その音が、何よりも好きなんだ…
空谷足音
ある日、俺は一人の青年を見た。
透き通るような綺麗な銀髪に、白い肌が印象的な整った顔の青年だ。
大きな屋敷の窓から、その姿がチラリと見えた。
微かに聞こえてくる、ピアノの演奏。
それが、その青年が演奏しているピアノの音だと、しばらくして気付いた。
さらさらと、爽やかな風が周囲を通って行く。
彼の演奏と相まって、周囲の世界が急に変わった気がした。
その日から、俺はよくその屋敷の前を通るようになった。
彼は何時も、その部屋でピアノを弾いている。
いや、ピアノを弾いてる以外の彼を見たことがない。
音楽には詳しくないので、彼が有名なピアニストなのかどうか、俺には分からない。
ポン…という、高い音がした後、彼の演奏が急に止まった。
どうしたのかと思ったら、彼がふいに俺の方を向いた。
目が合う、吸いこまれそうなくらいに、真っ直ぐな瞳だ。
「音楽が、好きなのか?」
彼が、ふとそんな声を俺にかける。
「えっ…あの」
「何時もここに聴きに来てくれているの、知っているよ」
確かに俺を見て、彼は俺にそう話しかけている。
どうして知っているんだろう?気付いていないと思っていたのに、どうして?
しかし、そんな俺の疑問なんて彼には伝わらない。
「私の名前は、ウォーリアというんだ。君は?」
「フリオニールです」
「フリオニールか……良かったら、上がらないか?」
「へっ、上がるって?」
何処に?
「私の家に、寄っていかないか?」
酷く馬鹿げた質問をした俺に、彼は微笑んでそう答えた。
それは、俺にとってはとても魅力的な誘いだ。
ずっと気になっていた窓辺のピアニスト、その彼にこうやって声をかけてもらえた、それだけでも驚きなのに…。
「迷惑じゃ、ないですか?」
「いや…この屋敷には私の他に使用人しかいない、気にしなくていい」
気にしなくていい…そう言われても、見ず知らずの人の家だ。
こんな、出会ったばかりの人間が入ってもいいものなんだろうか?
「ずっと、そこから聞いていたんだろう?君は私の大切な観客なんだ。ただ、最後まで聞いてくれた事はないみたいだが」
それはそうだ、ここは一般の道で、彼の演奏の間中に上手くここに立ち止まれるわけではない。
初めから最後まで、彼の演奏を聴いた事は、今までにはない。
「聴いてほしいんだ、一度だけでもいいから、私の演奏を最後まで」
窓辺から強く、彼は訴えかける。
音楽の事なんて、詳しくは分からない。
だけど、そんな俺でも、彼の必死の訴えは充分に伝わった。
「それなら…その、少しだけお邪魔していいですか?」
「ああ」
俺の答えに、彼はフッと満足そうに微笑んだ。
ピアノを弾いている時の真剣な表情しか知らない俺には、その表情は生き生きとしていて、ちょっとドキリとする。
初めて足を踏み入れたその屋敷は、落ち着いた調度品で飾られた、どこかゆっくりと時間が流れているような、そんな気がする。
「ようこそ」
ニッコリと微笑んで、彼は俺を出迎えてくれた。
使用人の人に案内された部屋は、俺が何時も前を通るあのピアノの置かれた部屋だ。
「君は、音楽には詳しいのかい?」
「いえ……学校で習った程度しか知らなくて」
「そうか…リクエストがないなら、今私が演奏していた曲でいいかな?」
ピアノの前に座り、そう尋ねるウォーリア。
俺が彼の提案に頷くと、彼はそっとピアノの鍵盤に指をかけた。
彼が演奏した、名前もしらないその曲に、俺は聞き惚れてしまった。
音楽が好きだとか、ピアノが好きだとか、そういうわけではない、彼の演奏する音楽が好きなんだろう。
力強く、それでいて繊細な彼の演奏がきっと俺は気に入ってるんだ。
「君が…私の演奏を聴いているのは、前から知っていたんだ」
演奏が終わった後、拍手をしていた俺の方を向いて彼はそう言った。
「誰かが私の演奏を聴きに来てくれている、それを知って、少し嬉しかった」
「どうして?」
「こうやって、私の事を心の端にでも留めてくれる人がいると知って、嬉しかったんだ」
そんな事を言うウォーリアに、俺は首を傾ける。
こんなに上手くピアノを演奏するのに、どこかで発表なんてしたりしないんだろうか?
