら着いたぜ」
車を止めてドアを開けると俺の荷物を勝手に取りあげて中に入って行く、先生帰りましたよと陽気な声でドアを開けるともう少し静かにしたらどうかねと、苦言を送られている。
「どうも」
定期検診まではまだ日があったと思うんですけど、なんのご用ですと聞きながら勧められた椅子に腰かけると、以前のアレルギー反応について結果が出たからその報告と、今後の予定についてすり合わせが必要だと思ったのだがと返される。
「これからテスト期間なんですけど?」
結果次第で変わってくるですよと返すと、初年度だからな全体の線を入れて骨組みは入れてしまいたいが、とはいえかなり広範囲なんだ、ある程度のバランスを取りながら進める必要があるとこちらの話を無視して言葉を進める。
「そのうえ開始日だが、七月の終わりか八月に入ってからか、どちらがいい」
七月から始めたほうが日程に余裕がある分、体への負担は少なくて済むがぬしにも都合はあるだろう。
「そこを加味したうえで、開始についてどう思っている」
残念ながらぬしの親族は早く全てを終わらせるべきだと主張している、だが儂は当初に示したとおりきっかり三年の猶予を持って進める、大人であっても無理に進めるのは危険がつきまとうというのに未成熟な子供であれば当たり前だ、故にあとはぬしの判断次第。
「聞いてくれるんですか、俺なんかの意見なんて」
「もちろんだ」
儂が決めてどうすると言うので、負担は少ないのは七月なんすよねと確かめる。
「それじゃあ」
「待ちなよ、この夏いっぱい使って爺さんと俺の顔ばっか見ることないでしょ」
「燕青、口には気をつけろ」
冷えたお茶を差し出してくる相手は、だって本当のことじゃんと気にするでもなく返す。
「せっかく友達が遊びに誘ってくれてんだから素直に行っとけよ、さっき言っただろ?」
横槍を入れてくる相手に、別にそんな気を使ってもらうほどじゃないっすよ、先生としてもこっちの体調を気を使ってのことでしょ、こんな理由で断っていいのか。
「やはりそう言うだろうと思っていた」
先ほども言ったが三年は余剰に期間を取っているのだ、やろうと思えば今年全てを終えることは不可能ではない、なんのための猶予かといえば、体の具合を盾に取って好きに使える時間を用意しているにすぎない。
「無論、より痛みを分散させるには長い期間を取って進めるのがいいのは否定しない、だが若者の時間を奪い取ってまで背負わせるほどのものでもない」
そのうえでぬしはどうしたい?
「俺は」
「おおー海だあ!」
電車の窓ガラス越しに日差しを受けて照り返す青い海を見て歓声をあげる、まだ到着まで三十分くらいあるよと取りなす立香に、テンションあがってきたとはしゃぐアストルフォを取り押さえ、朝早いんだし静かになと注意する。
「後輩さん連れて来なくてよかったんすか?」
「マシュは今年、受験だから」
流石に三年の夏休みに軽々しく遊びには誘えないよと言う相手に、それもそうかと返すマンドリカルドに対して、というよりは誰かを警戒したんじゃないのと俺の身内は冗談半分の笑みを向けてくる。
「それって俺か?」
「他に誰がいるのさ、連続失恋記録を更新中のくせに」
やめろ先週のことを槍玉にあげるなまだ心の傷は癒えてないと返すと、それも含めて海で発散しようって話だったでしょと笑い飛ばされる。
「まあ、晴れてよかったっすね」
確かに、雨だったら中止だったもんなあと青く遠い空を眺めて返す、あとは運命的な出会いに期待するのみなんだけど。
「記録更新に期待」
「なんでそう不安ばっかりあおるんだ」
あはははと軽快に笑う相手の頬をつねってやると、もう痛いじゃないかとやり返してくるので攻防戦になり、あの電車内なんでもうちょっと静かにさと取りなしてくれ。結局は見回りに来た車掌さんにまとめて注意されたりもしたものの、無事に目的地には到着できた。
夏休みも始まったばかりで人の多い浜辺にレジャーシートを広げ、貸し出しされてたパラソルを立てて、よしじゃあ遊ぶぞと気合いを入れてビーチボールを膨らませているアストルフォに、あんまり一人で遠くまでは行くなよと一応は注意しておく。
「迷子になるからって?」
「それもあるけど、なんか目を離すと沖まで流されてそうで恐い」
なんだよそれと頬を膨らませるものの、本当にふらふらどっかに行きそうなんだよな。あと更衣室から出て今もそうだけどやっぱり目立つ、パーカーこそ羽織ってるけど髪は気合い入れて編んできてるし、紫のパーカーにピンクの水着に白いサンダル姿はぱっと見はどう見ても女子だし。
「変なのに絡まれたりしたら面倒だろ」
「あーまあ」
「俺も藤丸もいるんで、大丈夫だと思うけど」
でもローランほど頼りにはならないかもだけどねと苦笑する立香に、大丈夫だってこいつもポンコツだからとなんにも安心できない一言をつけ加えられた。
「とりあえず、一人で行動は極力避けろ」
「はいはーい、あっそうだ日焼け止め塗ってよ」
パーカーを脱いで肌をさらす相手にそういうとこだぞと呆れつつも、渡されたチューブを受け取って手が届かないという背にしっかり塗ってやると、ありがとうと今日の太陽ばりの笑顔をくれる。
