恋人達に、幸あれ!!
St. Valentine's Day【上司編】
人生において、人は色々な関係を築かなければいけないが…それは総じて選べるものと選べないものに分かれる。
親子関係は選べないが、友人関係は選べるだろう……と、そういうように。
そして、俺が今悩まされているのは……。
上司と部下の、上下関係である。
「はぁ……全く」
疲れなのか何なのか分からないが、心の底から本気で零れ落ちた溜息。
のろのろとした動きでゆっくりとベッドから起き出ると、出されてあるズボンとシャツに袖を通す。
確かに、終電が無くなるまで飲みに付き合わされた、タクシーに乗って帰れない訳ではなかったのだが「私の家はここからなら近い、泊まって行け」という強制的圧力によって、俺は上司の家に泊まる事になった。
彼の高級マンションの最上階フロアを丸一つ占領した、無駄に広い家に足を踏み入れるのは何も初めてではない、むしろもう何度となく色々と理由を付けて…というのも名目上で、実際は上司という立場から来る圧力から頷いてしまったのだが、そんな恋人である上司の元へは入社してから何度目かも分からない泊まりとなった、のだが…。
いつも流れで思いつきのように俺を誘いかける割に、俺が泊まる時にはしっかりと着替えが用意されていたりする。
これは、いつ来客になろうとも問題ないという彼の財力なのか、それとも俺に“同居しろ”と言葉にせずに無言の圧力をかけているのか……一体どっちだろうか?
そんな考えても分からない事を考えるのも馬鹿らしく、着替え終わった俺はキッチンへと向かう。
昨晩のアルコールと、濃密な時間を過ごした後の体の気ダルさ。
まあ、これもいつもの通りなのだが、それを“通常”として受け入れられるようになっている自分に嫌気が差した。
社内恋愛を禁止している会社、というのはそんなに考えられないのだが、しかしそれにしても上司と部下で、しかも同性で付き合っているというのは流石に眉を潜められるハズなのだが……バレていないのか、それともこの上司の性癖が既に社内では知れ渡っているのか、俺達の関係に対して後ろ指を刺されているような風は無い。
むしろ、好意的に受け入れられている節もあり……という事は、バレているという事か。
それはそれで、とても複雑な気分になる。
再び出た溜息と一緒に、グラスに注いだミネラルウォーターを飲み干す。
一息ついてから、朝食作りを始める。
勝手知ったる何とやら、むしろ俺が作らなければまともな食事なんて出てこない。
人の家で料理する事に関して、最初は躊躇いもあったものの、今ではもう、それにも慣れてしまった。
慣らされてしまったのかもしれないが。
コーヒーメーカーをセットして、ハムエッグとサラダを作る。
朝は洋食しか食べない、という彼のよく分からないが決して曲げない主張の所為で作り直す事になった、苦い経験を生かしてそれ以降は朝食には必ず洋食を出す。
本当ならば、作ってあげているのだから感謝してくれればいいのに。
そんな文句すら言えないのは、俺の立場の問題からか……。
仕事から離れたらそういう関係を持ち込むのは止めて欲しいという人間に、彼は全く当て嵌まらないらしい。
役職で呼ぶ事と会社外での敬語は止めろと言われた、しかし、傲慢というのか我儘というのか、彼の言葉の圧力に負けているのが現状。
生まれながら、人の上に立つ人なんだろうな…きっと。
このだだっ広い家を見てそう思う。
俺とは育ってきた環境が違うからな……。
身分違いの恋愛、というどこの御伽噺だと言いたくなるような言葉が思い浮かんで、間髪入れずに溜息を吐きそうになったその時。
「何を朝から浮かない顔をしている?」
俺の後ろからすっと伸びて来た腕が絡まる。
「あっ、マティウス……」
その後に続くハズだった俺の朝の挨拶は、彼の口に吸い取られた。
本当に文字通り、“吸い取られて”しまった。
「ん……」
