枯れたひまわりっていうのが嫌いだった。
ああ、終わるんだなってかんじがするもんだから。
夏の終わりのひまわり
土曜の午前十一時、下宿中のワンルームマンションのチャイムが鳴らされた。
約束をしていた相手だろうと勝手に予想をつけ、部屋着姿のままで外に出る。
「よう、はよ」
ドアを開けて真っ先に目に入る赤い髪、ついで絡む赤い目の色、なにより外の光の強さに目を細める。
「おはよう。ってかお前なに、寝起きなのか?」
ハーフパンツにタンクトップという格好がそんなに変か、そう言ったら俺の髪に盛大な寝癖がついていると、火神は笑って言った。
「とりあえず上がれよ」
「おう」
相変わらず律儀に「お邪魔します」と行って入って来る相手に、そうだと引きとめられた。
「お前さ、誕生日なんだろ?」
そう言いながら火神がさし出してきたのは、ひまわりの花束だった。
どうして男の俺に誕生日だからって花束なんだよ、もう少しなにか他にあるだろうが。
マンションの下にある花壇のはどれももう枯れてしまっているのに、火神が差し出したそれは全てまだ咲き始めたばかりの、綺麗な花だった。
「ウチ、花瓶なんてないんだけど」
受け取ったそれをどうしようかと迷って、最初に出てきた言葉がそれだった。
「分かってるよ、だから持って来た」
そう言うと、通学にも使っている大き目のボストンバッグから箱が出てきた。両手で持たないといけないくらい大きなそれは正方形で、花瓶というよりも壺が入ってそうなイメージだ。
「それが分かってんなら、花なんか持ってくんなよ」
呆れて言うと、いいじゃないかと火神は唇を尖らせて返した。
「そうそう、あとこれも」
どう言って火神が持ち上げたのは近所のスーパーのビニール袋だった。
「どうせ帰って来たばっかで、冷蔵庫の中身なにも入ってないんだろ?」
気が利くというか、俺の性格を完全に把握している火神は、久々に来たわりに遠慮というのは置き忘れてこなかったらしく。勝手に冷蔵庫を開けて、その惨状を見てやっぱりなと呟いた。
テツからは「いい加減、付き合ったらどうなんですか」と再三、苦笑いしながら言われるものの、そういう気がないんだから仕方ない。
主に向こうにだけどな。
買い物袋の中身を冷蔵庫に入れると、俺の手の中で相変わらずどうすればいいか迷っていた花を取り返し、狭いキッチンに立ち洗い桶に水を張った。キッチンハサミを取り出した。どうやらかわりに生けてくれるらしい。
その様子を眺め、手入れのしてあるカメラを手に側に戻る。ハサミでひまわりの茎を切って、器用に生けていく様子を眺め頭の中でどう切り取るか考え、ファインダーを覗くとシャッターを切った。その音を聞き、少し俺の方を見返したものの、気にしないことにしたのかなにも言わずに作業に戻る。
カメラを扱う俺に相手はもう慣れたらしい、最初の頃はシャッター音にビビッていたし、なんの前触れもなく撮れば怒っていたものだが、シャッター音に慣れるためだと説得した。勿論、そんなの詭弁にすぎない。テツからは「堂々とした隠し撮りですね」と溜息混じりに言われた。そうだよ、悪いか?
「お前、そういうの家でも飾ってんの?」
シャッターを切りながらそう尋ねると、こちらに視線をよこさず火神はいやと答える。「どうしてそう思ったんだ」と反対に聞かれて「慣れてるからだ」と答えると、そうでもないと返された。
「華道とか全然分かんねえよ、適当に差してるだけだし」
そうは言うものの、青いまだら模様が入った球形の花瓶に火神が選んできたひまわりは綺麗に並べられている。よく見ればいくつか違う種類のひまわりが混ざっているらしい。小ぶりな花のものや、オレンジがかった花弁のもの、茶色い真ん中の部分が少ないものと色々ある。それらを少しずつ高さを変えて生けていく。
手元でまたシャッターを切る、見つめている相手はこちらを見ない。こっち向けと念を唱えていると、ふいに赤い瞳がファインダーにちらついた。
「ああ、花瓶はやるから返さなくていいぞ」
授業で作ったやつだしと話す火神を見つめて、そうかよと返すと再び作業に戻る。
どうやら俺の部屋には、またこいつの手製のガラス製品が増えるらしい。今度のは大物なだけに、花が枯れた後で絶対に困るのが目に見えて今から頭が痛い。
「君に紹介するのは凄く不服ですが、友人の火神君です」
昔からの知り合いとはいえ、容赦しない厳しい言葉にどういう意味だと問い詰めそうになったが、相手がよろしくと先に手を出して来たので先にそれを受け入れてしまった。
固い手をしているなと、なんとなく思った。勿論、一瞬だし男の手なんて柔らかいものでもないだろうが、それにしても……と首を傾げていると、テツから「火神君は工芸学科なんです」と続けて紹介された。
「工芸?」
「ガラス工芸コースなんだ」
そう言われてようやく納得がいった。何千度の窯を前に溶けたガラスを扱ってる所だ、それに対応した結果があの手の固さなんだろう。