「マンドリカルドも日焼け止め塗るんだ」
「あーそう、弱いんだよな」
男らしくないかもですけど、焼けるとあんまいいことないんで一応は予防してますと返すので、ついでだから背中塗ってやるよと手招きすると、いいんすかと遠慮がちにたずねられる。
「遠慮すんなって、ほら」
目の前にさらされた白い背中に手を滑らせると、悪いっすねと声をかけられた、これくらい大したことじゃないだろと言いながらしっかり塗りこんでいく最中、自分で手足に日焼け止めを塗り進めていくのを後ろから眺め、大変だよなと一言返す。
「焼けると自分が困るだけなんで」
「そっか」
「なんだ、ちゃんとしてんじゃん」
感心したわという声に驚いて振り返ると、なんでいるんだよとマンドリカルドが背後に立ってた相手に向けて噛みつくように叫ぶ。
「しっかりした大人が、一人くらいついてるほうがいいかなって」
「あんたをしっかりした大人に勘定できねえんすけど」
そんなこと言うなよ、ちゃんと朝一で準備して来たんだぞと笑いかけるのは、春先に一度だけ会った黒髪の青年だった。今日はアロハシャツにグラサンだったけど、にっかり笑う人好きのしそうな笑顔は以前に見かけたときとまったく同じ。
「その人誰?」
「あ、えっと」
立香からの質問になんて答えるべきか視線をさまよわせていると、相手のほうが近づいてきて肩を組んで答えた。
「マンドリカルドくんが夏の間に下宿してる先の、イケメン薬剤師のお兄さんだよお」
「遠い親戚の燕青さんです」
ノリが悪いぞと肩を組んでくる相手を引き剥がし、素行不良でサボりの常習犯です、今日もたぶんサボるための口実について来てるんで、もう荷物番でも押しつけましょうと淡々と返す。
「いいよお、子供はみんなで遊んで来な」
「へえ、いい人なんだね」
「どこが?」
本気でやな奴っすよと立香に向けていやそうな顔を向ける相手を見つめ、本当に素直じゃないんだよなあと笑っているので、実際のとこあんたなんなんですかと聞いてみる。
「さっき言ったとおり、あの子がお世話になってる先生の弟子で、今は同居人」
親戚ってのはあの子なりの方便だけどさ、そこはどうでもいいんでしょと返される。
「マンドリカルドの味方でいいのか?」
「んーその質問はちょっとわかんねえな。基本的には守護の対象だけど、必要とあればなにをしてでも拘束するのが役目でもある」
そんな恐い顔しなくっても、あの子もう反抗期が終わってるから危ない手段なんて使わないよと笑顔で返すものの、さっき一瞬だけ背筋も凍るほど冷たい表情をしていた、過去に池で放置していたことをみても容赦ないのは間違いないんだろう。
「あんまり犯罪になるようなことは、よくないと思う」
「俺も同感だよ、とはいえ仕事は仕事ってね」
今日はきみたちが危なくないように監視するのが仕事、ほら呼ばれてるみたいだし行ってきなと手を振ってその場で横になる。
「早くしなよ、あいつはきみらとの思い出を優先したんだから」
「それってどういう」
「もうローラン、二人とも待たせてるんだぞ!」
行くぞまずはチーム対抗ビーチバレー大会だと腕を引いて行く相手に、わかったからそんな引っ張るなと返しつつ振り返ってみた相手は、気にすることなく日光浴を楽しんでた。
「俺ってなにがダメなんだと思う?」
「えっと、積極的すぎるとことか?」
真っ直ぐに向かってその場でフラれるって初めて見ましたよ、なに言ったんですなんて聞かれても思い出せるような内容がないんだけど、アストルフォにひとしきり笑われたことはなんか頭の端に残ってる。
ビーチバレー大会やってて、まああんまりにも派手だったから見物人が何人かいて、声援をくれた女性に声をかけてみただけだ、黒髪でロングヘアの可愛い子でさ、これこそ運命だって衝撃を受けたのに。
「フラれたら、ポンコツになるってマジなんすね」
「そんなに笑うなよ」
いやその場のナンパで断られて泣き出す男ってのも珍しいっすよと言う相手から、どうぞと差し出してくれた瓶を受け取る。ぬるくなる前に飲んだほうがいいっすよと笑いかけてくれるので、おまえが眩しいと泣き言を返せばなんすかそれと苦笑された。
「他の三人は?」
「昼飯、買いに行くって」
ローランが朝っぱらからフラれてるから、とりあえず慰めてやってよと押しつけられたんですと瓶コーラを飲むので、そっかごめんなとつぶやく。
「なんていうか、あんまり気落ちしすぎないようにな」
「ありがとう」
すでに水滴が滴る瓶の蓋を開けて中身を飲みくだすと、甘い炭酸が喉を駆け抜けて落ちる、多少は元気づけられた気分になって涙をぬぐえば、これじゃ男前も台無しだなあと笑われた。
「男前だなんて思ってたのか?」
「みんなそう思ってるだろ、容姿にも身長にも恵まれてるって」
羨ましい限りだわとつぶやく相手にじゃあなんでフラれるんだよとぼやくと、知らねえっすよ俺にわかると思うのかと呆れ口調で返されるものの、目の奥では普段のアストルフォと同じような面白がる色が揺れている。
「マンドリカルドが冷たい」