「あまり、家族とは上手くいってないんだ…ここには越して来たばかりで、あまり…というか、全然知り合いも居ない」
だから、あまりここへ訪ねてくる人間も居なくてねと、彼はどこか寂しそうな顔をした。
「外に、出たらいいのに」
「あまり、出歩くのは好きじゃないんだ…というか、私はあまり外に出られない」
そこで、初めて彼の事を知った。
生まれつきの病で、あまり外を出歩けない、彼はそんな人らしい。
ピアノを始めた理由は、そんな彼が人と関わる一つの方法だったのだそうだ。
「私がピアノを弾いていると、周囲に人が集まってくる、足を止めて聞いてくれる人が居る、それが嬉しくて…私はずっとピアノを演奏し続けていたんだ」
だから、こうやって君が聴いてくれて嬉しかったんだ、と彼は穏やかに微笑んだ。
「……良かったら、これからもここへ聴きに来てくれないか?」
「いいんですか?」
「構わない……いや、ぜひ来てほしい」
彼は微笑んだまま、俺にそう言った。
その微笑みがあまりにも綺麗で、俺は無意識の内に、彼に向って了承の返事をしていた。
それから、彼の屋敷にはよく顔を出すようになった。
彼が言っていたように、体調が悪い日もあるらしい、それでも俺は彼に会いに行った。
「ウォーリアは普段、ずっと何してるんだ?」
俺の定位置になってきている、ピアノの側の椅子に座って演奏の終わった彼に、俺はそう尋ねる。
「ピアノを弾く以外に、か?」
楽譜を片付けながら、彼は俺の質問を質問で返す。
「うん、俺は大学に通ってるけど…ウォーリアはさ、普段ずっと家に居るんだろう?」
彼は大学を卒業しているそうだ、だが体の所為で職に就く事が出来ず、両親の援助があるお陰で生活に不便はしていないらしい。
「ピアノを演奏する以外は、本を読んだり、時々レコーディングもしているが…」
「レコーディング?」
「作曲もしているからな、一応」
そんな事をしているなんて、全然知らなかった。
「……仕事はしてないって…」
「生きる為にしてるんじゃないんだ、仕事とは言えないさ」
ウォーリアはそう言うと、向かっていた楽譜に書き込みを入れた。
後でよくよく調べてみたら、ウォーリアは今、注目を浴びているピアニストである事が分かった。
体の事もあって演奏会などはまだ開いていないのだが、それでも彼の曲は、だんだんと売れる枚数が増えてきているらしい。
人気が出てきている、という事だ。
そんな事、全然知らなかった。
「別にそんな事は知らなくてもいいんだ。君は私の曲を好いてくれている、それだけで充分、私の事を理解してくれている」
「そんな事ないよ、俺は貴方の事…ほとんど何も知らない」
楽譜に向かっていた彼は、俺の方を見た。
射抜くような瞳が、俺を見つめる。
「私の方が、君の事を知らない…私が君を知る事ができるのは、君が会いに来てくれる、僅かな時間だけなんだ」
だから、これからも来てほしい。
そっと静かな視線で俺を見つめて、ウォーリアはそう言った。
「これからも、きっと来るから」
俺は、彼の真っ直ぐな瞳に約束した。
それから、俺はウォーリアの曲を聞いてみた。
彼に言うと、「そんな事しなくてもいい」と言われそうで、秘密にしているけど…。
でもCDと彼の生演奏とじゃ、やっぱり迫力が違う。
それでも消せない、彼の曲の魅力。
ふと足を止めてみたくなる、ずっと聞いていたくなる、力強く、どこか繊細なメロディー。
「俺は、ウォーリアの演奏するピアノの音、好きだな」
ある日、練習を続ける彼にそう言った。
「ウォーリアも、好きな音があるの?」
勿論、この答えにはピアノの音、と返ってくるものだと思っていた。
「足音、だな」
「…はぁ?」
「だから、私の好きな音は、足音なんだ」
彼は真剣にそう話す。
あまりにも予想と違い過ぎる返事に、俺は最初、彼は一体何を言ってるのかと考えてしまった。
「どうして、足音なんだ?」
そんな俺の質問に、彼は練習していた指を止めた。
