体内を液体が巡っていく
俺は呼吸をして、空を見上げる…そよ風に揺られて、髪がサラリと流れた
何もしていない、俺は何も…
誰もここに居る事すらも、知られていないんだろうか?
だとすれば、俺は声なき彼等と同じか…
死んでいるも、同然かもしれない
琥珀
部屋の主に許可を貰って、翌日にはこの部屋のベランダには色とりどりの花が並んでいた。
午後から出勤だ、と話していた部屋の主は、俺と一緒に花屋へと足を運び、ベランダでも育てられそうな花をじっくりと吟味する俺の横で、その様子を微笑ましそうに眺めていた。
優しい人だ、と思う。
家事をしているのは、泊めてもらっている事に対する…ちょっとした穴埋めとしてしてだ。
だけど、そう…彼には悪いけれども、彼の事を全面的に信用した訳ではないのだ。
一日・二日程度は、人は嘘の仮面を貫き通せる。
その仮面が定着してくれればいいけれど、なかなかそういう訳にもいかない。
むしろ、俺に関わった人は皆捨ててしまったかな?
仕方ないと、思うけど…。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
午後から出勤し、明日の朝までは帰らないという彼を見送り、ドアが閉められた瞬間に小さく溜息を吐く。
一人になった部屋は、気の所為かさっきより温度が下がった気がする。
午後の陽光は、南向きの窓からさんさんと差しているというのに…。
たった二日間の間に、俺はあの人を頼ろうとしているんだろうか?
また……そうやって信じて、そして、失敗してしまうんじゃないんだろうか?
そんな事を考えて、俺は再び溜息を吐いた。
一通り家事を終えて、何もする事の無くなった俺は、ベランダのガラス戸を開けた。
晴天の空に、心地いい風。
その風に揺れる、鉢植えの花達…。
今日揃えたばかりの鉢植えを見て、彼等の様になりたいと、そう切に思った。
彼等の様に、ただ生きているだけで、誰かの役に立つ様な存在に…。
誰の迷惑にもならない存在に、なりたい。
ただ、生きてるだけならば俺も同じ。
同じ生きているのに、俺は居るだけで邪魔になる。
生きていていいだろうか?
そう考えたのは初めてじゃない、むしろ…この数年間、何度も何度も繰り返し繰り返し、考えていた問い。
死のうが生きようが、俺にはさして価値なんてない。
なら、生きていていいのか?
ここから飛び降りて、全て終わらせなくていいのか?
ベランダの手すりに手をかけて、そっと下を見下ろす。
マンションの6階、落ちて死ぬかどうかは微妙な高さだが、アスファルトで覆われた地面なので、落ちて首の骨でも折れれば…可能性はあるかもしれない。
落ちて潰れる自分を想像して、背筋が一気に寒くなる。
鼓動は早く、心音が耳元で大きく鳴り響いている。
ベランダの手すりに手をかけたまま、体はそれ以上動かない。
鉛の様に重い体。
死んでもいいのか?
死んでも何も変わらないのに。
何も、意味なんて無いのに。
誰も俺なんて、見てくれない。
ああ……だけど、一人だけ…今、俺を知ってるあの人はどうだろう?
もし、俺が死んだら……悲しんで、くれるだろうか?
