画竜点睛
むかしむかし、東の国にそれは名のある絵描きがいました。
あるとき、立派な四匹の龍の絵を描きあげましたが、龍にはなぜか目が描かれていません。
人々がなぜ目を描かないのかとたずねると、絵描きはこう答えました。
「目を入れると飛び立ってしまうので」
約束の時間よりも少し早く呼び出しのベルが鳴る、今日もまた遅刻なしか、この国では珍しく時間を厳守する相手の顔を思い浮かべて玄関へ向かう。
「こんにちは」
「ああ」
相変わらず笑顔を向けてくる男に背を向けて、早くあがれと中へ促すと後ろ手にドアを閉めて、ついて来る足音が響く。アトリエに使っている広いスペースは今日はドアを閉めてある、かわりに案内するのは入って右手の奥にある仕事部屋だ。
「そうだ、庭先の向日葵が咲いてましたよ」
「ああ、今朝の水やりで見た」
綺麗でしたねと告げる相手にワタシが世話をしているんだから当然だ、と胸を張って答える。家に飾らないんですかと続く言葉に、スケッチをするなら庭に出ればいい、わざわざ切花にする理由もないと返せば、よくある静物画のイメージは切花なんですけどと小声でつぶやかれる。
「それは面白くないだろう」
誰もが同じように描くもので勝負してどうすると聞き返せば、そういうものですかと少し気圧されたように返すので、自分の育てたものに無駄にハサミを入れる気分にもならないと教えれば、野にあるものはその状態がいいということですか、と今度は納得したような声で返ってくる。
「よかったら今度、花を持ってきましょうか」
「必要ない」
無駄話はいいから、早いとこ準備をしてくれと招き入れた部屋の一画を指させば、わかりましたと着ていたシャツに手をかけて脱ぐと、きっちりと畳んで荷物の隣に並べて置く。その間に整えていた機材の準備を行う、普段使っている道具とは使い勝手は少し違うが、やることは同じ描きたいものを作ること。
うつ伏せに寝る相手の横に座り、曝け出された背に浮かんだ描きかけの絵に向かい合う、線だけはすでに終わっているものの色づいた部分と比較すれば、完成までまだ遠いのが一目でわかる。
「始めるぞ」
手にしたのは専用の針、人体に使えるインクをたっぷりと吸わせてから、色を乗せるべき場所へ向けて一息に打ち入れる。ずっと押しこまれる針の感触に痛みを堪え、息が止まる相手を無視して、すぐさま抜き去るとすぐ隣へ同じ深さだけ打ち入れる、皮膚の下でインクが定着しほんの僅かに色が乗る、絵筆と比べれば途方もない時間がかかるものの、これがワタシが学んだ人に絵を刻む手法である。
両翼を広げたドラゴンの顔には生気がない、虚なままの両眼と手元の位置を比べるとまだ先は長いと息を吐く、できれば片翼くらいは今日中に完成させたいが、できるかどうかは進みと体調次第である。人体に掘りを入れる以上、肌が腫れたり血が滲むようなことがあっては中断するしかない、彼は我慢強くあるので作業中に叫んで手元が狂うなんてことは早々にないが、連続して襲いくる針の痛みが耐え難いものであるのはよく知っている。
それでも背に入れてほしいというのは、彼がどうしても塗り潰したかったというモノに由来する、すでに半分は色を乗せて隠れてしまったが、それでもこの虚な竜よりもまだ主張の激しい家を示す紋様。
この名を欲する奴なんていくらでもいるだろうに、望んで捨てに来たというあまりにも酔狂な男だ、どう足掻いても普通に顧客名簿に載せられないからと、個別でやっているワタシの元へ追いやられて来た。最初はこんなことに仕事とはいえ自分の絵を利用されるのは癪だと思ったものの、よくよく考えてみればこんな面白いキャンバスはないし、都合の悪いことに金にも困っていたので引き受けて今に至る。
色味を調整して針を持ち替えては、彫り進めていく、すでに完成した彫像のような体に色をつけていく行為は、存外に面白いものだ。花よりも彼をモデルに絵を描いたほうがいい作品になるのではないかと思う程度には、申し分のない肉体を持っている。
