君は…その負った傷の分だけ、一体何を得ようとしているんだ?
琥珀
食事の後、今朝の新聞を読むが、疲労と睡魔についつい負けそうになる。
寝に帰って来た様なものなのだ、体に悪い事は分かっているものの、このまま眠ってしまおうと決意し、自分の部屋のベッドに向かうのも面倒になので、リビングのソファで、そのまま横になる。
「そんな所で寝ると、風邪ひきますよ」
私の様子を見かねた青年がそう言うものの、もう、何度も同じ事をしているから…と、言って私は目を閉じる。
閉じるしかない、と言った方が正確だろうか?
それくらい、私の体は今、睡眠を欲している。
疲れて横になる私に、彼の視線がしばらく向いていたものの…やがて、少し音を抑えた動きで彼は歩く。
小さな足音と、僅かな物音がどこかから聞こえる。
彼が、家の仕事をしてくれている、音だ。
人が身近にいる、そう感じられる安心感。
ただ、仕事の合間に寝に帰る家。
そんな冷たい空間に、急に広がった温もり。
それがなんだか、心地良い。
暖かな心地良さを感じつつ、私はまどろみに身を任せ、睡魔の中へ体を沈めた。
ふと目を開けると、リビングに置いてあった時計は、既に10時を過ぎた位置を指していた。
確か…私はフリオニールに起こしてくれるように頼んだハズなのだが、そう思っていると…リビングの隅で丸くなっている青年の姿を見つけた。
暖かな日差しの中、家事に疲れたのか眠っている青年。
普段の大人びた表情から一転、寝顔はどこか幼い。
そっと音を立てない様に彼に近づき、陽の光に輝く綺麗な髪を少し撫でる。
こんな所で無防備に寝てくれるなんて、少しでも私に心を許してくれたんだろうか?
褐色の肌は健康的だが…今日、帰った時に彼を見て思った。
ちゃんと眠れていないんだろう、と。
目の下に、少しだけだが薄らとくまがあった。
健やかな寝息を立てる彼は、心を許したというよりも、ただ単純に疲れからきたのだろうか?
まあ、どちらでもいいか。
平和な寝顔、それで満足だ。
そんな彼の無防備に投げ出されている手の、その綺麗な指を撫でる。
水仕事で少し荒れているが、見た目よりもずっと柔らかい掌。
彼自身はまだ目覚める気配がない、それを見て、彼の綺麗な手から腕へと下げる。
長袖の衣服に隠されている、彼の腕。
そこに何があるのか…想像はしていたけれど、想像以上に痛々しい。
無数に刻まれた、傷跡。
真っ直ぐなモノ、歪んだモノ、新しいモノから振るいモノまで、様々。
多分……彼自身が付けたのだろう。
真新しい噛み傷を見て、そう思った。
虐待というのは、殴る・蹴る・モノで殴る…というのが、最も多い。
確かに自分で自分を傷つける様に脅す事もあるだろうが…この傷跡は、多分そんなに日が経っていない。
一日・二日の内についたんだろう、まだ…血の痕が新しい。
「君は…随分と苦しんできたんだな……」
そっと、彼の衣服を元に戻し、彼の頭を撫でる。
私の手の感覚がくすぐったかったのか、彼は身動ぎすると、ゆっくりと目を開けた。
「…………ぁ…」
「おはよう」
「おはよ…ございます……」
のそのそとした緩慢な動きで彼は起き上がると、彼は時計を見て、ハッとした様に私を見つめる。
「すいません!起こすって、約束してたのに……」
「構わない、別に何か約束があったわけでもないし」
私が怒っていないと分かったのか、彼は安堵の溜息を吐く。
「夜、眠れないのかな?」
「え……いえ、そういう訳では……」
「本当に?」
「…………はい」
私から視線を外してそう頷く彼に、嘘だな、と思った。
「嘘だろう?」
そう言えば、彼は私から視線を外したまま沈黙する。
「まだ眠いなら、昼前にまた起こしてあげるから、横になりなさい」
そんな私の言葉に、彼は首を横に振る。
「大丈夫です…ちょっと、うたた寝してしまっただけですから」
「そうだな、天気も良い事だし、昼寝には丁度良いかもな」
ベランダの向こうに広がる、綺麗な青空を見てそう言う私の隣りで、彼は静かにただ私を見つめる。
しばらく、その静かな状態が続く室内。
彼は、どこか居心地が悪そうにしている。
「さて、君はコーヒーは飲めるかな?」
「はい」
「なら付き合ってくれ」
立ち上がってキッチンへと向かう私を見て、彼は自分がやると申し出てくれたが、私はそれを断る。
「何でも、君にしてもらう訳にはいかない」
それが、私の言い分だった。
手持無沙汰になった彼が困ったようにしているので、テーブルに着く様に促すと、頷いてそっとテーブルの隅に落ち着いた。
「君は、ブラックは飲めないのかな?」
完成したコーヒーをマグカップに注ぎながらそう尋ねると、「何で分かったんですか?」と彼は不思議そうに尋ねた。
「勘だ」
「勘、ですか……?」
「そうだ、刑事の勘だ」
そう言って笑いかけると、彼もちょっと笑みを返してくれた。
やはり、可愛らしいと思う。
そうやって微笑んでいる姿が、本当に良く似合う。
「昨晩は、寂しく無かったのかい?」
砂糖とミルクを入れたコーヒーを彼に差し出し、そう尋ねると、彼は無言で首を振った。
「そうか…嘘でも、寂しかったと言ってくれると、嬉しかったんだが」
「え?」
驚いた様に私を見る彼に、私は続ける。
「そういうものじゃないのか?相手が居なくて寂しいと、嫌いな相手でないのならば感じて欲しいものだぞ」
「嫌い、ではないですか?」
不安そうに、そう尋ねる彼に私は頷く。
「まず、こんなに尽くしてくれる君を嫌う理由が、私には無いな」
「でも……俺、凄く迷惑かけて…」
「いや、私の代わりに家事を全てしてくれて、迷惑どころか逆に助かっている」
「俺には、これくらいしかできませんから」
「それが、私には嬉しいんだ」
強くそう言うと、彼は照れた様に頬を染めて、一口、熱いコーヒーに口を付けた。
「どうかな?」
「美味しいです」
その答えを御世辞でも嬉しく感じ、私も自分のコーヒーに口を付ける。
彼はそっと私を見つめ、やがてそっと口を開いた。
「昨日、なんで電話してきたんですか?」
多分、彼が抱いていた疑問なのだろう。
何故に私は彼に意味もなく電話なんてかけたのか。
「昨日も言ったが、君が心配になったからだ」
「どうして?」
そう問いかける彼に、私は溜息を吐く。
どうして?
