ああ、優しい…優しい彼の声
陽の光の様に暖かくて、俺は溺れてしまいそうだ
慣れてはいけない
そこから離れた後、冷たい世界に帰れなくなってしまう
琥珀
「怒らないんですね…貴方は」
ベランダに出してある鉢植えに水をやる俺、その背中へと近付いてきた足音の主へ向けて、そう言った。
「君は私に対して、何か怒られる様な事をしたかな?」
そう尋ねる彼が、ベランダのガラス戸に手をおいて俺を見つめる。
穏やかな表情である。出合った時に見せた、感情に動かされない様なひきしまった刑事の顔とは、また別の表情。
人間らしい表情だ。
「何もしていないのに、怒る様な理由はないな」
そう答える彼の、優しく見つめる瞳から目を逸らし。俺はベランダのコンクリートの床を見つめる。
植木鉢の底から染みだした水が、灰色のコンクリートの上を流れていく。
「隠し事してるのに、ですか?」
冷たい色をしている。
コンクリートも、俺も、同じ色だ。
「隠し事をされるのには。職業柄か慣れているよ」
「その隠し事を聞き出すのも、慣れているんじゃないんですか?」
貴方はそれが仕事なんだろう?
悪人の罪を暴くのが、刑事の仕事ならば。俺の様な拙い嘘など、暴くのは簡単じゃないのか?
それこそ、冷たく当たればいいのに。
強く、辛く、当たればいいのに。
それで口を割るのか、と言われれば答えは否だろうけれど。
「私が君に感謝する事はあっても、怒る様な事はないさ。人は皆、隠し事をするものだ」
彼の手が俺の頭へと落ちて来た。
優しく触れてくれる彼。
彼は俺の味方だ……多分。
信頼しても、大丈夫?
いや、怖い。
その手が離れてしまうのが、怖い。
「君は、何か後ろめたい事があるのか?」
その質問に、俺の心臓が跳ねる。
ひゅっ、という息を飲む音。
嘘が吐けないとは良く言われるけれど。こんなにもあからさまに態度に現れてしまう、自分の体が酷く正直で恨めしい。
「後ろめたい事が、あるのか?」
「…………」
無言になって返す時間は、酷く長く感じられる。
頭から離れていった彼の手。
離れたくないのに…そう思った時はいつも遅いんだ。
俺は、手を伸ばす勇気を持てない。
「さっきも言ったが、君を責め立てる事はしないし、謝って欲しくもない。そんな理由が私にはない。
いいから、その手を離しなさい」
そう言う彼の声と一緒に、俺の左腕に彼の優しい手が触れる。
爪が喰い入りそうなくらい俺の右腕を握っていた左手を、彼の右手が解いた。
気付けば、俺の隣りに居る彼。
「痛いだろう、そんな力で握ったら」
彼の右手は、まだ俺の左手を取ったままだ。
柔らかく繋がれる手。
なんて、心地いい。
ぎゅっと握り返してみる、ふっと零れる彼の声。
あっ……笑った、そう感じて隣りを伺い見る。
俺を見つめる彼の笑顔は、やっぱり穏やかだ。
彼が俺に見せている表情が、果たして本物なのか偽物なのか。
本物だったら、いいのに……。
貴方にもっと近付きたい。
許してもらえるのならば、側に居て欲しい。
差し伸べてくれる、温もり。
信用するな…と、誰かが告げているが、俺は彼を…彼の事を信じたい。
安心するんだ、人の温度は。
彼の温度は。
「ウォーリアさん……あの、今日…隣りで寝ていいですか?」
就寝前、彼のベッドを使っていた俺は彼に向けてそう進言する。
幼子の様な自分の言葉に気恥ずかしさを覚え、赤くなって視線を逸らす俺。
彼は一瞬、驚いた様な顔を見せたが。すぐに落ち着きを取り戻したのか、俺の側へと近寄って来る。
「どうしたんだ?今日は」
俺の両肩に乗せられる彼の手、暖かい。
「あっ……いや。別に何も」
そうは言うが、突然の申し出を怪しく感じるのは当たり前の事だ。
「君は、一人にした方が良く眠れるのかと…そう思っていたんだが」
「寝てますよ、ちゃんと」
「嘘だろう?今朝も、隈があったぞ」
指摘されて、言い訳もできない。
確かに、眠りに落ちるのが怖い。
暗い場所は俺を隠してくれるけど、そこに落ちて行くのが怖いのだ。
闇の底では、嫌な事を思い出し易いからかもしれない。
色んな景色がグルグルと、自分の中で巡って来て。
だから、夜に眠りに着くのが怖い。
「私と一緒でいいのか?」
「この家には、貴方と俺しか居ません」
「それもそうだ」
彼はベッド代わりに使用しているソファから離れ、俺と一緒に寝室へとやって来る。
すると、部屋のクローゼットを開けて、奥から布団の塊を取り出した。
「流石に、そのベッドで添い寝する訳にはいかないだろう?」
笑ってそう言う彼に、俺も頷く……いや。
「添い寝して欲しいなんて、俺言ってないです!」
「そうなのか?」
何でそんな疑問を持たれなければいけないんだ、いや…それは自分の発言に問題があるのだろうか?