「だから知らねえって、とりあえず泣くのはやめろ」
ほらと冷えたタオルを顔に押し当てられる、日差しの下だからか余計に心地よく感じるそれを受け取って、ついでに頭も冷やしたらどうっすかという相手の言葉に従って、頭からかけてしばらく静かに瓶の中身をゆっくり飲んでいく。
対面に座る相手はというと日差しのキツさに目を細め、日陰に避難してから日焼け止めを塗り直してるので、背中塗ってやろうかと声をかける。
「あんたも律儀だな」
「慣れてるのは、ある」
アストルフォもそうだけど別の幼馴染がいて、そいつは地方の女子高に行っちゃったから、最近は会えてないんだよなと思い出話をしながら相手の背にクリームを塗りこんでいく。
ウォータープルーフのおかげが頻繁にパーカーを着ているからなのか、さほど陽に焼けた形跡は見られないものの、日差しの下にいる限り体温はあがるのか朝に触れたときより、じっとりと汗ばんだ体は熱を持って触れる先から吸いついてくるようだ。目の前で身じろぎしない相手に向け、思い出したことを問いかけてみる。
「燕青さんがさ、マンドリカルドは思い出を優先したって言ってたんだよ」
「やっぱ余計なこと言いやがって」
だからいやだったんだと明らかに不機嫌な声で吐き捨てる相手に、迷惑なわけじゃないんだよなと改めて確認する。
「そんなわけないでしょ、楽しみだったっすよ」
「ならいいけど、ちゃんと楽しんでるか?」
「もちろん」
ちょっと日差しは眩しいけど、よく考えたら海って数えるほどしか来たことなかったし、夏だとこんな全体的に光って見えるんだなって。
「おまえがいじけてる姿も見れたし」
「できたばかりの傷をえぐるな」
ごめんってば、でも面白い夏休みになったなって思ってるよと、相手は小さく笑って返す。
「まだ始まったばかりだからな?」
なんか最後の思い出みたいに話してるけどまだ七月の末だ、今日は予定が合わなかったシャルルマーニュも遊びに来いよって言ってたし、まだまだ会いたい気持ちはあるんだぞと続ける。
「八月はやっぱ難しいのか?」
「うーん、いや今のとこ全然わかんないだけ」
予定が合うかは本当にそのときになってみないとわかんないっていうか、本当にごめんなと力なく笑う相手に、俺知ってるんだよなと言う。
「なにを?」
「おまえがなんで、実家じゃなくて燕青さんの先生とこにいるのか」
そうっすかと答える表情が明らかに曇ったので、そのうえで言うけど同情とかじゃないんだ、おまえとは友達だし、いい奴だって知ってるから、陰で傷ついてたり泣いてたりすんのはいやなんだなと思って、そうつぶやき無防備にさらされている背を撫でる。
「藤丸みたいな事情を知らない奴ならともかく、知ってまで関わってくるか普通」
別に隠してたわけでもないし、みんな知ってるのが普通なんだよあっちでは、それで知ったら同情されるか、憐れなもんというか腫れ物に触れるようなかんじか、そのどっちかなんだよ。
「本当にこんな気遣ってくれる人というか、違うな当たり前のように受け入れてくれる人ってのが初めてっていうか、それが当たり前みたいな雰囲気の中で生きてきたから、なんかどうしたらいいかわかんなくて」
「おまえが笑ってたらいいなって、思ってたんだけど」
「だったら成功してんじゃねえすか」
本当にと聞き返すと、そりゃそうでしょ間近でこんな情けねえツラ拝むことなんて初めてだったしと意地悪く答えられるので、茶化すのはやめろと頬を膨らませて言う。
「俺たちと一緒で気が楽になるんなら、会いたいって言ってくれたらいい」
今までどおりなんも変わらない、そう言ったら一瞬だけ泣きそうな顔をしてみせたものの、押し止まったようでそっかと視線を逸らして笑った。
「おーい、ご飯買って来たよ!」
なに食べる、焼そばとカレーとあと他にも色々、それでさ後でかき氷かアイス食べに行こうとはしゃぐ相手に昼終わったらなと声をかければ、おおローランが早くも立ち直りかけてると感動のコメントをくださった。
「なんだか色々と買ってもらってすみません」
「いいよお、これも必要経費ってやつだし」
「なんでも経費で落ちるわけねえだろ、帰って先生に怒られろ」
大丈夫だって先に資金をちょろまかしてきたからと笑顔で返す燕青さんに、なんであんたは悪いほうの世渡りだけうまいんだよとゲンナリした顔でつぶやく。
「だって酒を我慢してるだけ偉いじゃん?」
「車で来たんすか?」
「いんや、今日はバイク」
どっちにしろ飲めねえんじゃねえかとツッコむ相手に、だから好きな物くらい食べてもバチは当たんないでしょと、パックに入った焼きそばに箸を伸ばす。
「あっ海鮮塩焼きそばウッマ」
「よかったっすね」
もういいや、いただきますと手を合わせて並んだ料理に向き合う、なんだかんだ言ってもこの二人、仲悪いってほどじゃないんだろうな、無理に遣わされた相手だとしても振り払わないことだけは間違いないわけだし。
「ねえ二人でなんの話してたの?」
「いや、普通に慰めてもらってただけ」
そうなのと言う立香になんでと反対に聞き返すと、いやなんか真剣な顔してたからと指摘される。
