月夜の晩に
満月の夜は特別に明るい、だから読書にはもってこいだと彼は言った。
窓辺に腰を下ろしてページをめくる細くて白い指。光りに照らされた真剣な表情、悟られないように寝たふりをして見つめる。
美人かと聞かれれば確かにそう、まだあどけなさが抜けないけれども、成長期に開いた色気の芽はすでに大人を虜にするんだろう。
それは男女のどちらかで言えば確実に前者を引き寄せる。自分も、それにあてられている当人だ。
悪いとは思わない、むしろそれで良かった。
守りたかった。
いや俺に守られるほどに相手はか弱くは決してない、むしろ強い。
けれども、その強さが及ばない面では必要とされる人間でいたい。
満月がよく似合う横顔をほうっと見つめていると、ふいに相手の視線が本からこちらに移った。
「そんなに見つめられたら穴が空くだろ」
にやりと、片頰だけを吊り上げて楽しげにそうこぼす。驚きを隠そうにも、常は目深に被っている帽子は枕元にあり、相手へと惚けた面を晒すはめになってしまう。
「いつから気づいてたんですか?」
諦めてそうたずねると、一時間は前からだな、と本に付箋を貼りつける相手に言われて、自分が目を覚ましてからそんなに時間が経っていたのかと感じる。
彼の部屋はちゃんとある、しかし書き物机とソファの他にあるのは、大量の本棚で完全に書斎と化してしまった。だから、俺の部屋に間借りする形でベッドを設置している。
本人は簡易でいいと言ったが、それには断固拒否した。しっかり体を休めてほしいと思ったからだ。
だが寝ますよと言って引き摺って来ようとも、彼はこの部屋でまだ手にした本に夢中になっている。どこまでもペースを崩さない。
「なあペンギン、これから出かけないか?」
「今からですか?」
どこへとたずねると、ただの散歩だと返ってきた。こんな時間からどうして、なんて聞いたって相手は猫みたいな性格だ、理由なんてないんだろう。
俺が断ることなどはなから想定はしていない。間違いなくついて行くと断定して、相手はこの間新調した薄手のコートに袖を通す。仕方なく起き上がると寝間着を脱いでジーンズとシャツに着替え、愛用のキャップを目深に被り、同じ店でわざわざ相手がみつくろってくれた上着を羽織って家を出た。
思ったよりも夜風は冷たくなかった、しかし上着なしで歩くにはあまり適さない気温だ。そんな中を相手はやけに楽しそうに歩く。
「随分と上機嫌ですね」
「そう見えるか?」
実は、このコートをどうしても早く着てみたかったんだ。どうだ似合うか?と目の前でくるりと一周してみせる。月夜の光りに照らされて、ふわりと辺りに彼の甘い香りが色濃く霧散する。
「よく似合ってますよ」
「お前も、よく似合ってる」
「ドクターの見立てが良かったんですよ」
いいや、お前は元がいいからなと言って俺の被っていた帽子をそっと取り外す。
「もっと、顔を出してもいいと、俺は思うんだが」
「あまり目立ちたくないんで、それにあなたに比べれば俺なんて大したことないでしょう」
本心からの言葉だったが、それに少し顔をしかめて帽子を元の位置に戻すと、背を向けて俺の腕を掴んで進みだした。
「ドクター、どうしたんです?」
早足で行く相手は、質問に答えることなく島の奥地にある自然林を超えて、薬草を摘みにくる広場へとやって来た。
「これは」
掴んでいた手を離して、満開の白い花が敷き詰められた一帯を、踊るように軽快なステップで鼻歌交じりにゆらゆらと進む。無邪気なようなのに、艶やかで、どうして目が離せない。
満月の光に照らされて、黒いコートを着た踊り子が目の前を飛んでいく。手を掴んで閉じ込めてしまいたいような、でも触れてはいけないかのような、どうしたらいいのかわからない。ただ俺は楽しげに進む相手を、見つめるばかりだ。
どれくらいほど、そうやって彼は飛び回っていただろうか、辺り一帯に花の強い香りが立ちこめる。足元には、踏まれて跡形もなくなった草がいくつかあるものの、周辺を覆い尽くす白い花に紛れて、どれくらい潰れたのかはわからない。彼はその間を点々と、コートの裾をはためかせてステップを踏んでいたがふいに立ち止まってこちらをじっと見つめた。
「ペンギン、お前さ、俺のことが好きだろう?」
凛と、静かな空に彼の声は響いた。
なにを根拠に、と問い返すまでもない。完全に断定した口調だった。ならば、言い訳する必要もなにもないだろう。いつから気づいていたのか、問い詰めるまでもなく降参するしかないと悟る。
「ええ、その通りです」
ばれているならば、隠すこともない。震えながらも、相手から視線を外してそう答えると、気に食わなかったのか、目の前に瞬時に現れた彼の両手が俺の頬を掴んで自分へと向き合わせた。
「ちゃんと言え、それともお前の気持ちはその程度と思っていいのか?」
「いえ、だけど」
言ってしまえば、あなたに嫌われるのではないか?そんな考えが頭をかすめて、言葉が続かない。
「まさか、俺がその程度のことでお前を遠ざけると思うのか?」
「その程度のことって、重大なことでしょう!」
男からそんな感情を向けられているなんて知れたら、それこそ傍に置いておくのが嫌になるんじゃないか。気持ち悪いと、遠ざけられてしまわないか。それだけは、嫌なのだ。
金色の瞳が鋭く俺を射抜く。なんとしても答えろと、無言のままで強く圧をかけられている。
それでも口を割って話をすることはできないでいると、もういいと言って彼はつまらなさそうに俺から視線を移し、顔を覆っていた手が離された。