「このガングロは写真学科です。女の子を撮りたくてカメラをやり始めたなんとも不純な奴ですので、表面上のお付き合いを推奨します」
「お前、俺の扱い相変わらずひでえよな」
君にはこれくらいで充分ですと、中高からの付き合いのはずの相手から切り捨てられる。それを聞きながら、火神は引きつった笑みを浮かべている。
「なあ黒子。俺、本当に写らないと駄目か?」
「駄目です、ここまできたんですから逃げないで下さい」
そう言いながらテツの奴にしっかりと腕を掴まれて、諦めたように溜息を吐く。
俺は確か赤司の奴が撮ってる映画のポスター用写真を撮るために召喚されたはずだ。テツは映画の原作者だって聞いている。
「なあテツ、確か主人公って黄瀬じゃなかったか?」
「そうですよ、言ってませんでしたか?主人公と親友役の二枚撮ってほしいって。ちなみに黄瀬君がモデルのバイトで遅れるとも言いましたけど」
そうだっけか、と首を傾げるとそうですと強い口調で返された。そんな調子でどうするんだ、仕事にならないだろうと怒る相手に、頼んできたのはそっちだろうと言うと、むっとした顔でテツは俺を睨みつけてきた。
「僕は嫌だったんです、君みたいないい加減な人に頼むのは。どうせ撮影中は人が揃ってるんですから、その時に撮ればいいじゃないかってそう思いましたよ。でも赤司君がどうせならばちゃんと写真の技術がある人に頼む方がいいと、そう言うから仕方なくです仕方なく」
「仕方なくって、それで休み潰される俺の身になれよ!」
「いいじゃないですか、君どうせいつでも暇でしょう」
そんなことねえよ、俺だって忙しい時くらいあるっつうの。っていうか
「それくらいにしといてやれよ」と苦笑いしながら火神が反論する。
「なんつーか、青峰だっけ?悪いな、こんなんつき合わせて」
申し訳ないように謝られてしまったが、むしろ惨めになるから止めてくれ。
「悪いな女の子じゃなくて」
「ちょっと待て!俺のイメージやめろ」
思わずそう叫んだ。絶対にテツのせいだ、初めて会った人間に変なこと言うんじゃねえよ。思わず体から力が抜ける。確かにグラビア撮影したくてカメラ始めたけど、一応それ以外の写真も撮ってるからな。
「とりあえず、さっさと撮って終わらせるぞ」
カメラの用意をしてそう言うと、火神は緊張したように俺を見つめる。どうしたんだと聞けば「カメラ苦手なんだよ」と苦笑いして言われた。ちょっと待て、お前カメラの前で演技してたんだろ?今更、普通のカメラでビビるなっつーか。
「コイツ、大丈夫なの?」
心配になってテツに尋ねると、相変わらずの無表情のままで答える。
「大丈夫です、慣れたら火神君はカメラの前で化けますから」
いや、慣れるまで待たないといけないのか……とか心配になったものの、グッと親指を立てるテツにそれ止めろと頭を軽く叩いてから、カメラを構える。
「んじゃいくぞ」
シャッターを切る、その音に火神は最初の方は緊張していた。
見た目はかなり良い方だと思うのに、本人いわく「人から見られるのには慣れない」らしい。
「見られてるとか意識すんな。火神、お前は今待ち合わせ中なんだよ」
コンクリートの壁に背中を預けて立つ相手にそう声をかける。そう言われても目の前の俺が、かなり気になるのか、さっきからちらりとカメラのレンズを気にするように見つめている。
「俺のことは見るな」
「んなこと言われても」
「見なくていいんだよ、お前が気にするのはこれから来る相手の方だ。つーか気になるなら横向け」
ほら想像しろとしつこく言うと、火神はゆっくりと目を閉じて深呼吸した。
その後、ようやく落ち着いたらしい火神の表情は自然なものになった。最初の方こそ表情は硬かったものの、ただ顔がいいとかそういう意味じゃなくモデルとして理想的なものを持っている。黄瀬のようにブランドや洋服の宣伝としてのモデルとはまた違う。
ファインダーから覗いて、その先に触りたくなるようなそんな相手だ。
「なあ、たまにでいいんだけど俺のモデルやってくんね?」
撮影が終わってからそう声をかけた俺に、火神はものすごく不思議そうな顔をしていた。
いや、俺だって自分でなに言ってんのか意味分かんねえとは思った。でも、確かにまだ続けて撮りたいと思ったのも事実だった。
「いいけど、俺でいいのか?」
「お前がいい」
強い口調で言うと、別にいいけどと答えつつも照れているのか俺から視線を逸らす。
「すみません青峰君、火神君を口説くの止めてください」
そう言いながら掌底打ってくんじゃねえよ、口調こそ穏やかだけど全然やってることは不穏じゃねえ。
そんな経緯で火神と出会い、俺と微妙な距離のまま友達と呼べるのか微妙な付き合いを続けている。
ちなみに、テツには俺が撮った火神の写真を渡すことでなんか許しを貰えた。最近、あいつって大丈夫なんだろぅかとたまに心配になる。
「君にだけは言われたくないですよ」