「大事な話でもしてたのかと」
「真剣な話をするような場所でもないだろ」
次こそフラれない方法を模索してたんだけど、俺がフラれることは直せるとかいうもんじゃないでしょ、とか言われてしまってとつぶやくと、コメントは差し控えさせていただきますとこっちも丁寧に返された。
「なんでだよ、カッコいいだろ俺?」
「カッコいいよ、いいけどなんだろうね」
「ローランがフラれる理由なんて真剣に向き合わないほうがいいよ、もうそれが運命みたいなとこあるもん」
はたから見て笑ってるくらいがちょうどいいんだよと、後ろから近づいてきたアストルフォにのしかかられ、暑いんだからくっつくなよと引っつく相手を引き剥がせば、これあげると手にしてた焼きもろこしをなんでかくれた。
「まあ貰うけどなんで?」
「二本は多かった」
「いや最初に気づけよ」
食べれるけど、味変がないから飽きると言う相手にわかってたことだろとつけ加えて、もらったばかりのとうもろこしをかじる。
昼から気温が高くなってくるにつれて、できるだけ日陰で休憩して水分補給しろよと燕青さんから注意を受けつつも、波打ち際から少し足が浸かる程度の場所ではしゃいでいたところ、どこから持ち出されたのかデカい水鉄砲でヘッドショットされたり、狙い撃ちした立夏とアストルフォを二人で追いたてたり、抱えあげた上で海に放り投げたり、まあ色々とあって結局は夕方まで遊んでいた。
「そろそろ帰る準備しろよ?」
水着から元の服に着替えている間に、パラソルなどの片づけを勝手に済ませてくれ、暗くなる前に全員ちゃんと家に着くようになと声をかけ、燕青さんは浜に隣接していた駐車場のほうへ向かう。
また今度なと大きく手を振る相手に、早く帰れサボり魔と返すマンドリカルドだったけれど、聞こえていないのか気にしてないのか大きく背伸びする相手の足取りは軽い。
「面白い人だったね」
「金輪際、顔を合わせないほうがマシな野郎っすよ」
まあ居てくれてよかったじゃない、基本的に寝てるだけのように見えて飲み物差し入れてくれたり、恐そうな人に絡まれてるアストルフォを助けてくれたり、なんだかんだ大人ではあったよと取りなす立香に対して、先生から燕青の行き先を知らないかって連絡があったんで、マジで無断でついて来てるんだぞとつぶやく。
「まあまあ終わりよければ全てヨシってね、面白かったじゃん?」
めいいっぱい遊べたでしょと言われると、それは確かにと不服そうながら頷く。
「にしても、結構疲れたっすね」
なんか半年分くらい笑った気がすると疲れ半分、充実さ半分くらいの顔でマンドリカルドはつぶやく、そんなに笑ってくれたならよかったとアストルフォも機嫌は上々だ。
「次はさ僕らの家に泊まりに来なよ、シャルルマーニュも会いたがってたし」
お祭りもあるし確か花火大会もあったはずだし、今度は浴衣が着たいなと言うので、いっすねえと前向きな解答を返している。
「よっしゃあ、なら次はお泊まり会か花火大会ね!」
決まりだ、ゲームと大量のお菓子を用意してみんなで遊ぼうと終始テンションの振り切れてる相手に、八月の予定が本当にわかんなくってすみませんと頭をさげた。
「謝ることないじゃん、元から会えるかもわかんないって言ってたし」
僕はそもそも補習ギリギリ回避した口だしと視線を逸らしてつぶやくので、だからもっと遊びに行こうよと笑ってみせる。
「ありがとうございます」
できるだけ予定空けられるように頑張りますんで、また夏休みの合間に会おうなんて照れたように笑う相手に、よっしじゃあ約束だぞと手を取って叫ぶ。
行きと同じく四人でボックスシートに座って、夕暮れに染まる海を眺めながら帰り道のゆったりした空気が流れる中、疲れた目の前に座る二人が寝たのを見て、あのなと隣に座るマンドリカルドが小声でつぶやく。
「今日はありがとう」
「だから終わったようなこと言うなって」
「そうだった」
へへっと軽く喉を鳴らして笑ってみせたあと、また連絡するなと言う。
「先生の家、ちょっとわかりにくいんだけど、燕青に言ったらたぶん迎えに行ってくれるし」
「行っていいのか?」
「立ち入り禁止じゃないすよ、先生も普通に医者やってんで」
あんま騒がしいと怒られるかもだけどそれくらいなんで、とささやくような声で言う相手の目の奥になにかが揺れている。言いたいことを押し殺しているような、心にないことを伝えようとしているような、複雑そうなものの正体を掴もうと手を伸ばしかけた直後。
「だから、また今度な」
完全に覆われた優しい笑顔に、あの色は全てかき消されてしまった。
先生、準備できましたよと気楽に言い放つ燕青に連れられて、施術用の部屋に入ると相手はそうかとだけ返し、普段はかけているサングラスを外して腰かけていた。
「ではまず上を脱いでそこに横になりなさい」
はいと震えないように気をつけつつ答えて、指定されたとおりに上の服を脱いで横になると、素直すぎて面白くねえと茶化してくる男におまえはもう出ておけ、必要とあれば呼ぶと一蹴され追い払われていく相手を見送る。
「この季節に日差しの下にいた割には、日焼けもなく綺麗なものだ」
