恋の効果は香りだけじゃなく
ポケスタ用の写真を整理していたところ呼び鈴が鳴らされた、こんな時間に宅配ってことでもないだろうし、一体誰だといぶかしみつつドアモニターを確かめれば、見慣れた白黒の頭が映っていて、慌てて玄関先まで走る。
「ああ、キバナ。こんばんは」
「あ、うん。どうしたんだよ、急に」
連絡もなしに訪ねてくるなんて珍しくてそう聞けば、迷惑でしたと首を傾げる。そんなわけないだろと返しつつ中へ招き入れると、ありがとうございますとゆったり微笑み返される。預かったコートの下はとても薄着で、よくまあそんな格好でここまで来たなという印象だった。
ドアが閉まる音を聞いて安心したのか、ぎゅっと後ろから抱きつかれる。さっきからフェイントを突かれてずっと行動不能状態なんだが、一体どうしたんだ今日は。
「なあネズ、本当にどうした?」
「会いたくなりまして」
そう思い立ってくれるのは恋人冥利に尽きるってもんだけど。
「なにかあったのか?」
「いえ別に」
本当にただ会いたいなと思ってタクシーを捕まえてわざわざ来てくれたらしいが、寒かったんですよと正面に向き合って抱きつき擦り寄られる、ふわりと漂う甘い香りに頭が殴られたような衝撃が走る。誘われるように唇を重ねれば、ふっと柔らかく笑ってネズのほうから口の中へ舌を迎え入れてくれる。
一通り貪り尽くして離れてみると、トロンとした赤い顔でこちらを見上げる。特に酒の臭いもしなかったので酔っているわけでもなさそうだ、ライブが終わってテンションが高いというわけでもない、ならこれは様子が変だ。
見た目で勘違いされがちだが、ネズ自身は非常に真面目な性格をしている。人の家に連絡なしで唐突にやって来るなんてことは基本的にはしない。そして平素であれば、こんなふうにして玄関先でキスなんてすれば嫌味の一つでも飛んでくるもんだけど、それもなしだから、なにかあったんじゃないかと心配になる。
「本当に、会いたくなっただけです」
いけませんかと上目遣いで聞き返され、もうどうでもいいからこのまま寝室まで連れこもうかと、よこしまなことを考えてしまう。
「キバナ?」
「……とりあえず、茶でも淹れるからまずリビング行こうぜ」
寒かったんだろと聞けば、はいと嬉しそうに微笑む。可愛い、知ってるけど。珍しく可愛さが隠されることなく全面に出てる。ぎゅっと緩い力で腕を掴まれてるので、動き難くはあるんだが嫌ではない。だから困る、理性を試されている気がする。
キッチンでお茶を淹れている間も、座って待ってればと声をかけたものの、いやいやと首を振り、俺の腰に腕を回して抱きつき肩近くに頭を預けてくる。
いやおまえ、あくタイプからフェアリータイプにでもチェンジしたの?本当に理性の限界を試してるんじゃあるまいな。先ほどから触れている体温と、髪から漂う甘い香りに心臓が痛いくらいに跳ねあがって暴れてる。
「さっきから怖い顔してますが、やはり迷惑でした?」
「いや、迷惑ってわけじゃ」
本当にとこちらを不安そうに見つめるもんだから、本当だと頭を撫でて額にキスを落としてやると、嬉しそうに顔をほころばせて笑う。もう一回甘い顔に唇ごと咥えてやろうかという衝動を抑えて、火を使ってるから危ないし、ちょっと片づけもしたいからお客様はソファで待ってなと言うと、ようやく離してくれた。
大人しくソファに収まってくれたネズを見つめ、本当にどうしたんだろうと首を傾げる。それに先ほどから漂う甘い香りの正体はなんだ、普段ネズが身にまとっている香水とは違う、鼻につく甘い匂いなんかはあいつの好みではなかったはずだ。離れたはずなのにまだそばにいるかのようで、なんだか心が波立って落ち着かない。
ちらりとソファのほうを見れば、さっきまでオレが使ってたブランケットに包まっている。たぶんあれにも匂いが染みついてしまうだろう。甘ったるく、刺激的な匂いが。
とりあえず二人分のお茶を淹れ、待たせているソファに行く。ありがとうございますと丁寧にお礼を言い、熱いマグを受け取ると冷ますように息を吐きかけてから一口ゆっくりと飲む。
「美味しいですね、これ」
「そうだろ、気に入ってんだ」