お前って火神のこと大好きだよな、と諦め口調で言ったら。不服だと言わんばかりに顔を歪めてテツから反論された。
「別に、俺がモデル頼んでんのは作品のためだけだぞ。お前みたいによこしまなもんはねえっつうの」
「よく言いますよ、君の視線に僕の火神君が晒されていることがどれくらい心配なのか、分かってるんですか。というか、君もしかして気付いてないんですか?」
なにを、と尋ねると呆れたように深い溜息をついて、さっき渡したばかりの火神の写真を取り出して「よく見てください」と言った。
「君は火神君をこういう風に見ているわけですよね」
確かにこれは俺から見た火神だ、どういう風に撮りたいのか、どんな顔を見たいのか。それを決めて切り取ったのは自分だ。そういう意味では確かに、これは誰にも見えないはずの俺の視界そのものを切り取ったものではある。
「これを見てたら分かるんですよ、君がどれくらい火神君のことを見ているのか」
「だからなんだよ」
「こちらが恥ずかしくなるくらい、君から見た火神君は魅力的に写っています。
それは言い換えたら、君がこれくらい火神君を魅力的な人と捉えているのに違いないわけですよ」
それは当たり前だ。
大体、写真を撮る時なんていうのは相手を魅力的に映すために工夫をするもんだ。その一番の方法は、好意を持って見ることなんだ……っていうのは退屈なセンセーの授業で聞いた話だ。まあ覚えているってことは、自分でも納得してるってことなんだろうと勝手に思っている。
始めた動機がどうであれ、今は別に下心があってやっているつもりはない。
しかし、そう言ったところでテツの表情は変わらない。まあこいつの無表情は前からそうだが、それにしても目の力というのか、それが違う。
「好きなんでしょう?」
正面切ってきっぱりと言われて、思わず言葉に詰まる。
「火神君のこと、好きなんでしょう」
念を押すように言う相手の視線から逃れるために、窓の外に目を移すと溜息が聞こえてきた。
「だから君に紹介するのは不服だったんです」
「どういう意味だよ?」
責めるような口調になってしまったが、これはテツが悪い。
だが悪人面と言われる俺の凄んだ顔も、こいつは既に慣れたものであっさりと流され、意味深な笑みを見せる。
「彼、太陽みたいな人なんで」
まあ頑張ってくださいと言うと、テツはやったばかりの火神の写真を仕舞った。
モデルとして写真を撮らせてくれと言ったって、別にいつでもスタジオなんかで撮影しているわけじゃない。互いの部屋に遊びに来た時なんかに、ふざけて撮ったものなんかが結構多かったりする。
それでも、ただの遊びの写真で終わらないように気をつけてはいる。
下宿の白い壁は、写真だったりポスターを飾るのに向いていて気に入ったわけだが。部屋で撮影する時も中々と役に立ってくれている。
どういうわけか窓だけじゃなく、ここは壁際の天井にもカーテンレールが取り付けられていた。多分、絵だとか作品だとかを飾るように取り付けたんだろう。元々付いているものなのか、それとも前の住人が付けたものかは知らないけれど、これもなかなか役に立ってくれている。壁にカーテンや写真のパネルを吊ったりして、背景を変えて写真が撮れる。
俺の家は大学から徒歩十分だし、火神も下宿生だし。体格も似たようなかんじだから、服も平気で貸し借りできるし、だから好きな時に泊まって行けと誘いをかけられた。
だからというか、俺の生活レベルはすぐに火神にバレた。
正直に言うと、家事とかほとんどできない。一人暮らしをしたいと言ったのは、単純にうるさい親から離れたかっただけだ。それだけのために出てきて、別に料理だとか掃除だとかが特別できるというわけではない。
そんな俺に対して、火神は一人で過ごしてきた時間が長いから家事は得意だと言った。
だから、俺の家に来る時は料理はこいつがしてくれる。時々、掃除もしてくれる。
本来であればモデルを頼んでいる以上は、俺がなにか礼をするべきなんだろうが、友達だから別にいいと相手はまったく気にしていないように言う。
「なあ、お前の家って食器とか少なくねえ?」
いつだかの夕飯どき、ずっと気になってたんだけどと前置きがついて火神からそう言われた。それは勿論、俺自身が普段そんなに料理をしないからで、コンビニ弁当だとか学食だとかそういうのを利用してれば、家の食器が少なかろうとそんなに不便に思ったりはしない。
「じゃあ俺のやろうか、結構余ってたりするんだよな」
「余ってるって、なんで?」
「授業で作ったのが結構な数になってさ、いいのは学外オークションに出品したりするけど、全部が売れるわけじゃないし」
他の学部で作った作品がどうなってたのかなんて考えたことはなかったが、そういう活動もしてるんだなと初めて知った。
そうして持って来たのは青い模様が入ったガラスの皿だった。それなりの大きさがあって、持って来たその日は俺にパスタを作り綺麗に盛り付けて出してくれた。