無理な体勢で交わされる口付。
僅かに開いていた口の隙間から、すっと滑り込まされた相手の舌が俺のモノに絡まる。
逃げようとした所で、彼の舌使いから逃げるなんて無理な事なのだ…とずっと以前に気付いてしまった為、無駄な抵抗は止めて相手の好きなようにさせておく。
「おはよう、フリオニール」
チュッという軽い音と一緒に離れた後、まだ触れそうな位置で囁かれる朝の挨拶。
俺から吸い取ってしまった言葉を、そのまま吐き出したんじゃないか?なんて下らない事を考えて、俺も「おはよう」と今度こそ相手に告げる。
そう言ってから急いでフライパンの中身に視線を戻す。
イイ感じに焼けているが、あと少ししたら焦げるだろう卵を慌ててフライパンごと火から下す。
「料理中に触るなって、毎回言ってるだろ!危ないから!!」
そう相手に文句を言えば、彼は何も悪びれる事なく「大丈夫だったのだろう?」と人事のように言う。
いや、本当に人事なんだろう。
これで料理を焦がして、文句を言った揚句に作り直しをさせるのは自分だというのに…二度手間である俺からすると、なんとも迷惑な話だ。
「もうすぐ出来るか?」
「ああ、座って待っててくれよ」
ここに立たれていても邪魔なだけなのでそう言うと、彼は素直にその言葉に従ってキッチンから出て行った。
トーストの焼き上がる音を聞いて、俺は再び一息ついた。
二人だけの静かな朝食。
美味しいかどうか尋ねるような可愛げなんて、俺は持ち合わせていないし…それ以前に、こんな簡単な料理に関して美味しいと言われた所で、そんなに嬉しいわけでもない。
精々、感謝の言葉でも述べてもらえればいいか…という程度だ。
「今日の予定は、何かあるのか?」
食事の音以外に発せられたのは、そんな質問。
「休みだから、溜まっていた洗濯物を片付けて、あとは部屋の掃除をしたいな」
「なら、週末は私の家で過ごしても構わんという事だな」
「どうしてそんな風に解釈する」
聞いただろう俺の話を。
平日に仕事に出ている以上、週末に溜まった家事を片付ける必要があるのだ!それを分かっていて俺の予定を変更させようというつもりなのか?そうなのか?
「家事など、一日二日サボった所で死にはせん」
澄ました顔でキッパリとそう口にするマティウス。
「俺もマティウスと、一日二日くらい顔を合わせなくっても死なないと思うんだけど……」
「それは私が許さん」
俺の皮肉を込めた言葉に、マティウスは怒りとあの強制的圧力を持った声でそう言った。
まったく……そんなんだから、社内で“皇帝”とか“暴君”みたいなアダ名が付くんだ。
しかも、敵意や悪意を込めた方の。
「俺は、お前の家政婦じゃないぞ」
「当たり前だ。お前の役職は恋人だと、私は確かにそう言ったハズだ」
そうだ、良く覚えている。
新入社員で入って来たばかりの俺を、数か月で自分の専属の部下に引き抜いてきた時の事だ。
その時マティウスが、一番最初に俺に言った一言。
「お前の役職は今日から“私の恋人”だ。それをよく心得ておけ」
俺が何かを尋ねたり抗議したりするよりも先に、それだけ言うと踵を返してさっさと歩いて行ってしまった。
急いで彼の後を追いながら、その背中が、「有無は言わせない」…とそう語っていた。
この人にとっては、“恋人”というポジションすらも“役職”で、感情は二の次なのか?
いくら部下とはいえ、挨拶をして名乗った二言目が命令口調というのは一体どういう了見なのか?
勝手に部署を変えられた上に、初めて会ったばかりの男にいきなり恋人になれ、と宣言されてしまった俺は、先行きが酷く心配になる。
こんな事になるくらいなら、自転車で京都へ行き、清水の舞台から飛び降りろ!と言われた方が、まだずっとマシな気分だ。
まあ、あそこから飛び降りたって九割は助かるらしいのだが……しかし、比べる所はそこではない。
俺は、もしかしたら…とてつもない相手に掴まってしまったのではないか?
