怖い、怖い…怖い……

お願いだから、俺の側から消えないでくれ……

俺を愛してる弟へ……

ガチャリという音を立てて、古くなったアパートのドアが開けられる。

ここまで帰って来るまで、彼は俺の手を片時も離さなかった。
それは、今度離したらまた何かあるか心配してなのか、それとも家へ帰ろうと急く気持ちがそうさせたのか、それは分からない。
だけど、腕の力に俺が酷く安心したのは言うまでもない事実。


「兄貴、気持ち悪いでしょ?体……」
「えっ……あ…」
優しく俺を気遣うようにそう話す相手に、しかし俺はまともな返事もできずに黙る。
「シャワー浴びてきなよ、着替えは用意しとくからさ」
俺の返答も待たずに、彼は俺を風呂場まで引っ張っていく。

「あの、シャドウ…俺」
「忘れちゃいなよ兄貴、あんな事なんて」
風呂場まで連れて来た所で、彼はようやく初めて俺の手を離した。
真っ直ぐ俺を見つめる彼の視線に耐えきれず、逃れるように下を向く。
「全部全部、忘れなよ兄貴。あんな事も、あんな奴等の事も全部さ。でなきゃ何時までも兄貴が辛い思いするだけだよ…別に、気にする事ないんだ…気持ち悪かっただろうけどさ、掘られたわけでもないんだし」
「!!」
最後の、あまりにも直球過ぎる台詞に俺は言葉が出てこない。

真っ赤になって下を向く俺を見て、彼は悪く思ったのか「ゴメン、デリカシーなくて」と謝った。
「でも、俺あんまり言葉知らないからさ……本当、こういう時に自分が頭悪いのが嫌になるよ」
「いいよ……大丈夫、気にしてない、から…」
「そう……まあ、とにかくシャワー浴びてゆっくり温まってさ、落ち着いて」
「…うん」


彼の気遣いに感謝して、俺はシャワーを浴びる。


体に当たって落ちて行く湯の感覚。
「はぁ……」

自分の体を見つめてみる。
しかっりした、男の体だ。
どんな風に覆した所で、自分は女性でない事は目に見えているし、これといって見た目が華奢な方ではない、どちらかというと体格はそこそこに良い方だ。
水分を含んで背に張り付いている髪は、確かに長く、クラスの女子からは綺麗だと言われる事も多いが、強いて言えば、そこくらいしか自分の中で女性に近い部分はないとも言える、少なくとも見た目に関しては。
そのハズなんだ。

なのに……。


フルリと体が震える、別に寒いわけでもないのに。
体を一気に駆け抜けた、悪寒。

これは、恐怖か?
何に対しての?
そんな事、聞く方が間違ってる。
一つしかないだろう?


俺が今見つめているこの体を、複数の男の手によって犯されようとしていたのは、ほんの一時間以内の話だ。
実際に、俺が暴行を受けていた時間というのは、そんなに長くもなかったのではないか?

それなのに…。

ありありと、それはもう刻銘に体に刻まれているアイツ等の腕の感覚。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。
吐き気がする。
全て、全て洗い流してやりたいというのに、体に当たって落ちて行く水だけでは、この感覚は一向に消え去ってはくれない。


さっきまで、忘れられていたのに。
一人になった瞬間に、恐怖っていうのはいつだってやってくるんだ。
あの時と同じ。

側に、誰か居てくれないと駄目なんだ。
一人は駄目だ、怖くて怖くて耐えられない。


アイツが、側に居てくれないと…俺は……。


「俺って、こんなに女々しい奴だったっけ?」
自分で自分に尋ね返しても、決して答えなんて出てこない。

あの時……。
拒絶できない恐怖に、必死で抗う俺が思考の端で思った。

せめて、目の前の相手がこんな見知らぬ男ではなく、アイツなら…と。
どうして俺はそこで、自分の弟の姿を想い描いたんだろう?
男同士であり、しかも同じ血を分けたハズの兄弟なのに……。
同じ理由で、俺は一度アイツの事を必死で拒絶したのに。