「たまには自分で作ってみたらどうだよ?」
「いや、お前これ……こんなん普通に作れるかよ」
どこの店のだよとツッコミたくなるくらい、火神のパスタは美味かった。
次に持って来たのは、赤や黄色などのまだら模様が入った器だった気がする。メインじゃない料理を盛るのに丁度いいのがない、と言って持って来たのだ。
正直、そもそもバランスの良い食事なんてものを考えたこともない俺からしたら、丁度いい大きさとかどうでもいい。惣菜なんて買ってきてもパックのまま食うし、洗い物の手間がかからない分、楽でいい。
しかし火神が料理を作る場合はどうもそうではないらしい。今まで付き合った女子でも、ここまでしっかりと品数を作ってくれた奴はいなかった。
「そういえば、青峰って彼女いないのか?」
今更ながらに火神が尋ねてきたのは、薄い緑色のサラダボウルを持って来た時だった。
「いねえよ、なんで?」
「いや、そういえばよく来るけどそういう人、見たことないし。そういう物とかも家に置いてないから」
どこをどうチェックされてるのか知らないが。料理や掃除をしているなら、まあ気付くよな。
料理をしている相手の後ろから失礼して、冷蔵庫のお茶のボトルを取ると、こないだ持って来た淵に赤い模様を入れたグラスを渡された。
「あんま長続きしねえんだよ、なんでか知らねえけど」
喉の渇きを潤しながら答えると、火神は不思議そうに首を傾げて俺を見た。
「なんで?」
たった今、理由は知らないと言ったよな?ちゃんと聞いてたのかこいつ。
「分かんねえよ。向こうから告白してきたわりに、どいつも俺に付き合ってらんねえって言って、最終的にフラれんの」
そう言うと火神は変なの、と首を傾げながら呟いた。
「お前のこと好きで付き合ったのに、向こうが勝手に嫌いになるのか?」
「そういうことだろ。幻滅したとか、本当は好きじゃないんでしょ、とか色々言われたけど」
つーか、こんなことを蒸し返さないでほしい。別にどうでもいい女ではあったけれども、正直に言うとあまりいい思い出ではないのも確かだ。
「そういうお前はどうなんだよ?」
ふと思いついて尋ねてみる。女の影というなら、火神の方が薄いはずだ。こいつの家にも何度が足を運んだことがあるが、綺麗に整頓されているし家族だとか友達だとかの写真は飾ってあったものの、彼女だというものはそういえばなかったはずだ。
「俺も今はいないぞ」
今はってことは、昔はいたということか。
そう思った時、やけに胸の奥がざわついた。それからイライラした嫌なもんが全身へと巡っていくのを感じた。
「居たっていっても、一人だけな。高校の時に。違う大学行って、それで自然消滅したみたいな……そんなかんじ」
詮索する視線に耐えられないのか、少し赤くなってコンロにかけてる鍋の中身に意識を移した相手が、早口にそんなことを言う。
黙って聞いている内に段々と気分が悪くなってくる。別になにも嫌なことなんてないはずだ、それだけれどもこいつが違う奴を好きだったという思い出が、どうにも気に入らないらしい。
「今はいないのかよ、好きなやつとか」
つつかなければいいのに、わざわざ藪を探る自分に嫌気が差したところで、火神は照れたように笑って言った。
「あー、まあいるっちゃいるかな」
一瞬、なにを言ってるのか意味が分からずに呆気に取られた。
それと同時に体から力が抜けるような感覚があって、ガチャンと足元でなにか音がした。
「ちょっ!お前、大丈夫か」
今、こいつなんて言った?
「なに」
「あっ!こら動くな。ほら破片刺さったら危ないだろ」
なにが危ないんだって尋ねるより早く、コンロの火を止めた相手が、俺の足元に散らばったガラス片をさっさと片付けていく。赤い淵の模様には見覚えがある、ついさっきまで手の中にあったはずだ。なんで割れてんだっけ。
ガラスの扱いには慣れているのか、素早く片付けてしまうと、濡れていた俺の足を乾いたタオルで拭ってくれる。その掌は前も感じたように少し硬い、でも優しく触れてくる感覚がこそばゆくて、酷く心地がいい。そこに至ってようやく、あっ俺さっきのグラス落したのかと気が付いた。
「いる、のかよ?」
「なにが?」
片付けを任せてしまった相手に謝るよりも先に、さっき聞いたばかりのことを聞き返す。完全にテンポがズレた質問に火神も意味が分からずに首を傾げている。
「好きなやつ、いるのか?」
「そっ、その話かよ!つーかお前、驚きすぎだろ。いいじゃねえか別に、俺に好きな奴がいたって」
真っ赤になって叫ぶ相手に、確かにその通りだと頭の片隅で誰かが言った。
なにを意外に思ってるんだ、別におかしなことではないだろう。こいつだって人なわけだし。工芸コースの男女比なんてもんは知らないけれど、まあ女がいないわけじゃないだろうし。
普段は下ネタだって苦笑いしてやり過ごしたり、照れてる時はからかったりしてやってるけど。そりゃ、火神だって恋愛くらいするよな。
当たり前だろ?