体が温まるようだと言う、寒かったというのは嘘じゃないんだろう。コートの下が薄手のTシャツに部屋着のようなダボっとしたパンツだけとは、季節を考えると風邪を引いてもおかしくない。
マグを両手で包んでゆっくりと中身を口にしていくものの、じっとその視線がこちらに向いているのは感じる。意識しすぎなのかと思ったっけど、いやそんなわけないな、熱のこもった視線を間違えるわけがない。
でもなんだろう、この既視感。様子が変なのはわかってるんだけど、この変化、どこかで見たことあるような。
「どうしました、さっきからおかしな顔して」
「いや、そりゃおまえこそ」
なにか変ですかとたずねてくる相手に、なんかいつにも増して距離が近いだろと指摘すれば、そうしたかったのでと頰を染めて返される。
「なんだか無性に、おまえに会いたくなりまして」
マグを置いて擦り寄ってくるネズの青い目に浮かぶ熱のこもったハートに、あれと首を傾げる。そうだこれは知ってる、でも人間がかかっているのは見たことがない。
「なあネズ、今日はなにしてたんだ?」
甘えるように擦り寄せてきた頭を撫でてたずねてみると、思い返しながらポツポツと語り始める。
昨晩から続けていた新曲のミックス作業がひと段落して仮眠を取った後、散らかっていた部屋を片づけるついでにファンから貰ったプレゼントを片づけていた。
「珍しいお香をいただきまして、リラックス効果があるとか、なんとか……疲れてたので、試しに使ってみまして」
それからいい気分でまた編曲の作業に戻ったものの、徐々に気分が乗らなくなってきて、なんとなくキバナに会いたいと思い始めて、それで居てもたってもいられなくなったため、上着を羽織って気のままにウチまで来た、ということらしい。
さっきから漂う甘い香りの正体がなにかはわかった、そしてリラックス効果なんてものがどうにも眉唾らしいことも、なんとなく察する。
「なあそれ、好きな人に使ったらいいとか書いてなかった?」
「そういえば、恋愛に効果はあるとは、書いてましたね。次に考えてた曲の雰囲気に合うかと」
おまえ、妹とポケモンバトルを除けば、次に優先されるの音楽なんだな。そういうストイックなとこ好きだけどさ。
でもまあ原因がわかって安心はした。どういうふうに効いたのかは知らねえけど、とにかくネズの心に作用したお香の力で、普段は押しこめられてたんだろう感情が引きずり出されてしまった。簡単に言えばメロメロなんかにかかった状態だろうか。
どこまで効果があるのかはわからないものの、恋愛感情を刺激されて真っ直ぐオレさまの家に来てくれたっていうのは、素直に喜んでいいんだよな。普段はずっと淡白なだけに、温度差で面食らってしまったものの、ネズにだって他人に甘えたい感情があるんだと知れて安心はした。
「次はラブソングの予定?」
「なぜか、リクエストが多いんですよ」
なにを歌えっていうんですかね、むすっとした顔で文句をつけるので、でも歌ってみたいとは思うんだろと指摘すると、そうですけど、どうしたらいいかわからないのだと小声で帰ってくる。
「おれなんかの経験で、いい歌詞が書けるとも思えなくて。あまりいい恋もしてきてませんし」
「それ面と向かって言われると傷つくんだけど」
別にあなたのことがダメだというわけではなくと慌ててつけ加えて、やっぱりおれなんかには向いてないんだと顔を覆ってしまう。
「いやいや、んなことないって。ネズのラブソングはオレさまも聴いてみたい」
「でも、なにを歌えっていうんです」
「普通に好きな人のこと歌ってくれたらいいんじゃない?」
つまりはオレさまのこと愛してるって気持ちをこめてくれたら、なんて言うと、それはダメだと首を振る。
「なんで?」
「そんな甘ったるいロック、到底聞けたもんじゃないです。それに」
人前で歌って、思い出してしまったら、それはそれで辛いじゃないかと口を尖らせて言う。ステージでキバナのことを思い出しても、こんなふうに触れてはくれないでしょう。
「寂しいじゃないですか、おまえのことを想って、おまえのことを歌って、なのにそばには居てくれないなんて」
「えっ、それ」
普段のネズからはそれこそ想像できないんだけど、本気なの。マジで?