強制力を持った公私混同のこの男に付き合う事になった俺は、この先の人生に酷い不安を抱えてしまった。
しかし……この男の力というのを思い知らされてしまったのも、また事実。
仕事上の事は勿論だが……何て言ったって、結局は俺はこの人と“一応”は恋人と呼べそうな関係にあるのだ。
ただ、上司命令で始まった恋愛…というのはどうも、今までに先例を聞かない。
見合い結婚とかそういうのではなく、本人からの宣言で強制力を持って始まったのだから余計に性質が悪い。
それだけに、なんていうか……多少、複雑な思いも抱いていたりするわけだ。
「何を考えている?」
「えっ?」
回想から無理矢理現実に引き戻された俺が最初に見たのは、怪訝な顔をしたマティウス。
食事の手を止めてボーとしていたのだから、怪しむのも当たり前か。
「いや、お前と最初に会った日の事を思い出してた」
「そうか……颯爽と私が貴様の心を射止めた瞬間だな」
勝手な解釈は放っておこうか、正した所で聞き入れやしないしな。
因みに、俺のマティウスに対する正しい第一印象は“意味は分からないが、我儘そうな嫌な上司”だ。
これは半分以上当たっている。
「今、何か私に対して嫌味な事を思っていなかったか?」
「さぁ、気の所為じゃないか?」
時々発揮される勘の鋭さには驚かされる。
読心術でも使えるんじゃないか、と疑いたくなるくらいだ。
それをもっと別の場所で発揮してくれたなら、この上司はもっと出世できるのではないかと思う。
まぁ、これ以上の出世となると、代表取締役になるのだが…。
「まあ、どうせ週末もする事がないのだろう?ならば、私に付き合っておけ」
まただ、またこの男は自分の決定事項を俺に押し付けてくる。
それに反抗した所で、その反抗すらもこの男には無かった事にされてしまうのがオチだ。
決して折れない、曲げない…こういう我儘を許しておくのは人として駄目だとは思うのだが、どうしようもない事に、彼に対してはそれを“許す”という選択肢しかない。
「分かったよ、付き合えばいいんだろう?どこかに行く予定でもあるのか?」
しぶしぶながらも了承すると、彼は俺を再び怪訝な表情で見返す。
「お前、それは本気で言っているのか?」
「何が?」
「今週末の予定だ」
「接待とかに行く約束なんてあったか?」
「そうではない!」
俺の質問に、マティウスはキレ気味に返答する。
怒らせたら面倒なんだよなと考えつつも、俺に思い当たる節が無いのだから相手に尋ねるより他に方法がない。
しかし…今週末の予定は確かに空いていたハズだ。それを見越して、俺は昨晩この男に飲みに連れて行かされたのだ、強制的に。
逡巡する俺を見て、マティウスは小さく溜息を吐く。
その溜息の理由に首を傾ける俺を見て、呆れたように男は口を開いた。
「もう構わん、お前に何を言っても無駄だという事はよく分かった」
「はぁ?何だよソレ」
分からない事をそのままにされるのは、座りが悪い。
だが、それ以上の事を尋ね様にも相手の機嫌が良くない為、聞き出せるような雰囲気でもない。
まったく……一体何なんだ?
その理由は、洗い物をしていた時にふと目に付いたカレンダーの日付で気付いた。
2月13日。
ならば、明日は……。
「…………あっ、まさか…な」
しかし、他に週末の予定と言って何かあるかと言われれば他に何もない。
という事は、アイツの怒っていた理由はこれだ。
「まぁ…………役職、恋人だからな…」
自嘲気味に呟くと、何だか少しおかしくなって笑ってしまった。
職務怠慢は、許されない……か。
溜息一つ、俺はキッチンの材料を確認し…日頃料理をしないマティウスが材料を買い込むとは考え難いので、俺が買った物以外で増えたものなんて予想通りだが何もなく、仕方無しに買い出しへと行く事になった。
翌日、結局今週末はマティウスの家に強制的に宿泊する事が決定してしまっていた俺は、昼の時間に読書をしていたアイツの為に紅茶を淹れてやった。
その心遣いだけでも感謝されてもいいくらいだというのに、わざわざ彼が望んでいたモノを出してやったのだから本気で心の底から感謝してくれ、と言いたい。
「作ったのか?」
自分の目の前に置かれたティーカップと一緒に、皿に乗せられたケーキを見て、まずそう尋ねる相手に俺は頷く。
「一応はな、初めて作ったから自信はないぞ」
そう返答すると、相手がゆっくりとフォークを入れるその動作を見つめる。
切った断面からトロリと流れ出すチョコレートに、相手の目が驚きに見開かれるのを見て少し微笑む。
普通のケーキでも良かったのだが、まあ、忘れていたのだから仕方ない、少し手が凝った物を作ってみようと思った結果、完成したのがフォンダン・ショコラという、温めて食べるというケーキ。
生クリームを添えて出したケーキを、一口食べてゆっくりと粗食している相手を眺める。
「……美味い」
ポツリと呟かれた一言に、俺は安堵の息をつく。
「そうか……で、これで満足なのか?」
「何がだ?」
「バレンタインデー。昨日機嫌が悪かったのは、俺が忘れてたからだろ?」
そう指摘すると、マティウスは眉をしかめて「そんな事では無い」と、そっぽを向いた。
うん、間違いなく俺の解答で正解だ。
「恋人が居るというのに、こういうモノを忘れる貴様があまりにも無神経だと思っていただけだ」
「そんな事言われてもな……普通に考えて男はバレンタインデーにチョコなんて渡さないしさ」
苦笑いしてそう答える俺に、相手はしかめ面のまま「それはこの国だけで通じる風習だな」と、言った。
まあ、確かにそれはその通りなのかもしれないが、余所は余所、ウチはウチ…とかいう、どこかの母親の言葉を借りて言い返すしかないだろう。
「残念ながら、俺は海外で暮らしていた事はないからな…そういうイベント事は仕事が忙しいと忘れてくるしさ。精々楽しめるのも子供とか学生の内だけだろ?」
社会人になってまで、男が騒ぐようなイベントとは言い難い。
というより、元々そういうイベントとは縁遠かった為に、意識が無いと言った方がいいか。
「貴様、余暇を楽しむような余裕を持たなければ、人生が廃れるぞ」
呆れたようにそう言うものの、お前の方こそ、もう少し他人に対しての気遣いというものを持った方がいいと思う。
そうすれば、お前の人間関係だってもっと円滑になるだろうに。
「余計な御世話だ」
「その台詞、そのままお前に返却するよ」
笑ってそう言う俺も自分のケーキを一口頬張る。
うん、まあそこそこの出来なのかな?