必死に笑顔を取り繕いながらも、はっきりと自分の中で冷めていくものを感じ取って、嫌な気分が広がる。
もう邪魔になるからとキッチンから追い出され、部屋に押し込められる。
「なあ、どんな子なんだよ?」
「いいだろそんなの!」
そんな照れたように笑うなよ、顔なんて赤く染めてさ。やめろよ俺をどうしたい?そう尋ねたところで、火神は首を傾げるだけだろう。そりゃそうだ、変なこと言うなって自分で押さえつける。
「早く告白しちまえよ、誰かに取られる前に」
どういう気持ちで聞いていたのか、相手は酷く微妙な顔で俺を見つめて「そうだな」と呟いた。
意識していない、と言えば間違いなく嘘になる。
仕事だとか依頼だとか課題だとか、はっきりとした目的がある場合は別として。個人的な作品として好きでもないものをずっと撮り続けるというのは、かなり苦行だと思う。
どうせ写真に残すなら、綺麗なもの好きなものを撮りたい。その方がずっと有意義だ。
昨年の夏休み前にテツから紹介された、だから火神と出会って既に一年以上は経過している。
それは同時にあいつの写真を撮り続けた時間でもある。それだけ俺は、こいつのことを見ていたいと思っているのは間違いない。
通常のカラー写真、白黒写真、色調を変更したもの、加工を施したもの。様々なトーンで写した火神の顔を見つめて、焼き上がったものをまた張り付ける。
作業用に買った長机とキャスター付きの椅子、その正面にある真っ白壁へ横に吊るした紐には、ピンでとめた写真が揺れている。全て、火神を写したものだ。壁一面に張り付けてみても、作品はまだ余る。
整理をしようと思っただけだ。それだけなのに、こんな数になるとは思っていなかった。いやフォルダを圧迫していたのは間違いないのだから、かなりの数になっていたんだと認識してはいる。写真を見ればいつのものかちゃんと覚えているし、どんな話をしていたのかまでしっかり思い出せる。
「正気の沙汰じゃねえよ」
机に突っ伏して思わずそう呟く。
俺はストーカーか、と自嘲気味にツッコミを入れてみても虚しくなるだけだ。
勿論これは隠し撮りなんかじゃない、日常生活の一コマであろうときちんと本人の許可を得て撮っているものだ。
つまり、それだけ俺がこいつのことを見つめている証拠だった。
意識してるとかそんな問題じゃない。好きなんだと認めるしかない。
出会って一年以上経って、嫌な話だけれど、火神に好きな人がいると知ってようやく認める気になった。どうして、そんな自分にとって一番苦しいタイミングで気付くのか、天邪鬼もいい加減にした方がいい。
写真の中に一枚だけ、大きさも色のトーンも違う紙切れが混じっている。
海外研修旅行に行った火神が、現地から送ってきた絵葉書だ。確か二週間くらいイタリアに行くと言っていたのに、送られてきたのは何故かゴッホの「ひまわり」の絵葉書だった。
もしかしたら、暑中見舞いかなにかのつもりだったんだろうか?だとしても、もうちょっと他になんかあっただろう、ゴッホのひまわりってフランスの絵じゃねえか。
大したメッセージは書かれていなかった「すっごい楽しい」とか「土産、楽しみにしてろよ」とか、本当に日常会話の延長みたいな言葉が並んでいただけだ。
学科の行事だと言っていた。ということは、もしかしたら好きだとかいう相手も一緒なのかもしれない。そう思うと、意味もなく元気なひまわりの顔にイライラしてきた。
あの日、テツのやつが言った太陽というのもなんとなく分かる気がする。「火神君は僕の光です」というあいつの言葉に、すっかり毒された結果そう見えているだけかもしれないが。
ひまわりの花に、あいつの笑顔が重なる。
ただ相手を見つめているのは、もっぱら撮影している俺の方だ。
溶けた氷がグラスに当たって、やけに高い音が鳴った。
普段は気にしないのに、やけに大きく聞こえたそれを腕の隙間から見ると、広めの口をあけた赤いグラスが光を反射してこちらを向いていた。旅行に行く前に「自信作だ」と言って火神がくれたものだった。
「この前グラス割っただろ、丁度いいからやるよ」
ペアグラスだから割らないようにしろよ、とわざわざ念を押して言ってきた。かなりいい出来で気に入ってるらしい。
そんなに気に入ってるなら自分で使えよ。そうでないなら、もっと他にあげる相手なんているだろうが。
不快感を与える外の暑さと同じくらいの、不愉快な思いが湧きあがってくる。
気付けばスカスカだった食器棚の中に、あいつが作ったというグラスが並んでいる。
嫌なら使わなければいいだけなんだろうが、悲しいことにどうも手前の取り出しやすい位置に並んでるし、使い勝手がいいもんだから気付いたらこうやって置いてしまっている。