隣りで寝ていいですか?
……確かに、捉え方によってはそう聞こえなくもない…いや、かなり高い確率でそう聞こえるだろう。
むしろ、ニュアンスとしては相手に“して欲しい”ではなく、自分から“したい”様に聞こえる。
過ぎ去った事ではあるが、今更になって俺は酷く恥ずかしくなってきた。
「分かってるよ、君にそんなつもりがないって事くらい。ただ、少しからかってみただけだ」
狭い部屋に一組の布団を敷き終わった彼は、俺の頭を撫でてそう言う。
「貴方は冗談が過ぎます、俺をからかってそんなに楽しいですか!?」
つい声を荒げてそう言えば、彼は苦笑して「すまない」と謝る。
「君をからかうのは、確かに楽しいよ」
「なっ……」
「こんな可愛い反応をしてくれるんだ、つい、からかってみたくもなる」
余裕の笑顔を見せる相手を、俺は羞恥や怒りで真っ赤になって睨み返す。
「君はきっと、人に好かれる人間だ」
そんな事はない、と彼の言葉を心の中だけで否定する。
俺を好いてくれている人、それが思い浮かばない。
真っ先に出てくるのは、両親の顔だ。
もう居ない二人、そこから先は……何も。
そこに、ふっと彼の顔が浮かぶ。
好いて…くれてる?
「今日はもう、そろそろ寝ようか。君も明日は早いんだろう?」
「あっ…………はい」
俺には相変わらずベッドを勧め、自分は敷いた布団に横になる。
「おやすみ、フリオニール」
「はい、おやすみなさい」
言い訳しても拒否される事が目に見えているので、電気を消してベッドへと入る。
瞬時に訪れる暗闇。
「ぁ……」
一人、そこに包まれる恐怖を感じて体が震える。
そんな俺の僅かな声を聞き取ったのか、ぎゅっと握られた俺の手へと、別の手が重ねられる。
「どうした?フリオニール」
「ウォーリアさん」
何かあったら言うんだと、彼はそう言う。
今日、ベランダでそうしてくれた時と同じ、俺の手を握る優しい手。
徐所に目が慣れてくれば、その先にある彼の顔もなんとなく分かって来る。
側に、居てくれている。
「今日は……寂しくないです」
「そうか」
暗闇の向こうの顔が、少し綻ぶのを感じた。
その夜、俺は久しぶりに自分がぐっすりと眠りに落ちたのを感じた。
「君にコレを」
翌朝、彼よりも先に出発する俺が玄関に立った時に、見送りに来てくれた彼。
差し出されているのは、銀色の鍵。
安っぽい作りであるが、それはとても大切な物。
「この家の鍵だ。君は明日、私よりも先に帰って来るだろう?それを持っていれば、ちゃんと出かけられる様になるし」
「でも…こんな大事な物、俺に」
「その会話はもう止めよう、何度も同じ事を言うしかないんだから」
苦笑する彼。
最初にここに来た時も、ポケットの中の携帯も、俺は同じ内容の事を言い合っている。
貴方に、迷惑をかけたくない。
俺をそんなに、信用していいのか。
そのどちらにも、彼はそれでいいと答えている。
今回も同じなのか。
「君はここに帰って来るんだ、そうだろ?」
「あっ…………はい、そうですね」
そう頷いて、俺は思う。
そうだ、帰って来るのだ…俺は。
この家に、目の前の人の温もりを感じる、この家に…。
「そう、ですよね……俺。俺は…帰って来て、いいんですよね」
「当たり前だ」
受け取った鍵を握る俺の手に、彼の手が重ねられる。
その温もりに、ドクンと、心臓が高鳴った。
「いってらっしゃい、フリオニール」
見送ってくれる人の声と、笑顔。
温もりからは離れ難いと思ったけれど、帰って来れる…そう思うと、なんだか力が沸いた。
「はい、行ってきます」
こんな事を笑顔で言えたのは、久しぶりかもしれない。
俺が…人として生き返ってきている。
そう感じた。
to be continued …
警察官WOL×家出少年フリオ、続編。
無駄に手の描写が多いのは、作者がかなりの手フェチだからのようです。ええ、人の手が好きです。
こう、触れて安心するのはやっぱり手だと思います。
それを無意識に感じているのか、WOLはフリオと手を繋ぎたがるし、フリオも結構それを受け入れてるんでしょうね。
ただ、男性で無駄に手を繋ぎたがる人…って、本当に本気でソッチの気がある人のようですね。
WOLはフリオだけですよ!特別ですよ!!
2010/8/14