初めて食べるから、比べようはないんだがそう思う。
「お前はもう少し、可愛げのある事は言えんのか?」
どこか諦めたようにそう言う相手に対し、俺は肩をすくめる。
「何だよ可愛げのある事って?」
何日も前から準備していて、渡す時にドキドキして顔を赤らめて「食べて下さい!」みたいな事をやれば良かったのか?
それを俺で想像してみろ、気持ち悪いだけだぞ。
「恋人に対して、もう少し緊張感というのは持てないのか?」
げんなりする俺に、マティウスはもうほとんど諦めの表情でそう言う。
「職務怠慢はしてないぞ、責務はちゃんと果たしてる」
「これでも一応、恋人なんで」と言えば、相手の方からは溜息。
「もう少し、甘い関係というのを目指そうとは思わんのか?」
我儘な子供のまま大人になったと思しき俺の“恋人”は、俺へと向けてまた注文を付ける。
まったく…何でもかんでも、上官命令で解決できるわけじゃないんだぞ。
「何だよ、ケーキは充分に甘いだろ?」
それとこれとは勿論“甘い”の意味が違うのだが、しかし彼は俺のこの台詞に対してはさして文句は言わなかった。
「心がこもっていない」
さっきの俺の台詞に対して、相手が言い返した台詞がこれだ。
今、確実に俺の台詞スル—したよな?
「ちゃんと愛情はあるぞ」
「感じられん」
「それはお前の感覚が麻痺してるからだ」
むしろ、お前に人の思い遣りを感じられるような感覚器官が存在していたのか?
もしそうだというのなら、それこそ世紀の大発見だぞ。
「違うな、お前が私に愛情を持って接していないからだ」
しかし、そんな俺の返答に対しても相手は頑として聞き入れようとしない。
「じゃあどうしろっていうんだよ?砂糖でも足してやろうか」
そう言って、テーブルに置いていたシュガーポットを本気で取り上げようとした俺の腕を、マティウスの腕がなんとか押さえつけ、俺の凶行を思い留まらせた。
その腕を抑えたまま、マティウスの顔が近付いたと思ったら……キスされた。
「ん……」
触れるだけで離れた相手がフッと微笑む。
「まったく、私の恋人としての責務を果たすのならば…これくらいはしろ」
綺麗な顔立ちだというのに、相変わらずの命令口調で上司は俺にそう言う。
結局の所、俺とこの恋人の上下関係というのは日常生活の中でも、根本に存在しているらしい。
立場の違いというのは、まあ仕方ないのかもしれないな。
とりあえず、俺の役職は……この人の恋人だ。
バレンタイン企画・最終回、皇帝×フリオバージョン。
全てが現代パロで半数以上が学パロの中で、皇帝だけはどうもフリオの上司という設定が最初に浮かんだので社会人に。
バレンタインである必要が無いと言えば無い、我儘上司に振り回される苦労人部下という設定がやりたかったのです。
しかしこのフリオがどういう訳か可愛くない、上司に仕方なく付き合ってる感じが否めないですね。
でも、結局二人共仲良いんですよ…仲良いハズなんですよ。
バレンタイン企画、そして二月はフリオ月間という事で、フリオ受け作品群……疲れました、けど満足です!
2010/2/26