一歩、続きのステップを踏もうとした相手の腕を掴み、待ってくださいと叫んだ。
「あなたが好きなんですよ!俺は、あなたのことが好きです。だから、あなたに嫌われたくないし、傍にいてほしい。捨てられるのは耐えられない!」
思いが通じているわけではない、なのに捨てられるというのもおかしな話かもしれないけれども、それが本心だった。
彼にとって必要がないのならば、それは仕方ないことかもしれない。捨てられても、文句は言えない。それが来ないように、必死でただ繫ぎとめられるように、役に立てるようにいるだけだ。
「そんなに俺が大切か?」
振り返った相手は含みがある、全てを受け入れてくれそうな慈愛に満ちた笑顔で、俺と向き合う。
「ええ」
「俺の言うこと、なんでも聞いてくれるか?」
「俺にできることなら」
「お前への見返りは、どうしてほしい?」
タダでとは言わねえよ、と言って彼は掴んでいた俺の腕を外して胸の中へ収まった。
甘えるように、肩へと頭を乗せてこちらを視線を向ける。
「なにをしてほしい?俺にできることなら、叶えてやってもいいぜ?」
完全に固まってしまった俺の頭は、彼の甘い囁きにどんどん痺れて考える力を奪われていく。
「なにを、してほしいって?」
「俺の言うこと、なんでも聞いてくれるなら。その見返りには、お前の欲しいものがいいだろ?もしかして、見返りって言葉が不満か?お願いを聞いてくれたご褒美、なら文句はない?」
どうなんだ、と耳元でささやきかける相手の探りを入れる視線から逃れようと、足元へと目を向ける。
「俺の体がほしいなら、事と次第によっては、好きにさせてやってもいいんだぞ?」
なあ、どうなんだよとすがりつく彼の体重を引き受けて、骨抜きにされてしまった頭でなにをしてほしいか考えかけたところで、待てと声が聞こえた。
「あなたが、そんな風に自分に好意を向ける相手へ、分け隔てなく見返りを与えると言うなら。俺は、それが嫌です」
「ん?」
「俺だけじゃなくて、他の人間でも自分の利益になるなら、こうやって人の好きにするって言うなら、それは許せない!あなたの体も、心も、あなたが思うよりずっと高い」
そんな易々と使ってほしくないんです。誰にでも好きにしていいなんて、囁いてほしくないんです。
しなだれかかる相手の体を引き離して、地面を見つめたまま叫ぶように告げる。
体が震えているのはわかった、けれども離すこともできなければ、抱きしめることもまたできなかった。
「なら、最初からそう言えばいいだろう?俺のものになってほしい、って」
「俺の、ものに?」
「そういうことだろ?自分だけに我儘でいて、その見返りがもらえるのも自分だけ、全部が余さずほしいっていうなら、俺そのものが欲しいっていうことだろう」
違うのかと聞かれて顔をあげると、相手は笑っていた。それは心底なにか楽しむような、人の悪い顔で。
「まだまだ、勉強不足だなペンギン」
だが、自我が保っているだけまだマシか。そう言うと、コートのポケットから何か取り出して目の前へ差し出した。月の光に照らされた注射器の中には透明の薬品が既にセットされている。
「それは?」
「解毒剤。まだまだ薬学と効能についての知識は足りてないようだな」
即効性だ、すぐに効くと言いながらさっと俺の腕を掴んで消毒をすると、詳しく知らされないまま中身を注入された。
「俺もこの間みつけて驚いたんだが、この一帯に咲いている花は、その香りから園芸種として使われることもあるが、立派な薬草だ。主に麻酔薬として利用する。その一方で毒性が強く、幻覚や目眩、酩酊感から現代では一部の利用を除いて制限がつけられている。その効能から、強力な自白剤の主成分として利用することもある」
つまり、毒草だと相手はつらつらと告げる。
「根、葉、花、種子、全てに毒物を含んでいる。成分は非常に溶けやすく、花瓶に切った花をつけるだけでも毒液として利用できる。通常、花の香りに毒性がないが、茎や葉などと一緒にすり潰し大量に大気中へ放出されると、呼吸と共に体内へと入り、幻覚や酩酊感を引き出すことが可能だ。古代はこれを使って、いわゆる降霊術を行ったとされている。一種のトランス状態を引き起こすわけだ」
ただ麻薬で神経がやられているとは、まだ証明されてない時代の話だかと続ける。
つまり、鼻歌交じりに草原でステップを踏んでいたのは、ただ機嫌がいいというのではなく、この草に含まれる毒素を空中へ飛ばすため、その足で轢き潰していたということか。
「どうして、ドクターにはこれが効かないんです?」
「さっき打ってやっただろうが、既にこの毒素に対する薬はある。それと、俺は特別に訓練を積んでるからな、ある程度までだが毒素を吸いこまずに呼吸する方法がある」
完全じゃないが、この草の汁を吸いこまない呼吸は可能なんだと得意げに話す相手に、狡いですよとため息まじりに返す。
「つまりは、俺を使って遊んでたわけでしょう?」
「人聞きが悪いぞペンギン。確かに俺はお前を毒草の中に放り込んだ、だがそれに当てられてべらべら喋ったのはお前の方だ。きっかけを与えたにすぎない」
それに遊びでもないさ、と言って相手は俺の手を取った。
「俺は一人でも平気だと思ってた、無駄に知り合いがいると後で後悔することもある。俺を愛してくれた人は、どういうわけかみんな、死んでいくんだ」
それでも、お前は傍にいると言うのか?