「なにか変なこと言いました?」
「いや変じゃないけど……おまえ、オレのこと大好きじゃん?」
一番にとまでは言わないまでも、好きでいてほしいとは思ってたけど。でもそこまで、そんなに思ってくれてるの?これってただ、お香でテンションが上がってるからか、それとも本心でずっとそう思ってくれてるのか、どっちだ。正気に戻ったときに聞いてもきっと答えてくれないだろ。
「ええ好きですよ。本気でないと同性と付き合うのは、中々に踏み切れませんよ」
そうだな、そのとおり。オレさまだって遊びで付き合ってるなんてことない。本当ですかとやけに不安そうにたずねられる。
「おまえくらい、人好きなら、男でも平気なのかと」
「それネズには言われたくない」
選び放題なのは自分も一緒の癖に、そう指摘すれば、おれの場合は近づいてくる人の大半は体が目的でしょうからとバッサリ切り捨てられる。
「またはネームバリューですかね。とかく、一緒に居て楽しくはないでしょう?」
「んなことねえから!」
男とは思えないくらい細い体を抱きかかえて、膝の上に座らせてぎゅっと正面から抱き締めれば、甘えるように肩へ擦り寄せてくる。
「おまえが好きだからそばに居たいと思って、そんで付き合ってるわけ、わかるよな?」
「わかってます、でも」
そんなに信用ならないだろうか。抱き締めて、腕の中に閉じこめて、まだ足りない?
「足りねえですよ」
まだまだ足りないです、と両手で頰を包みこみ触れ合うキスを贈ってくる。いいねそれ、でもそんなふうに甘えられると、いよいよこっちも我慢できねえんだけど。
「いいですよ、おまえに求められると、興奮するんで」
「後悔しても知んねえぞ」
させる暇を与えなければいいのでは、と更に煽ってくるもんだから、喜んでその挑発に乗ることにした。
軽いネズの体を抱えて部屋まで連れて来て、ベッドに下ろしても腕は離してもらえず、そのまま相手の上に乗りあげる形で覆いかぶさると、してやったりという顔で笑う。
「おいネズ」
「キバナが欲しくて来たんで、好きにしてください」
優しく甘える響きでそんなこと口にされると、最初っから理性を飛ばして食らいつきそうなんだけど。でもなあ、それはもったいないじゃん。せっかく素直に甘えてくれようってしてるのに、珍しいこの姿を目に焼きつけておきたい。
軽装だったネズの服はあっという間に脱がせ終わって、最後に結んでいた髪を解けば見た目に反して柔らかくしなやかな髪が広がる。それと同時に、まとっていた甘い香りがまたふわりと強く誘いかけるように漂う。
首筋に顔を埋めキスを落とすと、くすぐったいですよと喉を鳴らして笑う。耳元まで登りつめ、どういうふうに抱かれたいとたずねれば、ぽっと耳の先までわかりやすいくらい赤く染まる。
「好きにして、いいと」
「だから、おまえはどうされるのが好みなのかな、って。なあ教えてくんね?」
めいいっぱい甘やかしたい気分なんだ、なんでも我儘言っていいんだぜと耳元でささやけば、それだけでもトロンとした目で見つめ返される。
「おまえに、求めてもらえるなら、なんでも」
「だったらオレさまも、ネズに求められてえな」
ダメなのと聞けば、そういうわけじゃないですけどと視線を逸らして口ごもる。よほど恥ずかしいのか、それとも、よっぽどすごいことをお願いされるのか、どちらだろうかと期待をこめて待てば、しばらくしてからあのと小さな声でつぶやかれる。
「キバナの顔を、見ながら、やりたいです」
できるだけ近くで離さないで、優しくしてほしいです。
意外なお願いにキョトンとして相手を見つめ返すと、あのと真っ赤に染まりつつダメですか?と聞き返される。
「いや、いいよ」
ツンケンしてる恋人がチョロネコのように甘えてこられると、全力で応えたくなるものだろ。
お願い通り優しく触れ合いながら、正面からキスを交わして繋がっていけば、抱き締める腕に力がこめられる。引き寄せて、もっと近づいて、もっとほしいとお願いをされる。これ以上どうやって近づけってんだよと苦笑いしつつ、でも求められるのは確かに悪くない。