そのたびに、思い出して嫌な思いをするくせに。
「本当、正気じゃねえ」
突っ伏した腕の中で、情けない自分の声が鳴るのを聞く。
枯れたひまわりは嫌いだ。
最期の一本を花瓶の端に差して、ふと息を吐く。
「ほら、これでいいだろ」
「おう」
いいか悪いかは俺にはよく分からない。花については詳しくないからだ、静物写真のモデルで使う時にどう撮ればいいか考えるくらいで、それ以外では好んで見ない。
花瓶を抱えた火神はしばらくどうするか迷って、結局、俺の作業台の端っこにその黄色の塊を置いた。黒い机と白い壁の間が唐突に華やいで、目に痛い。
イタリアから火神は直で下宿先に戻って来ていたらしいが、俺の方が実家に戻っていたのだ。
下宿に戻ったという連絡を入れたら、じゃあ土産持って行くと火神から連絡があった。
別に相手に変化はない、少し焼けたか?と感じるくらいだ、俺に対する態度も全く変わっていない。
「あっ、ちゃんとカード届いてたんだな」
壁に吊ったままだった絵葉書を見て、嬉しそうに火神が言う。
昨日まで吊ってあった火神の写真は、今は片付けられて白い壁に戻っている。残したのは黄色い絵葉書だけだ。
見たくもないのに残してしまったそれと、同じ色の花が目の前にある。
「そうそう、これお土産な」
そう言いながらフローリングに座った火神が鞄の中から机へと、次々に出してくる物をベッドに横になって見ていた。美味しいらしいチョコレート等の菓子やら、自分で撮ってきたらしい写真の束、それと。
「あとこれな」
横になった俺に向けて差し出して来たのは、細長い箱だった。やけに綺麗にラッピングされているのは、誕生日プレゼントを兼ねて買って来たかららしい。
「時計?」
「おう、時間管理くらいちゃんとしろよ」
余計なお世話だと苦笑いしつつも、折角だからつけてみた。文字盤がベネチアグラスで出来ているらしい、海を連想させる青いガラスに銀で時刻が書かれている。
「綺麗だな」
「だろ、青峰に合うと思ったんだ」
こいつが見学で入った工房で作られたものらしい。本物の職人はやっぱり違うと目を輝かせて言う相手に、思わず俺の頬も緩む。
「楽しかったのかよ、イタリア」
「おう、日本じゃ見れないもの色々見れたし」
そりゃそのために行ったんだからな。と思っていたら、次に出て来た言葉が「飯も美味かった」だった。やっぱりそこかよ。
呆れて溜息を吐く俺に、火神は不思議そうに首を傾げる。
「なんだよ?」
「いや、お前って本当に食い気しかねえなって思って。もっとさ、色っぽい話とかないのかよ。好きな奴いるんだろ、一緒だったんじゃねえの?」
聞きたくもないことを尋ねる自分の口が、酷く憎かった。
「一緒じゃねえよ、相手は日本にいたし」
ふっと明るかった笑顔がくすむ。触れてくるなとでも言うように、言葉を切って視線も外された。
「なんだよ、もしかしてフラれたのか?」
悪いこと言ったなと、全く思ってないことを謝ると火神は首を横に振った。
なんだよ違うのか?
「ずっと見てるんだけどな」
独り言のように呟くと、再び俺の方に火神の目が向いた。
じっと、ただ真っ直ぐ静かに、俺のことを捉えて離さない。強い視線だった。
「ずっと見てるつもりだったんだけど、お前は見てくれないよな」
「なにを?」
「俺のこと」
そんなことはない、ずっと見ている。そう言おうとして、言葉が出てこなかった。
「……なにしてんだよ?」
「青峰を見てる」
ああ確かに、俺を見ているだろう。わざわざベッドに寝転んだ俺の上に乗り上がってきてまでして。
今日の気温も三十度越えてるんだよ、くっつくなよ。
「暑いだろ、退けよ」
呼吸困難になるんじゃないか、ってくらい心臓が痛いんだよ。
「嫌だ」
そのまま無言になる。どこか責めるように俺を見る相手と、どう反応しようか迷って身動きの取れないままの俺。
ああ、逃がすつもりないなこいつ。と思ったのはしばらくしてからだ。
「なんのつもりだよ」
無言で見下ろしてくる相手に問いかけても、返事はない。
「なあ、退けよ」
そう言いながら押し返すことはしない、別に押さえつけられているわけじゃないし。多分、少しでも俺が押せば素直に引いてくれるんだろうけれど。そんなことをしたくなかった。
「言いたいことあんなら、言えよ」
特徴的な眉毛を、嫌そうにしかめてふっと息を吐く。
「好きだって、言っていいのか?」
ぐっと強くなった重力に息を止めた瞬間、ふっと笑って火神が俺の上から退いた。
「冗談だよ」
フローリングに座った火神の後頭部から、呆れたような口調で言う声がした。
なあ、こっち向けよ。
もう一回、俺を見ろよ。
心の中で唱えてみても反応を見せない相手にイライラしながら、重い体を起こす。