「日焼けしてたら痛いぞって注意したの先生っすよ」
あとコンディション次第では作業が遅れるかもしれないって聞いたから、初めてですよこんな気遣ったのはと返すと、おかげでこちらは施術しやすいと黙々と準備を進めていく相手をうつ伏せの姿勢のまま眺めていると、そろそろ始めるぞと顔をあげた相手と目が合った。
「緊張しているな」
「すんません」
背に触れていた先生が、体が強張っていると余計に感度はあがる少し気を緩めておけと頭を撫でてくれるので、できるだけそうしますと返すと、とはいえ気力でどうにかなるものでもないがなと突き放すことを言う。
「痛みの感じかたは個人差が大きい、よほど耐えられないのならば手をあげるなり、なにか合図をしろ」
「わかりました」
では始めると宣言して背後に陣取る相手の手が背に触れた直後、容赦なく突き立てられ皮膚を貫く針は熱を持って肌を焼くように熱く感じた。
「あぁ、いっ!」
確かに我慢できないほどの痛みじゃない、けどそれは一度ならばって話、間を置かずに引き抜かれた場所とほぼ同じ位置に針を刺される、背後だから見えてこそいないが肌の中へじわりと黒い染料が染みこんでくるような気がする。
想像でも妄想でも実際にそうなんだ、針を持つ手はよどみなく着実に背に墨を入れていく、かぶれなど出ないことはすでに確認済みではあるが、唐突な異物と刺激に体は拒絶している。
背中の中心から徐々に針先は移動していく、どんな模様が刻まれているのか一切見えてないけど、背中の全面を埋める状態だって想像したら、まだ全然始まったばかりだなと溜息を吐いた次の瞬間、今までより強い痛みが襲ってきた。
「はぁっ、ああっ!」
暴れないように両手で寝台を掴んでいるものの身動きしないのは難しい、まだ始まって間もないというのに情けないと涙の滲む目をつむると、作業する手を止めて背に浮いた汗を拭ってくれた。
「場所にもよるが骨に近い場所は痛みも強い、よく耐えているほうだ」
「うっ、そうすか」
とはいえ今日の分はまだ終わらんと突き放されるので、なら早いとこお願いしますとゆっくり息を吐きできるだけ体の力を抜くように努めても、気休めにもならない。むしろしがみつく腕にしっかり力をこめ、元から浅くなっていた呼吸がどんどん早く薄くなっていく。
「息を詰めすぎるな」
「あっ、うう……すんません」
日程を削った分だけ一日に進めなければいけない作業量は多い、もちろん体の限界がこない限りではあるものの、歯を食いしばってでも痛みに耐えるほうを選びたい。
「はぁっ! いっ、ぁあ、んくぅ……ひぃ、いっ」
とはいえ背中に降る針の雨は痛い、同じような場所を刺していたと思ったら突如として違う方向に落ちてくる、表面が熱を持ちすぎていたり腫れが見られたら同じ場所を続けて彫るわけにいかないとは聞いてた、けど予想以上に頻繁に場所が入れ替わる。
できるだけ涙がこぼれないように目を閉じていたいものの、急激な刺激で何度も開いては閉じるを繰り返す内に、少しずつ頬に涙の跡ができては熱い顔を冷やして固めてくる。荒くなった呼吸を整えようとゆっくり息を吐いてみるものの、刺さる針先に止められて、抜かれるのと同時にまた吸うを繰り返す。
時計は見えない場所にあるので、どれくらい時間がかかったのかはわからない、そんなもの見てる暇なんてなかったかもしれないけど、少なくとも俺にとっては人生の中でもかなり長くゆっくり流れていくように感じた。
「ここまで彫れば、今日の分は終わりだ」
よく耐えたなという労いの言葉もうまく頭に入ってこない、ここまでだと触れてくれた位置も背中のどこなのか判別できないほど表面の痛覚が麻痺しているから、とりあえずまだ終わらないってことだけしかわからない。
「はぁ、うっ……ふぅ、あっ! う、んん」
寝台を掴む腕に最後の力をこめて続く痛みに耐える、どんなふうになっているのか見るのが恐いな、たぶん顔も体もひどいことになってるんだろうなって考えながら、早く終われと祈る。
「終了だ」
湯の用意はできているかと外に向けて声をかけている先生に対し、もちろんできてますよといつもの明朗な声が戻ってくるのを遠い気分で聞いていると、思った以上に我慢強いなと頭を撫でてきたので、いつの間にと思っていたら顔を柔らかい布で拭っていく。
「連れて行っていいんですか?」
「早く清めてやれ」
了解ですと言うと正面から抱き合うように持ちあげられた、たぶん背中に触れないためなんだろうなと思いつつ、首に腕を回してしがみつき肩に頭を預けると、あんたが素直に甘えてくるとか調子狂うわと笑う。
「このまま大人しくしてな、頼むから」
なんでと疑問を抱いたまま運ばれた先でおろされ、残りの衣服を取られるのに抵抗もできないまま好きにさせていたところ、両手を体の前で合わせると包帯でしっかり縛りあげられた。
「なに、なんで」
「彫りを入れてる最中は体に傷が入るのはダメなんだよ」
でも針の刺激だとか染料が馴染んでない関係で、どう足掻いても彫り始めたばかりの体は痛んだり痒みが出たりする、そういうときに掻きむしられたら困るんだよ、次に進めなくなるし完成したときの見栄えも悪くなるから。