余韻を残して、ピアノの音が段々と小さくなっていく。
いつもの場所に座っている俺の方へと、彼はゆっくりと視線を向ける。
真剣なその瞳が、俺を見つめる。
「私は、この場所から出られない…私は話すのが下手だから、あまり人との会話も上手く続かないんだ」
だから、友人と呼べる人間も数少ない。
「療養の為とはいえ、こんな場所で一人で暮らすようになったのは、親元に居づらくなったからに他ならない。
一人で暮らせば、人との接触は自然になくなる…孤独ではあるが、摩擦は生まれない…そんな生活でいいと思った。
だが、そんな考えはすぐに甘かったと思い直した。一人というのは、あまりにも孤独だ…使用人は居るが、彼等だって雇われの身だ、必要以上の会話なんてしない…私がそれを望んでいないんだと、彼等はそう思っているんだろう」
実際に、自分の身内の人間と彼はあまり仲良くできないようだ。
使用人でもそれは同じのようで、彼にとっては退屈な日々だったのだろう。
「だが、君は違う」
力強い声で、彼は俺にそう言う。
「俺?」
思わず、俺は彼にそう聞き返す。
「フリオニール。君は私の演奏を聴いて足を止めてくれた、私の事を少しでも考えてくれた。
今ではこうして、私の元へ訪ねて来てくれる。
ただ静かに、私の“主張”を聴いてくれるのは君だけだ。フリオニール」
そっと彼の手が俺の手に重ねられる。
白くて長い指は、俺の好きなあの音を奏でる、彼の大切な体の一部だ。
その手に触れられて、ドキリと心臓が高鳴った。
「私はあまり外へは出られない、だから、こうして私の元へと訪ねに来てくれる人が居るのが嬉しい。
こうやって、私の元へ訪ねて来てくれる人物のその足音が、だから私の好きな音だ」
ぎゅっと、重ねられた手に力が込められる。
心臓の鼓動が、体の奥から響いてくる。どんどん速く、どんどん大きくなっていく音。
「私の元を訪れてくれる人は少ない…フリオニール、君は私の事をどう思ってるのか、それは分からない、だが…。
少なくとも、私にとっては君は大切な人だ」
何時の間に、こんなに近づいていたんだろう?
身を乗り出すようにして、俺と向かい合うウォーリアの顔は、もう直ぐそこだ。
触れられそうな程に、その距離は近い。
「フリオニール、君の事が好きだ」
彼のその一言を聞いた瞬間、俺は息が止まりそうになった。
「……っぁ…」
それから先は、よく覚えていない。
自分の取った行動は、一言で表すならば“逃亡”だ。
それ以上何も言わず、俺は彼の前から逃げた。
嫌悪感を抱いたわけではない、ただ…その感情に触れるのが怖かった。
だから、俺は彼の前から逃げた。
彼の純粋過ぎる感情が、自分のような者に向けられていいのか…そう思ったのだ。
このままでいいなんて、勿論思ってはいない。
だけど、顔を合わせるのが気まずくて…それから一カ月近く、彼の元へ足を向ける事ができなかった。
彼の元へ行く決心が着いたのは、彼の音を再び聞く事を許されたかったから。
そう、彼に…ウォーリアに会いたかった。
気がつけば向かってしまうのは、自分も彼を好いているからではないか…と、そう気付いて。
しかしそれでも、彼の元へ向かうのは怖かった。
何も言えずに逃亡した俺を、彼は許してくれるだろうか?
久々に訪れた彼の家、少し前と姿は変わっていない。
このまま何年経っても、この屋敷はこのままの姿でここに建っているのではないか…と思う。
廊下を歩く自分の足音が、随分と大きく聞こえる。
彼が好きだと言ってくれた音だ。
…もしかしたら、彼はこの音を待ってくれているだろうか?
まさか……な。
彼の部屋の前で立ち止まる、意を決してノックをしようとした瞬間に、慌ただしい足音と、ガチャリという前と変わらないドアの開く音がして、その戸が開いた。
「フリオニール」
勢いよく開いたドアの向こうから、本人が顔を出す。
「あの、ウォーリア俺……」
本人を目の前にして、俺は言葉が詰まる。
一体どうしたらいいんだろう?どう言えばいいんだろう?