無言のままで立ち上がり、反対側に置いてある作業用の長机の引き出しを開けた。印刷したままでファイルに閉じていない写真の束を、そのまま相手に向けて投げつけた。
それなりの重さはあるものの、どうせ繋がってもいない紙の束だ、空中で霧散して部屋の床中に散らばって落ちる。それを一枚一枚と視線で追いかける、いつ見たものなのかどれも思い出せる。
「誰が誰のこと見てねえって?」
なにも言い返さない相手の前に、同じように座って顔をのぞき込む。
「俺がお前のことどれくらい見てんのか、知らないわけないだろ?」
こっちを見向きもしないのは誰だよ。
さっきまでと違い、視線を逸らす相手を睨みつけて言う。
「俺の方がお前のことが好きだよ」
すると顔を上げて、火神が俺を冷たい目で睨みつけて来た。
威圧感とか凄みとか、そういうもが全身から滲み出ていて思わず後ずさりそうになる。
「見た目は、だろ?」
その辺の石膏像と同じ扱いだろうと、吐き捨てるように呟くと、また俺から視線を逸らした。
そんな相手に相当イライラきていた。
「こっち見ろよ」
「嫌だよ」
「さっきまで穴が開くくらい見てただろうが」
「飽きた」
「飽きるな」
無理言うなよ、と溜息混じりに言う相手に無理を押し通してるのはどちらだと、強い口調で返す。
どうしろってんだ、と頭を悩ませつつゆっくり溜息を吐く。
「好きなんだろ、俺のこと」
できるだけ刺激しないようにと注意を払いながら、尋ねるとぴくっと肩が震えた。
「…………そうだよ」
なんだこの空気。
忌々しそうに呟く相手と、そんな態度にイライラしている俺。
両想いだろうが喜べよ。
なにが気に入らないのか、俺を見ようとしない火神の肩を掴んで、無理やり顔を上げさせる。
「こっち見てくれよ」
喉に張り付いたような情けない声が上がった。
そんな俺を見つめ、耐えきれなくなったように火神は噴き出した。
「ちょっ、お前……なに笑ってんだよ!」
目の前でさっきまで不機嫌だったのが嘘みたいに、両肩を震わせて笑っている火神を見つめて、そろそろ怒りが爆発しそうだ。
「だって、お前……んな、なっさけない声でんなこと言うとか」
もう無理だとか言って、笑う相手の顔を見て。俺もなんだか馬鹿らしくなってきた。
悔しいから、机の上に置きっぱなしにしていたカメラで笑う火神の顔を撮る。シャッター音を聞いていると落ち着いたのか、いくぶん穏やかな目になって手にあるカメラを取り上げた。
「これ通して見られてると、変な気分になるんだよ」
丁寧に机の上に戻されて、真っ直ぐにまた俺を見つめる。
「お前の視線がじっと俺に向いてるような気もするし、俺じゃなくて他のもの見てるような気もするし。見てるのがお前じゃないような気もしてくる」
「なんだよ……撮られるのが嫌なら、そう言え」
別に無理してまでモデルを頼むつもりはないのだ、嫌だって言うなら止めたっていい。どうせ、これは課題でもなんでもない。俺が好きでやってることなのだ。
「嫌ってわけじゃねえよ。ただ、たまに思うんだ……今は俺のこと撮ってるけど、もっといいモデルみつかったら、どうなるんだろうなってさ」
寂しそうに笑う相手に馬鹿じゃねえのか、と一蹴する。
「んなことで、お前と縁切ったりしねえよ」
「そうかもしれないけどさ、気になるだろ。お前が俺のことどう見てるか」
女々しいだろと嘲笑する火神に、似た者同士だなと思った。
結局、俺達は似たようなことを考えていた。多分、テツに言わせれば俺の方が鈍感だと怒るんだろうけれど。つーか、あいつもしかして俺達が両想いだって知ってたのか?だとしたらどうすっかな、今度会ったら面倒なことになりそうだ。
「それで、どうすんだよ」
これからどう付き合っていくつもりだ、と相手に尋ねると、しばし考えて「青峰が決めろよ」と言われた。
「なんで俺が」
「俺は、青峰の傍に居れればなんでもいいんだよ」
恥ずかしそうに微笑んで言う相手に、もういい加減に我慢の限界だった。
「そこは俺のもんになる、って言えよ」
「それで、ようやくお付き合い始めたんですか火神君と」
九月とはいえ大学はまだ新学期は始まっていない。だというのに、唐突に食堂に呼び出したテツは開口一番そう口にした。
「悪いかよ」
「悪いですね、僕の火神君の想いを半年は軽く踏みにじってた君が、果たして彼を幸せにできるのか非常に心配ではあります」
そう言いながらも顔は薄く笑っているので、おそらく怒っているわけではないんだろう。購買に寄って奢ってやったアイスが功を奏しているのかもしれない。
「で、火神君と無事お付き合いを始めた君に、僕がなにを言いに来たか分かりますか?」