詰めていた息を吐き出すたびに背がゆっくりと揺れる、肩に手を乗せて更に針先を進めていく、こうすると意識が指のほうへ向くらしい、もちろん作業をしている場所と手の場所は違う、次に来る衝撃を受け止める準備にはならないはずなのだが、どうもこうして意識を逸されているだけでも、安心できるものらしい。
よくわからないなと思う、他人に触れられてそんなに嬉しいだろうか、正直なところ気持ち悪いことのほうが多々あるだろう、なにより痛みを与えてくる本人の手だ振り解きたいと思うのが普通じゃないのか。
「やっぱり、ハッサクさんは変な人だ」
「そう、ですか?」
何人か見てきた中では一番おかしいよと返せば、そんなあと情けない声をあげる、それは少しだけおかしかった。
頼んでもいないのに向日葵の花束を抱えてやって来た相手に、呆れながらも中へ招き入れてやる。花屋で聞いたら少し安くしてくれると言うものでと話す相手に、キサマそんなに暇なのかと聞けば、今日のバイトは夜からなのでと言うと花束の包みを解いて、ワタシの持って来た水桶の中で茎を一本ずつ切り落としていくので、随分と慣れているんだなと声をかける。
「ファンから貰ったりするのか?」
「まさか、教養としてある程度は教えられただけで」
素人もいいところですよと照れたように笑う相手に、そんなことを教養として教えてもらえる家は早々ないんだぞと、釘を刺すべきか迷ってから黙る、どうにも嫌味っぽい言動を取るのが自分のいけないところなのは知ってる、それくらい棘を持って接したほうが他人と距離は取りやすいが、彼の場合はそれを笑顔で飲み干せるところがあり、言葉を出したほうがなんだかバツの悪い思いをする、そういうことをここ一ヶ月ちょっとで学んだ。
施術の料金で足りない分はここの手伝いをしろとは言ったものの、だからって数日おきに顔を出されるとは思わなかった、こちらから呼び出さないと来ない奴なんてザラなのに、呼んでもないのに来るのは珍しい。
いいように使わせてもらおうと最初こそ歓迎していたものの、そんなに毎日なにかしなければいけないことがあるわけでもなし、そろそろ片づけも掃除もやってもらうネタは尽きてきた、あと残っているものといえば庭仕事なんだろうけれど、誰かに手を加えられたくない場所でもあるし。
どうしたものかと考えていると、いいかんじじゃないでしょうかと活け終わった花を前に笑顔を向けられる。
「せっかくだ、スケッチでもしようか」
「そうしてくださると持って来た甲斐がありました」
「言っておくが、キサマも描くんだぞ」
えっと驚きの声をあげて固まる相手を放置して、確かあそこにと戸棚に立てかけていたスケッチブックと、置いたままにしていた画板と画用紙と鉛筆を手に戻ると、本当にやるんですかと弱ったように声をかけてきた。
「キサマが持って来たんだろう、ワタシにだけ描かせるのは不平等だと思わないか?」
「確かに持って来ましたけれども、小生とあなたとで力量に差が」
そんなことは気にするな、思ったように描いてみればいいと道具を一式押しつけると、笑わないでくださいよと困ったようにつぶやくが、大人しく受け取って紙の中央に鉛筆で線を描き始める。
動かしかたを見ているといかにも素人ということはわかる、悩みながらもゆっくりと描き進めていくその姿を少し後ろから観察し続けていると、あのと控え目に声をかけられる。
「気のせいでなければ、小生のこと見てますか?」
「そんなわけないだろう」
「でしょうか、人の視線にはちょっと敏感なもので」
もしかして写生の邪魔してますかと聞き返されて、そういうことじゃないと首を振り返す。
「人と同じ空間で絵を描くなんて久しぶりだったから、少し面白かった」
「笑わないって言ったじゃないですか」
別におかしくて見ていたわけじゃない、懐かしい気分がして見守っていたにすぎないと返せば、そうやって観察されていては緊張してしまうと苦情が戻ってくる。
「そういうものか」
「あなたは緊張しないんですか、人前で絵を描くなんて」
「ライブペインティングもやっていたことはあるからな」