意味もなく、他人を心配してはいけないだろうか?
心配というものには、それなりの理由が存在するものなのだろうか?
「昨日、突然だが心が騒いだんだ」
「どんな風に?」
「君が、突然に居なくなってしまうんじゃないのかって…そう」
その言葉に、彼の肩がビクリと揺れた。
何か…心に思い当たる節でもあったのだろうか?
「もし…俺が居なくなったら、どう思います?」
彼の口から向けられる、重い質問。
もし…私の前から、今彼が消えてしまったのなら?
「勿論、寂しいと思うな」
本心からの答えに、彼はそれでも疑いを持った眼差しを向ける。
「会って間も無い、よく知らない人間の事なのに?」
「勿論」
唐突に消えてしまったら、私は彼を心配する事だろう。
その理由は簡単だ、一つしかない。
「私は君を信じると言ったんだ。信じた相手が居なくなったら、それは寂しいだろう?」
何も言わず、何も残さずに。
私が嫌いになったのなら、そう一言、言い残してさえくれれば私は納得するだろう。
だけど、唐突に消えてしまうのは寂しい。
「裏切った…って、怒りませんか?」
何度も人に裏切られた、そう語った青年は私にそう尋ねる。
もし、自分が私を裏切ったらどうなるのか?
その答えを、私は慎重に紡ぎ出す。
「それはその時になってみないと分からないが、しかし…そうだな、怒るよりも悲しいかもしれない」
「悲しい?」
「私は、最後まで君の側にはいなかったのか…と思うと、な」
そう言うと、青年の目が見開かれた。
そんな彼のテーブルの上に置かれた手に、私の手を重ねて、そっと笑いかける。
「私は一人が怖かった。寂しいという感情も、人よりも多く感じて来た…そう思っている。
だから、君が何を恐れているのかも…大体分かる」
私の手の下で、彼の指が大人しく暖かな体温を返してくれている。
それに、酷い安堵感を感じる。
「寂しいなんて、簡単に口にはできないだろう?」
「……」
真っ直ぐ向けた私の視線から、逃れる様に彼は俯く。
認めたくは無い。
その感情を…認めたくない。
自分が、酷く弱い人間に思えるから、だから。
一人でも平気だ、なんて強がりを言って、結局は自分の内側に冷たいモノを蓄積していって。
それが、自分を苦しめている。
ただ一言、言えれば良い。
それを言う相手が、ちゃんと居れば……。
「私に、言うといい」
「えっ…」
「孤独なんて、一人ではどうしたって解決できない、だから…私に言いなさい」
嘘も強がりも、君を覆うモノは外してくれていい。
寂しいんだと、悲しいんだと、辛いんだと…私に向けて。
「今はそれを聞いてあげる事くらいしか、私にできる事はない。
勿論、君が私を信じてくれるかが問題なのだが…疑わしいのならば、それを口にしてくれ」
嫌ならば、そうハッキリと口にしてくれ。
そうすれば、私は君へ干渉する事を諦めよう。
ただ、君を受け入れよう。
君を信じて。
「私は君を信じているから、だから…そんなに泣かないでくれ」
彼の手に重ねていた腕を外し、頬から目尻へと向けて伸ばす。
暖かい彼の頬を伝う涙を拭えば、しゃくり上げる彼は、必死に涙を止めようとする。
そんな彼に微笑みかけ、隣へと移動する。
「私の前では、我慢しなくていいから…」
私の言葉に僅かに頷く彼を見て、その頭をそっと撫でる。
「ありがとうございます」
「いや……私は何もしていない」
そう話せば、彼はゆるゆると首を振った。
「貴方は、とても優しい……」
そう呟いた彼に、私は「ありがとう」と小さく返した。
to be continude …
警察官と家出少年続編。
WOLもフリオが居る事で、何か癒されてればいいなぁ…という、そういう話。
あとは、お互いがお互いを必要として離れられなくなるくらい好きになればいい!…というのが、作者のこれからの願望。
警察官WOLは、人の感情に結構敏感なのですね…まあ、そういうのに接しないといけない場所に居るわけなので、仕事上身に付けたんでしょう。
その若さで、その察しの良さは無理だろう…とか、そういう言葉は無視します、またはWOLだからという理由で片付けます。
2010/6/13