「だから無意識に触らないように、手は封じさせてもらうぜ」
ちゃんと事前に教えてたと思うけど覚えてなかったと首を傾げる相手に、黙って首を横に振るともしかして言ってなかったかとつぶやくものの、まあどっちでもいいかと混乱したままの俺を抱えて湯船につける。
「あっ! いってえ、なんっ……うぁっ」
「皮膚の表面は腫れてるし、血が出てないだけで穴だらけだからね、そりゃめちゃくちゃ染みるよ」
大丈夫だって針に刺されるよりは多少マシでしょ、そう言いながら手を伸ばしてくる相手に、思わず身を引くもののそんな広い場所でもなく簡単に捕まった。
「怯えるなよ、取って食おうってわけでもないんだしさ?」
あんまりしおらしいと本気になるだろと冗談めかして口にするけど、この状況で怯えるなは無理、背に軽く水がかかっただけでも痛覚が剥き出しにされたみたいに痛むのに。
「やぁ、いっあぁ……う、くぅ、んん」
「なかなかイイ声出すじゃん、本当にイジメたくなっちゃうだろ」
暴れるなよと言いながら、抑えこまれた腕を掴まれ引き寄せられ背に向けて湯をかけられる、痛みに悶えつつもなんとか声は抑えようと唇を噛めば、そういうことしちゃうかと面白そうに目を細められる。
「ごめんな、あんたには悪いけどこれも仕事だから」
背を撫でてくれる手に暖かさと優しさを見た、疲れ果てて体はぐったりと重いからただなすがまま、触れてくる相手に任せている。
ぬるく浅い睡眠の中で、輝かしい夏の日差しと青い空を見た気がした。こうして無防備に背を見せたのは三回目だっけ、ああいや教室で制服のシャツを引き剥がされたときも入れたら、まあそんなこといっか。
熱を持って痛みを主張してくる箇所に触れられると一瞬だけ和らぐ、制汗剤を使ったあとみたいな瞬間的に冷やされて心地いい、ずっと触っててくれないかなと思っていた矢先、用は終わったようで離れていってしまう。
「ローラン待って、もうちょっと」
身じろぎして相手に縋ろうと手を伸ばしかけたけどうまく動かせない、身じろぎして目を開けると相手も驚いたようで目を見開いて固まっていた。
「あっ」
「へえ、意外なこと聞いちゃった」
仲いいなと思ってたけどそういう関係だったんだと、いつもどおりの意地悪な笑みを向けてくる燕青に、震える声で違うとなんとか返す。
「あんな可愛い声で呼ぶくらい想ってるんでしょ」
「だから違うって!」
海で日焼け止め塗ってくれたの思い出してただけだから、おまえが考えるようなことなんてないからと返しても、どうだかとにやけた顔で近づかれる。
「なんだよ妬けちゃうじゃん、俺おまえの体の隅々まで知ってるんだけど?」
「だから違うってば、あと変なこと言うな」
嘘ではないだろ風呂まで入れてやったのにと口を尖らせて言うので、だからなんだよあいつとも入ったと不要なことまで口走ってしまった。
「わお大胆」
「だから、違うんだって」
別に好きでそうしたわけじゃないし元を正せばあんたのせい、もうなにを言っても墓穴を掘ることになりそうだし、真っ赤になった頬を隠すように顔を背けることしかできない。
「まあいいや、体の具合としちゃどう?」
「背中が痛い」
あと手を縛られたまんまなのは最悪とつけ加えると、思ったより元気ってことだなとからりと笑って、体を持ち上あげられると慣れた手つきでさらしを巻き、勝手にくつろげていた浴衣を着せ直してから、ようやく両手の拘束を外してしばらくは寝て過ごしなと他人事のように言う。
「寝てる間にも何回か鳴ってたから、確認しといたほうがいいんじゃない」
じゃなんかあったら呼んでくれよと手を降って部屋から出て行くので、枕元に放り出されていたスマホを引き寄せて画面をつけると、何時間も前に届いていたメッセージについて今更お知らせを受け取る。
アストルフォと藤丸とあとはローランからも、スタンプで元気って聞いてきた二人には、だらっとした馬のキャラクターのスタンプで返しておく。
すぐに藤丸から「元気ないの、大丈夫?」と心配するメッセージが届いたので、大丈夫っすよと打って送る。
「ちょっと暑さでやられてるだけなんで」
「ああ今年なんか、すっごい暑いよね」
夏バテでもしてるの平気と聞いてくる相手に、本当に大丈夫っすよとなんとか打ち返して、また遊びに行こうなと言ってくれるのに、もう一度スタンプを返しておいた。
もう一件あったローランからの言葉を見つめて、なんと答えるべきか迷う。
「体調とか大丈夫か、無理はしてないよな?」
話したいことあれば連絡くれよという相手に、何度か返信を打とうとしたけどなにを言えばいいのか、頭の中でも指先でも言葉がまとまらず止まってしまう。特に面白みがあるわけでもない画面を見つめながら、どれくらい固まっていたのかわからないけれど、しばらくして、もしかして起きたとこか? と新しいメッセージが入った。
アストルフォから返事あったって聞いて心配してたんだぞと返してくれる相手に、ごめんと送れば、謝ってほしかったわけじゃないんだよと困らせたようだ。
「ごめん、今あんま頭とか回ってなくて」