「俺って、男だよな?」
その質問の答えは、勿論Yesだ。
それ以上に明確な答えなんて、あるわけがない。

女性になりたいなんて、今までに微塵も考えた事はないし…別に、自分の性別に対して何かコンプレックスを抱いた事はなかった。
男でありながら、同性を求めてしまったというのは…その意味じゃ、かなり異常な事ではある。


だけど……そのままでいくと、一つまったく不明瞭な問題が出てくる。


「アイツも、男なんだよな」
その答えも、勿論Yesだ。
アイツが俺と同じ遺伝子を持つ、唯一の存在である限り、その性別も同じであるハズなのだ。


でも、アイツは俺を求めた。


今でもハッキリと覚えている、アイツがあんなに切羽詰まった表情で俺を見た事は初めてだったから。
噛みつかれるようにして奪われた唇の感触も、掴まれた腕に込められた力の大きさも、そんな俺を無理に押さえつける腕とは違い、俺の体を撫でていく手は異常に柔らかく、それだからこそ、俺は恐怖した。
アイツの目が酷く真面目だった事も、俺があの時に彼を恐れた理由かもしれない。

あんな、獲物を見る捕食者の表情、忘れられるわけがない。


だけど、どうしてか…どんなに思い返してみても、あの時のような恐怖は今、アイツに対しては抱けない。
むしろ何故、自分があの時あんなに恐れていたのか、不思議で仕方ないくらいだ。

それは多分、アイツが出て行った時に、一人取り残された恐怖が、俺にとっては、弟に押し倒される恐怖よりも勝っていたからだろう。
だから帰って来てくれた時、とても安心したし、彼を迎え入れられる事ができた。


異常すぎる。


どんなに思い返してみても、あの時は俺よりも、アイツの方が一本筋の通った考え方をしていたと思う。
俺の方は支離滅裂で、どうしたらいいのか分からなくて。
ただ一つ言えたのは、アイツが自分の前から居なくなる事、それだけはどうしても嫌で嫌で仕方なかった、という事。

この感情は、一体何なんだ?
「分からない…」
何もかも、分からない事だらけだ。

アイツは、どうして俺の事が好きなんだ?
俺は、アイツに対して何を恐れているんだ?
俺はアイツを、一体どう思ってるんだ?


俺には、アイツしか居ない…。


確かにあの時、あの男達の前で俺はそう思った。
いつだってそう、助けてくれるのはアイツだから。

「はぁ……」
情けない、と自分でも思う。

男に犯されそうになり、自分の弟に助けられた。
自分で対決するよりも先に、人に助けを求めた。
別に女性なわけでもないのに(こんな事言ったら、男女差別だって訴えられそうだけど…)こんな風に、人から“弱い者”として扱われる自分。
その扱いに甘んじている、弱い自分。
与えられた恐怖は、確かに屈辱的なものであるし、耐えがたいものでもあったけれど…しかし、なんだか腑甲斐無い。


こうやって、いまだに恐怖に震える自分が……。

一人では、どうしても生きていく事のできない自分が…。

今もそう……。

一人きりの空間と、与えられた恐怖に、押し潰されそうになってる。


「兄貴、着替えここに置いておくよ」
脱衣所からそんな声がかかる。

「あっ……」
ガラという音を立てて、風呂場のガラス戸を開ける。
「わっ!!ちょっ!兄貴!!なんて格好…」
急に戸が開いた事に対し、当たり前だが酷く驚いたようで、頬を赤く染めて俺を見つめる弟に、俺は手を伸ばして無言で抱きつく。

「あっ…兄、貴?」
狼狽したように俺を呼ぶ、彼の声に、俺は何も答えられない。
背後では、出しっぱなしになったシャワーの水が床に打ちつける音が響く。


「兄貴、湯冷めするから、体拭いて、服着ようか?」
水に濡れた俺の体を心配して、彼は優しい声でそう言って、俺を引き剥がそうと肩に手をかける。
そんな彼の意思とは反対に、俺は彼の服を掴む腕に力を込める。
はぁ、と俺の耳元で小さな溜息を吐く声。
「ねえ兄貴、風邪引かない内に服着ようよ…っていうか、出るならシャワー止めないと、水もったいないだろ?」
地球の敵になるんじゃないよ、と彼はそう言うが、俺は今はそんな事どうでも良かった。