「あ、ああ……キバナ、もっと」
いや悪くないなんてもんじゃない、最高だ。
温かい、もっと、気持ちいいのと、ふにゃりと笑う相手にうんと一つ返事をして、奥をくすぐるように動かせば、ああそれと歓喜の悲鳴をあげる。
「いいんだ」
「うん、はぁ……いい!なあキバナ、もっと」
「ああもちろん、もっとだよな」
うんと頷く瞳には相変わらずトロンとした、熱に浮かされたハートが見える。そんなにオレのこと好き?甘い匂いにつられて何度も聞けば、そのたびに好きだとすぐさま返ってくるものだから、だからもっと欲しいと甘ったるい声でお願いされれば、いくらでも惜しみなく与えたくなる。
アンコールはないって言ってる癖に、こういうときばっかりはいくらでもお願いするんだ。
「ダメですか?」
おまえに求められるの好きなんですよ、赤くてぐずぐずに溶けた顔で言われて、そんな嫌だなんて言うと思うか。
「明日になっても絶対に離してやらねえぞ?」
「うん、それでいいから、いいから」
もっとちょうだい。
翌朝、自分の腕の中で穏やかに眠っているネズを見つめて、ふふっといやに浮かれた声があがる。まあ昨日のことを思えば、こうなっても仕方ないよな。
「ん……あ」
耳がいいネズは、こちらの吐息一つでも拾ってしまったらしく、ゆっくりと目が開いていく。
「おはよう」
「はい、おはよう、ございま……す」
パチリと驚きで見開かれた両目に、もしかして覚えてなかったりと身構えた直後、視界が真っ暗になる。
「ちょ、おいネズ!ちょっと、手離せ」
「嫌です!無理です!こっち見んな!喋るな!」
これしっかり覚えてるな。そりゃ酔ってたわけじゃないし、でもまあ覚えてくれてるんだ、昨日の可愛いおねだりも、全部。
「おまえを殺して、おれも死にます」
「やめろやめろ!」
ドスの効いた声に、本気でやりかねないと焦り、掴んでいた腕を引き剥がすと。昨日よりも更に真っ赤に染まった顔で睨みつけてくる。
「なんだよ、別に悪いことはしてないだろ」
「そうだとしても、よくないんですよ」
ああもうと叫ぶように枕に沈むので、なんだよ可愛かったぞと寝乱れた髪を整えるように梳いていくと、そういう問題じゃないですと消え入りそうな声で返される。
これはしばらくそっとしといたほうがいいか、と朝食の準備をしに立ちあがれば、どこ行くんですと地を這うような声が飛んでくる。
「んー、朝飯の用意」
シャワー浴びたかったら、好きにしていいからさと頭を撫でて出て行こうとして、また引き止められる。なんだよそっとしといてやろうと思ったのに、なにがダメなんだと見返せば、今にも泣き出しそうな目で幻滅してませんかとたずねられる。
「なんでそんな」
「あんな、情けない姿見て、女々しいと思われてやしないかと」
いや、やっぱり忘れてくださいと手を離して、自己嫌悪に陥ったのかどでかい溜息と一緒にベッドに横になるので、すぐ横に戻って、背中で乱れた髪を撫でて解いていく。
「好きな奴から好きだって迫られて、嫌いになる奴がいるかよ」
少なくともオレさまがそんな器量が狭い奴と思わないでほしい、恋人の甘えるくらい、いつでもどんと受け止めさせてほしい。
「だから気にすんなって、どんなネズでもオレさま愛してる自信ある」
「……そうですか」
「おう、楽しみにしてんぞ、新曲」
忘れろと無言を睨みつけてくるので、そんな力があればもう大丈夫だろうと頭を二度ほど優しく叩いて、部屋着を掴んで出て行く。
ネズのラブソングは、それまでと雰囲気が異なると言われながら、新たな一面として受け入れられて滅茶苦茶に売れた。
その癖にライブで演奏する気はないと、ことあるごとに断言している。
その理由は、オレさまだけが知ってればいいか。
仮タイトル「キバネズのメロメロ」でした。
特に意味はないんですけど、なんか全体的に中途半端だったなあと。
可愛いネズさんが見たかったんです、それだけです。
2019年12月31日