そう問いかける相手の、普段は見せない弱々しさに、花の香りに当てられてまた目眩を起こしているような気分になる。
「あなたが、俺の手を離そうと、今度は俺があなたの腕を掴みますから。どうか、傍に置いてください」
あなたが好きなんです。
もう一度、息を整えてからそう言うと、彼は悲しさと嬉しさが混じったような、複雑な表情をしてから、そうかと静かに返した。
「じゃあなペンギン、俺の我儘一つ聞いてくれ」
俺の知らないところで、理由もなく勝手に死ぬのは絶対に許さない。
そう言うと彼は空を仰ぎ見た、どこか遠くに彼が思う相手がそこにいるようで、非常に腹立たしかった。
俺を見て、俺のことを考えて、俺を思って、一番最初に、誰よりも深く。
それは自分が持つ野心のような夢の片鱗だろう、でもそれだけで彼の心には届かないのだろうことはなんとなく予想できた。
彼には愛している人がいる。おそらく、彼が言う愛してくれた人の中に、もう死んでしまったのであろう相手の中に。その人の腕から、彼を連れ出したくてどうにかしたいと思っているのに、その反面、叶わないだろうとも思う。
だから嫌われないこと、傍にいさせてもらうこと、彼を喜ばせること。そして、彼を密かにでも愛して支えていきたいと、そう思っていたのだ。
全て、バレていたようだけれども。
「ペンギン、今夜はいい月だな」
空を見上げて彼はそう言った、青白い光に照らされて、白い花畑に浮かぶ彼の姿は一層幻想的でらまた、くらりと目眩が起こりそうになる。
「ドクター、さっきの解毒剤、まだ効いてないみたいです」
一応ははっきりわかっている症状を告げると、彼は苦笑いして、診察ミスだなと言った。
「古代よりずっと、様々な医療技術、心理技術が研究されてきたが、それは俺たち医者では治せないという結論が出ている。俺にも専門外だ」
悪いなペンギンと言って俺の頭を数度、ゆっくりと撫でてから帰るかと、踵を返して言った。
「恋の病とか、言わないですよね?」
「その答えは、さっきお前が口にした通りだろう?安心しろ、俺はお前をそんなことで手放したりしない。その思いが叶うかどうかは、後で考えろ」
今度こそ帰るぞと彼は診療所へ向けて歩き出した、その後を追って後ろから腕を掴む。
「俺には、チャンスがあるんですか?」
「それを生かすも殺すも、お前次第だ」
少なくとも、俺はお前が嫌いじゃないし。なんでも言うことを聞いてくれるなら、ご褒美はあげてもいいと思ってる、本当だぞと釘を刺して彼は告げた。
「あと、俺の体が高いことは俺自身も知ってる。だから、それに見合った仕事をするのは、かなり骨を折ってもらうぜ?」
その覚悟があるなら、ご褒美はあげてもいいさとどこまでが冗談でそうでないのか、わからないまま、彼は笑って言った。
結局は、全て煙に巻かれて終わりか。
「あなたの期待にそえられる仕事がてまきるよう、最善は尽くしますよ」
「そうしてくれ。好きなら、なんでもできるよな?」
「いつか、あなたからも言わせてみせますよ」
俺のことが好きだって。俺が一番だって、きっと。
こんな花にあてられることなく、平然とドラマティックに縋るように言ってもらう日が来ることを、ただ願うばかりだ。
だから、なにがあってもできるだけ傍に置いてください。
あなたを愛しているから。
おめでとうペンギン!彼がもっと船長と絡んでくれたら楽しいです、私が!
2016年4月25日 pixivより再掲