「兄貴この状況分かってる?アンタが今、裸で抱きついてる相手はさ……アンタを性的な対象として見ている男なんだぞ?」
声のトーンが落とされる。

「…………うん」
そんな事は知ってる。
そこまで、頭が回らないわけではない。
だけど……どんなにそう主張しても、今は多分信じてもらえない。
だって…俺自身、今は理屈で動いていない。

「兄貴お願いだ、俺の理性が保っている間に…早く俺から離れて、落ち着いて……」
自分の行動が相手を困らせているとようやく思い至った俺は、抱きしめていた腕を解いて、そっと相手から離れる。
そんな俺に、バスタオルを差し出し体を包むと、彼は赤く染まった頬を隠すように後ろを向いた。
「ゴメン……俺、何したいんだろう?」
水が出しっぱなしになっていたシャワーを止めると、その瞬間に、空間に満ちていた音が止まって、不思議な位に静かになる。
それと同時に、高まっていた熱が一旦落ち着いた。

「兄貴、大丈夫なのか?」
相変わらず後ろを向いたままの相手が、そう質問する。
「分からない、多分……大丈夫じゃないな」
とりあえず、自分が今まともな状態ではない事だけは確かだ。
そんな俺の返事を聞いて、彼の背中から溜息が聞こえて来た。

「まったく、心臓止まるかと思った……なあ兄貴、一体どうしたんだ?」
俺の方を見ずに、彼はそう質問する。
俺はその質問に何て返答しようか、しばらく考えた末に、素直に「怖かった」と、そう告げた。
「怖いか……俺が居たら、それは平気なの?」
「ああ…むしろ、お前が居なかったら駄目、かな?」
「フーン、でも兄貴、ちょっと大袈裟過ぎるよ。俺さ、一瞬このまま兄貴の事押し倒して頂こうかって、マジで考えたんだからさ」
俺の理性試すのは止めてくれ、と彼は困ったようにそう言う。
「ごめん……でも、怖いんだ」
「知ってるよ、兄貴が何かをとっても恐れてる事くらいさ…でも、ほんの一日前までは俺に触られるの怖がってたみたいだからさ、この落差は激しすぎるよ」
その指摘に対し、俺は何も言葉が返せない。
確かに、コイツに触れられるのを恐れていた。
必要な時だけ求めるなんて、自分勝手過ぎる、そう思われても仕方ない。

「まあ、俺は兄貴が俺の側に居てくれるなら、そえでもう全然OKなんだけどね」
しかし、彼はこんな俺の事も受け入れてくれる。
どうして?
これも、俺の事が好きだから…って、全部その理由で片付けられるのかな?

分からないな……分からない。
駄目だ、自分の中で考えていても答えなんて出てこない。
聞いてみるしか、ないのかもしれない。

俺の気持ちを知ってるのは俺だけだけど、ただ一人、理解してくれる人間というのなら、きっとそれは目の前に居る、彼だろう。
彼にこの疑問をぶつけてみれば、或いは、俺には分からない答えを導き出してくれるかもしれない。


「なぁ、シャドウ……」
着替え終った俺は、目の前の弟に向けて声をかける。
「何、兄貴?」
「ちょっと、お前に話したい事があるんだ」


to be continude …

あとがき

アナザー×ノーマルフリオ、現代パロ。
お兄ちゃんの傷を癒すアナザーを書く、予定だったハズなのに…まあ、前回の後書きの最後はあえてでも予定ではなく作者の希望です、叶えられなくてもいいんです(自己完結)。
いい加減にくっつけてしまいたいこの二人、でもそろそろこの話も終わります。ええ、終わらせます、これ以上行き詰った状況になる前に……。
2009/11/21

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