「通話のほうがいい?」
暇だからいいぞと言う相手からかかってきた着信に、震える指で応答を押せばもしもしと元気そうな声が機械越しに響く。
「あの、ローラン?」
「どうした?」
なにか言わないといけないと思うんだけど、相変わらず言いたいことはまとまらずに喉が震えるだけで、言葉らしきものが口から出てこない。
「ちょっと待て、マンドリカルドおまえ、もしかして泣いてる?」
「はあ?」
そんなわけないだろと言い返そうとした直後あふれ出た嗚咽に自分でも驚いた、まだこんなに泣けたのかと思うほど大粒の涙が伝い落ちていくのを止められず、なんでだろうなとつぶやき、心配してなにごとか声をかけてくれる相手に、ごめんなんかおかしいから落ち着いたらもう一回連絡すると言って、通話を切る。
「ちょっと待てって、マンドリカルド!」
叫ぶ相手の声を引き千切るように無理に切って、着信から目を逸らして電源ごと落としたスマホを画面を下にして置く。
決壊した感情を制御することをすっかり諦めて、放り投げたまま意味もわからず湧いてくる悲しさのような、悔しさのような痛みをそのまま吐き出してしまおうと、声をあげて泣く。
体を丸めると彫りを入れたばかりの背中が痛むのでうつ伏せに横になったまんま、熱くなった頬とひどく痛む目の奥を守るように両腕に顔を埋めて、ただただ静けさが落ちる部屋に耳を澄ませる。
誰もいないそれでいい、助けなんてくるわけがなかったんだから。元から一人っきりで終わっていくつもりだったんだ、あと二年でもう見なくってよくなるんだし、もういいから早く死ね。
気だるい体が眠りを欲してうつらと意識を手放しかけたとき、廊下を走る慌ただしい足音が近づいてくる、先生じゃないな誰だろと顔をあげると同時にノックもなしに部屋のドアが開いた。
「なんで」
燕青さんが連れて来てくれたと言う相手に、呼んでないのにと声を震わせる俺のそばまで大股で走り寄り、俺が来たかったからいいんだよと両手を掴まれ空いた手で目元を拭う。
「俺ってそんな頼りない?」
「ちがう」
違うんだ、おまえに縋ったらなんとか奮い起こした決心が揺らぎそうで、ようやく決めたのに、助けちゃくれないから諦めろって言い聞かせたのに、戻れるって思ってしまいそうになるから、だからダメなんだって。
「辛いんならそう言えよ」
陰で泣いてたり傷ついてたりすんのはいやだって言っただろ、友達になんもできない自分がすでにいやなのに、こういうときに頼りにされないのはなんていうか、もっと傷つく。そう話す相手の顔を見て、またじわりと喉の奥が震えてまとめきれない感情があふれてきそういなる。上半身をなんとか起こして座り直し、自由になった両手を目の前にいる相手に伸ばせば、これでいいかと正面から抱き締めてくれる。
「うん」
「そっか、落ち着くまでこうしてるから」
せめて好きなだけ泣いてくれ。
マンドリカルドと通話が切れた直後、部屋を飛び出した俺にどうしたとシャルルマーニュが声をかけてきたけど、ちょっと出てくるとだけ返してスマホを片手に外へ飛び出した直後、この辺ではあまり聞いたことのない強いエンジン音のバイクが目の前に止まった。
「もしかして、いいタイミングで到着した?」
ヘルメットのシールドをあげた燕青さんに、なんであんたがここにと聞けば一回来たことあるからさ、と言いながらヘルメットを投げて寄越した。
「マンドリカルドのとこ行こうって思ってたんでしょ、乗せて行ってやるよ」
「前にニケツは違法だって言わなかったか?」
「これタンデムシートついてるバイク」
合法だから問題なし、とはいえノーヘルってわけにはいかないからしっかり被っておけよと指摘されて、受け取ったヘルメットをしっかり装着すると後ろに失礼させてもらう。流石に重いなバランス取りにくいと心配になる発言をこぼすものの、それじゃ行くぞと再びエンジンをかけて走り出した。
「ところで、なんで俺のとこ来たんだ?」
走るエンジンと風に負けないように少し声をはりあげてたずねると、会いたがってるように見えたからと、率直な返答が戻って来た。
「会いたがってるっていうのは、マンドリカルドが?」
「そうだよ」
通話が切れたところを見ると、逆に会いたくないって言われると思ってたのに、それでも無理をとおしてでも行くつもりではいたけど。
「あんた無謀なとこあるねえ」
居場所も知らない相手をどうやって探すってのさ、やっぱ俺が来て正解だったわ。そう笑う相手に、むっとしたりはしたものの実際そのとおりだったから否定はできない。
「あんま喋るなよ、飛ばすから危ないぞ」
そう言うと同時にエンジンを蒸すと本当にスピードをあげ始めた、振り落とされるなって他人を後ろに乗せて走ってるんだぞと思いつつも、よく考えたら誰かの運転に乗せてもらうなんてかなり久々だなって考えた。
郊外の住宅街を抜けて、暗くなり始めた雑木林に差しかかったところでライトを点灯し、それまで走っていた公道と比べて少しだけスピードを落とした。舗装こそされているものの、道自体はそれほど頻繁に車が出入りしているような雰囲気ではなさそうだった、そういえば先生の家はわかりにくいとか言ってたっけ、自力で探す予定じゃなくってよかったなんて思いつつ、運転手は無言で走って行く。