逃げ出してしまいたい。
でも一度、逃げ出してしまった。
二度目はない。
「とりあえず、中に入るか?」
「うん」
開けた時の勢いとは違って、彼は俺を部屋の中に招き入れると、静かにドアを閉めた。
「先日は、済まなかった」
入った瞬間に、彼は俺にそう謝り出した。
出鼻を既に挫かれてしまい、俺はどうしたらいいか分からなくなる。
「君を困らせるつもりはなかったんだ、迷惑だっただろう事も分かってる、だが…本当に済まない」
ペコリと頭を下げられて、俺は戸惑う。
謝ってほしかったわけじゃないんだ、俺は…俺はただ、彼に返事を返しに来ただけなのに。
俺の気持ちを、伝えに来ただけなのに。
「ウォーリア、俺」
「私は別に、君が側に居てくれればそれでいいんだ、フリオニール…」
「ウォーリア聞いて!俺の話」
このままではきっと俺の話を聞いてくれない、と思って、俺は彼の手を握って訴えかける。
その瞬間に、正直に彼は「すまない」と小さく謝った。
小さく、深呼吸する。
「あの俺…迷惑だなんて思ってないよ、その…あの時、貴方の前から逃げたから、足を踏み入れられなかったんだ。
自分の気持ちが、分からなかったから…でも、俺は…ウォーリアの側に居たいんだ。
貴方の事、好きだから」
生涯で初めての告白。
呼吸の仕方を忘れたのではないか、という位、自分の頭の中の酸素が足りてない。
ウォーリアの視線に耐えられず、俺は下を向く。
「フリオニール」
優しく俺の名前を呼んで、俺を抱きしめる。
とん、と俺の肩に頭を乗せて、安心したように溜息を吐く。
「君に嫌われたんじゃないか…って、ずっと不安だったんだ」
「そんな事、ないよ」
「でも、君はあの日から中々私の元へ来てくれなかった、てっきり嫌われたものだと思ってたから」
「ご…ごめん」
肩に顔を埋めたままなので、彼の顔は見えない。
その方が良い、今の俺の顔はきっと、とても情けないものだろうから…。
その時、ふと彼の部屋の中に散らばったままの楽譜が目についた。
珍しい…彼の部屋はいつも、綺麗に片付いていたから。
「……実は、君がここに来なくなってから、良い曲が書けなくなった」
俺の視線の先に気付いたのか、彼はそう言って、ようやく俺を離してくれた。
「俺が……来なくなってから?」
「ああ、どうしてだろうな?」
そうやって俺を見つめる彼、だが、何を言わんとしているのか分かった。
彼の心が乱れていたから、だろう。
「久しぶりに、聴いていくだろう?」
床に散らばった楽譜を拾い集めた後、彼は棚から完成した楽譜を取り出してそう言う。
「うん」
やっぱり、彼のピアノの音が俺は好きだ。
彼が紡ぎ出す、澄んだ音色。
その音を作り出す、貴方が好きだ。
「ウォーリア…」
演奏が終わった後、いつもの定位置からそっと体を乗り出す。
彼の肩に手を乗せ、その頬にそっと口づける。
「!!」
驚いたように俺を見るウォーリアに、俺は恥ずかしくて真っ赤になったまま「今まで来なくてごめん」と小さな声で謝った。
「…今ので、一曲書けそうだよ」
まだ俯いたままの俺にそう言って、彼はそっと優しく俺の頭を撫でた。
ネタが本当になかった25,000HITフリー小説。
偶然テレビで見たピアニストの特集から、こんな話を制作してみたりしたわけです。
ウォーリアさんが病弱とか、あの見た目からは考えられないんですが…まあ、肌の色は異常に白いんで、病的に見えない事も…ないかなぁ…と。
しかし、今までのフリーの中で一番気に入ってますこの話。
できれば続編を書こうかな…とか、考えてます。
そうそう、来月でサイトが一周年になります、ああ…もうそんなに経つんだなぁ……。
それまでに、30,000HIT行きそうな予感が…。
一年で、30,000近くの方に訪れて頂いていると思うと、なんだか不思議で仕方ないです。
これからも、まだまだ活動していきたいと思っておりますので、宜しくお願いします!!
では、25,000HITありがとうございました!!