ふと視線を横に逸らせば、目の前には今日買ったばかりの花達が見守っている。
「本当に、花が好きなんだな」
目を輝かせていた俺に、そう優しく言ってくれた彼の笑顔が脳裏に蘇る。
馬鹿だなぁ…悲しむ以前に、とても迷惑だ。
今ここで死ぬのは、あの人にとって…迷惑だ。
それじゃあ意味が無い。
あの人に、どんな考えがあるか分からない、だけど、今ここで死ぬ事はただ彼に恩を仇で返すだけだ。
どれくらい、その場に立っていたのか分からない。
だけど、自分が考えるよりもずっと長い時間、俺はそこに立っていたらしい。
ゆっくりと手を離して後退し、ガラス戸を閉めて大きく息を吐く。
噴き出した汗で、衣服が体に張り付いて酷く不快だ。
だけど、暑い訳じゃない…酷く寒い。
気候は穏やかで、むしろ暑いくらいのハズなのに、俺の体は温度を失った様に寒いと感じる。
ああ、嫌だ…嫌だ……。
簡単に、自分が死んでもいいなんてそう思ってしまう自分が。
気が付けばそういう場所に立って、自分を殺す算段をしている自分が、嫌いだ。
それだというのに、一瞬でそんな殺意なんて消えてしまうんだ。
少しでも希望が見えてしまうと、生きてもいいのかと思ってしまう。
考えてしまう。
苦しいだけなのに…。
でも……できるなら、俺だって生きていたい。
そう思う。
そう、思っている……ハズだ。
自信は無いけど。
誰も居ない部屋、その冷たいフローリングに寝転んで天井を眺める。
耳元ではまだ心臓が激しく高鳴っている。
血液の音だ、俺の中を流れて行く音。
生きてるんだ、俺は…。
結局、死に切れなくて何時もいつも生き残って…。
すっと、左手の指先を見る。
何もなく綺麗な指。
女の子の様に手入れをしている訳ではない、だが、別段荒れているわけでもない。
傷一つ無い、指先や手の甲を眺めてから、そっとその袖を捲り、腕を露出させれば…途端に傷だらけの腕が表れる。
治りかけた傷、深い痕が残っているもの、小さくて綺麗に治ったものも…中にはある。
そんな腕を眺め、そして…そっと、その腕に口を付ける。
肌を舐め、時々柔らかく食む。
ぬるりとして暖かい舌の感触に、身震いする。
「んっ」
わざと、その腕に強く歯を立て、じっとそのまま我慢する。
じわりじわりと、強くなっていく痛み。
やがて、プツリと肌を裂く痛みが表れる。
「ぁ……」
ゆっくりと口を離せば、破れた皮膚から滲むトロリとした血の、濃い赤色。
腕に新しく刻まれた小さな傷から、赤い血が溢れてくる。
細い線となって腕を伝っていく、褐色の肌に流れる血は濁った深い色に見える。
それをしばらくボーと眺めていたが、再び優しくその腕に口付ける。
伝い流れていた血を舐め上げ、傷口に舌を這わせる。
「ん…はふ、ふぅ……ん」
丁寧に小さな傷を舐め上げる。
動物の様な動作。
舌の上には、血に含まれる鉄の味が広がるが、俺はそれを不快になんて感じない。
チュッ、という音と共に離れれば、未だに止まらない血が溢れだしてくる。
すっと零れ落ちていくそれを見つめ、息を吐く。
綺麗な色だと、思うんだ。
空気に触れれば、すぐに酸化して濁ってしまうけど、だから、鮮やかな赤は特別だ。
今、自分が生きてる色だ。
トクトクと脈打つ鼓動を心地よく思い、目を閉じる。
小さな傷をもう一度舐め、止血を続ける。
そんなに深い傷でもない。
すぐに塞がって、治ってしまうだろう。
簡単に。
折られた芽が再生するよりもずっと、簡単だ。
何度繰り返したって、虚しいだけだって分かっているけど。
それでも、止められない。
痛みも苦しみも、生きている証だから。
感じている内は、生きている気がするんだ。
何も感じない、暗闇の底に落ちて行ってしまったら…そうしたら、もう自分は最後だ。
陽が落ちて、段々と暗くなっていく室内を眺めながら、一人震える。
瞼を閉じてみても、瞳はその瞼の裏を見ているだけで、本当の暗闇なんて見て居ないんだけど。
それでも、一人の夜は怖い。
誰も信じたくないのに、誰かの側に居たいなんて…我儘だ。
あの人は、今日は帰って来ない。
それが寂しいと思う自分に、そっと首を振る。
信じるなと、言い聞かせる。
そう言い聞かせて、そっと再び腕を噛む。
付いたばかりの傷跡に被せる様に、宛てられた歯が肉を再び広げる。
痛み。
自分の体へ、警告を発する様に。
信じるなという気持も、一緒に傷跡に埋め込んでいく。
そのまま塞がって、その考えも一緒に体内に埋め込まれる様に。
そうやって、何度も繰り返し刻みつけた拒絶の痕は。
生きたかったのか、それとも死にたかったのか…自分でもよく分からない。
ただただ、傷跡になって残り続けている。
to be continude …
警察官と家出少年続編で、フリオが遂にやっちゃいました。
人は他人を拒絶する時には、暴力を使うと思いますけど、その中でも、対象が他人に向く人と自分に向く人に分かれると思うんですよ。
で、フリオの場合は明らかに後者だろうな、と思いまして…。
つまりは、リスカーなんです。
自殺を目的としているのではなく、自傷行為としてのリスカです。
ところで、自分の腕を舐め上げるフリオって…かなりエロいと思うのは、私だけですか?
2010/6/5