「はい到着」
お疲れさんと言う相手が入り口前でエンジンを止めて降ろしてくれると、同時に中から白髪の男性がドアを開けて出てきた。
「どこへ行ってた?」
「サボりじゃないですよ、俺はあくまであの子のために動いただけです」
「一応おまえには、精神面の手当も役割に含まれているが」
「無理ですって俺じゃ、このまま憎まれ役でいるつもりなんで」
ということで適任者を連れて来ましたと言うので、どうやら自分がそうらしいと認識する。どうしたもんかなと背筋に冷たいものが伝うものの、老齢の男は溜息を吐くと仕方あるまいとつぶやき、あがっていきなさいとドアを開ける。
「あの、初めましてローランといいます」
「李書文という、ここの主人だ」
マンドリカルドの同級生だろう彼は二階の一番奥の部屋を使っている、気になっているんだろう早く行きなさいとうながされ、ありがとうございますと返し中にあがって教えられた部屋まで向かう。
特に施錠もされてなかった部屋のドアを開けると、えっなんでと聞き返す相手を無視して中に入れば、もうずっと泣いてたんだろうなという弱々しい顔で見あげられる。呼んでないとつぶやく相手に、俺が来たかったからいいんだよと返しつつ顔を覆って隠そうとした腕を掴んで、涙の跡が残る頬を拭ってやる。
ひどく傷ついた顔をしている、池で一人取り残された日よりもずっとボロボロで、よっぽど死にそうで、こういうのが見たくなかったんだけどなあと振り返って考える。
「俺ってそんなに頼りない?」
違うと首を振る相手に、ならなんでと問いかけてもまともな答えは返ってこずに今にも泣きそうな顔のまま、視線を逸らされる。
「辛いんならそう言えよ」
同情でも憐れみでもないんだ、ただ目の前で今にも誰かが死のうとしてたとき、それを止めない奴になるのはいやなんだよ。それが友達なら余計にいやだ、なんもできない自分を俺は許せない。
そんなことを話してる合間に、俺の手から抜け出してゆっくりと体を起こしたマンドリカルドは遠慮がちに両手を伸ばしてくるので、受け止める形で抱き締めてこれでいいと聞くとうんと小さくつぶやいた。
「落ち着くまでこうしてるから」
好きなだけ泣いてくれよ、本当はちゃんと助けられたらよかったのに、それができないんだって現実をつきつけられてしまって、自分でも情けないんだ。
なら最初に手を差し伸べた俺は間違っていたのかって考えてみたけど、そんなわけないと胸を張って言う、だから一人で我慢するのはやめてほしい、おまえ弱音ほとんど吐かないから、気づいたときには消えていないなんてのはいやだ。
「ローラン、背中」
止まらない涙で震える体を抱いていると、背に回したまんまの手で撫でてほしいと願い出てそれで安心できるならと、浴衣の下の素肌と上半身を覆う布の境でびくりと小さく震えるので、触らないほうがいいかと聞けばそこに触れてほしいと言う。
「痛くないのか?」
「痛い」
めちゃくちゃに痛いから触っててくれと矛盾したことを言われて迷うものの、これでいいんだなと強さを加減して撫でるとうっと小さく反応するので思わず手を離すと、涙混じりの目で睨みつけられ、ごめんってと言いながらそろりと手で触れると安心したようで身を任せてくれる。
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あまり傷を広げることはしたくないんだけど、本人がそれを望んでいるからいいのかと迷いはあるものの、続けて背を撫でると心地よさそうに鼻を鳴らして息を吐く。
「おまえの手、好きなんだ」
「そうなのか?」
安心するんだよなとつぶやく相手に、それなら来てよかったと返すと、本当にいい男じゃねえかと冗談めかした言葉を返されるので、そろそろ調子が戻ってきたかと頭を撫でると、擦り寄せるように頭を預けてくれる。
身を預けられているようで嬉しいと思った直後、ようやく落ち着いたのかゆっくり息を吐いてありがとうなと泣いて掠れた声で胸を押し返し、軽く微笑みを向けてくれる相手の瞳に、見たことのない浮かれた熱を見た気がした。
「どうした?」
「ああいや」
なんだったんだろう、瞬きの一瞬で消えていった魅入られるような揺らぎは。
まずここまでおつき合いくださったあなたに、全身全霊で感謝を送りします。
読んでくださって本当にありがとうございます、すでに同人誌にする最低ラインをクリアした文量でした。
長いんですけどまだ続きます、たぶんあと二話か、長くても三話で終わります、終わらせます。
こいつは谷崎潤一郎先生の「刺青」にかつて性癖を歪められたので、
刺青を入れたりピアスを開けたりする、加虐性のある話をとてもヨシと思っています。
新シンさんをついに書けた楽しさで、めちゃくちゃ好きに書いてしまったことは反省しておりますが、
すみませんがこれは癖に狂った話なので、最後まで好き勝手させていただきます。
2022年7月1日 pixivより再掲