見られることはそれほど苦ではない、むしろ見られないことのほうがよほど辛いものがあるのだが、それは立場の違いであることを話していて理解した。
「完成するまでは見ないでくださいよ」
「わかった」
そこまで言われると流石に拒否もできず、相手の向かい側に移動すると花瓶に活けられた向日葵と向き合う。爛々とした光を浴びるために開いた花弁たちはそれぞれが色濃く、今が花の盛りだと主張しているように見える、だからこそ少し安く手に入れられたんだろうと思う、家に飾るための花ならばまだ咲き初めの花を渡すだろう。
それでも写生をするのには向いている、今が一番だと咲く花たちは純粋に綺麗ではある、制作が終わって息抜きのつもりで思いついたことではあったものの、それなりに有意義なものと変わったようで少し気分も上向いてくる。
無言のまま鉛筆を走らせて二時間ほどが経ったが、相手のほうはまだ完成してないんですと項垂れていたので、先にできた自分は茶でも淹れようとキッチンへ向かう。
それから更に三十分ほどかけて、なんとか見せられる程度には形になったと言う相手から描き終わった画用紙を受け取り、絵を見せてもらう。遠近法どころか基本的な塗りかたすら、学生にも劣るところが見受けられるものの、全体としては悪くないので驚いた。
「よく描けているじゃないか」
「そうですか?」
お恥ずかしい限りですと言う男に、技法としては拙いし素人もいいところだが、観察眼は素晴らしい、対象を映し取るという点においては合格だなと言うと、あなたはどんな絵を描かれたんですかと聞かれる。
「これだ」
スケッチブックの一番新しいページを開けて渡せば、やっぱり違うものですねと関心したようにタッチの違う向日葵の絵を見返す、これってどうやって描いてるんですかと聞かれるので、次のページをめくり簡単に指導しているとこちらをまじまじと見返す。
「なんだ?」
「いえ、楽しそうだなと」
誰かに絵を教える仕事もあると思うんですがと口にされるも、ワタシには向いてないとその意見を一蹴する。
「そうでしょうか?」
「ああ、教えるのは真面目な奴の仕事だろう、ひねくれた奴がすることじゃない」
誰にも見向きもされない男の評価だ、なんの役にも立たないさと返すも、自分の意見を押しつけて手直しから入る先生より、ずっと好感は持てると思いますがと言う。
「たまにいるなそういう教師」
絵の教師に限った話じゃない、美術の世界とは誰かの主観によるところが大きい、選考委員のお眼鏡に叶うか、評論家が気に入るものか、そういった他人の評価なしに成功できるものではない。
不平等な世界だ、誰かの役に立つものでもない、映画のポスターやら街中の看板でも描いてるほうがまだ役に立つが、そこにワタシの名前は残らない。
「自分のエゴを押しつける教師は嫌われるだろう、名前を刻みたい者が着いていい職業じゃない」
「タトゥーを彫るのは、違うんですか」
「客の要望で描くのは変わらないが、一度描いたら早々に消せるものでもないだろう、名前は残らなくとも、下手すれば死ぬまで消えない」
文字通りその体に刻まれる、不要になったら剥がされて終わりというわけでもない、彫った相手のことは忘れても絵は消えてなくならない。
「キサマのように消したいと思わない限り、生涯ついて回る烙印だ」
そもそも消したいと考えないように、一番いい絵を入れてやるとも。
「この仕事に求めることはそれだけだ」
そもそも名すら名乗っていないのだ、誰にも最初から覚えてもらおうなんて考えてない。どうしてそうも人と距離を置こうとするのだという質問に、孤独なほうが芸術には向いてるのだと返す。
「寂しそうだって思うなら、なんとでも言えばいい」
先回りして相手の言葉を取ってしまえば、そういうところは確かに教師には向いてないかもしれないですね、と苦笑された。
ハッサクさん視点で書き出して、コルサさん視点も書きたくなってしまったために、進捗がとても遅いです。
普通に二倍かかるので。
今後とも気が向いたときに、少しずつ進めたいなあと思います。
2023-01-29 Twitterより再掲