「いや」
文句なり嫌味なりは言われるんじゃないかと覚悟してきたわけなんだが、それ以外にこいつには言うことがあるらしい。
「僕のいる文芸学科の教室棟って、どういうわけが工芸学科の実習棟の隣にあるでしょう?」
そう言われて、学内の地図を思い出そうとするも、どうにもその辺は記憶が曖昧だ。つーかウチの大学かなり規模でけえから、自分が使う教室以外はほとんど知らねえ。
だが何度か工芸の実習風景を見た記憶があるので、大体この辺りか?と首を傾げつつ言う。
「どうせ文芸は影が薄いですよ。まあ、ここから見えるんですけどね」
そう言ってガラス窓の向こうに見える建物を指すテツに、最初からそうしろよとは思ったものの、気分を害すると必要そうな情報を聞き出せそうにないので、とりあえず続きを促す。
「そういうご近所さんなので、すれ違ったり授業の合間に火神君に会ったりするんですけどね。
彼、物凄いモテますよ」
「……はっ?」
「物凄くモテますよ」
わざわざ念を押して二回も言わなくても、ちゃんと聞きとってるよ。だけど、だから今更なんだって話だ。そりゃあの顔だし、正確もいいし普通にしててもモテるだろうなとは思うし。
「あっ、ちなみに女の子より男の人にモテます」
「ちょっ!待て、どういうことだそれ!」
流石にその台詞には黙っていられなかった、というか黙っていられるわけがない。
どういう意味だ、男にモテるって。いや確かに付き合ってるのも俺だし、えっ……どういうことだよ。
「彼、美術学科にお兄さんみたいな方がいまして」
「お兄さんみたいな、ってなんだよ?」
既になんか発言が怪しいんだけど、どういうことだそれ。
「平たく言えば幼馴染みですよ、兄貴分ってことです。その人を筆頭に、まあ美術学科の方ではかなり可愛がられてるみたいですよ。僕はそっち詳しくないですけど、工芸コースで彼がモテてるのはよく目撃してるので、同じような状況ではないかと」
完全に言葉を無くしている俺の前で、すらすらとテツは爆弾を落としてきやがる。
つーか、つまりなにを言いたいんだお前は。
「お付き合いするのはいいんですけれど、夜道には気をつけて下さいね。彼を泣かせるようなことがあったら、多分すぐに取られますよ」
ちょっと待て!すぐに取られるって、どういう意味だよ。火神はそんなに簡単に押し切られて流されるタイプなのか!
「押しに弱いタイプだなってかんじしません、彼。人が良いので強く言われると断れないところありますし、まあそこが可愛いんで思わず守りたくなってしまうんですけどね」
「そういうことじゃねえ!んな簡単にフラれるなんて、ねえだろ!ねえよな」
「さあ、さっきも言いましたけれど彼、かなり人気なんで。君のような甲斐性なしの不届きものと付き合うくらいなら、もっと他にいるだろうってめちゃくちゃ言われる可能性は、まあありますよ」
ちょっと待て、お前それは言い過ぎだろうよ。っていうか、テツは俺の味方しろよ!中学からの付き合いだろうが。
「僕としてはそろそろ縁が切れてもいいと思うんですけどね」
「偶然だな、俺も今そう思ってた」
忌々しいさを全面に出して答えると、それはいいんですとさらりと流されてしまった。
「つまり僕が言いたいことはですね。お付き合いできたからって、ライバルは滅茶苦茶多いので、隙は見せちゃダメですよってことです」
まあ心配はないと思いますけどね、と呟くと何時ですかと尋ねてきた。それくらい自分で確かめろと思ったものの、素直に腕時計を見たところで、前からクスッと喉を鳴らして笑う声がきこえた。
「なんだよ?」
「いえ。火神君からの誕生日プレゼント、ちゃんと付けてるんだなって思って」
そりゃ貰ったものだし、身に付けないと悪いだろうと答えたらますますテツは笑う。
「前は、腕時計とか邪魔になるんでいらない、って言ってたじゃないですか」
「いいだろ別に。つーかそろそろ二時になるけど」
なんかあるのか?と尋ねると、特別実習があるのでと言って荷物を片手に席を立った。
「そうそう青峰君、いくら君でもゴッホのひまわりは知ってますよね?」
「小学生じゃねえんだから、それくらい知ってるっつーの」
本当、こいつの人を馬鹿にするつーか見下すつーか、この言動がたまに滅茶苦茶腹立つ。
「あのひまわり、どうして枯れてるか知ってます?」
「は?」
そう言われてふっと思考が止まる。あの花は枯れていただろうか、やけに明るいタッチで描かれた、黄色いイメージしかない。
机の上に相変わらず吊るされたままの絵葉書を思い返す、そう言われてみればいくつか萎れているのもあったようが気もしてくる。
「あの絵は今ある美しさを表現してるんじゃないんです。ひまわりは太陽をずっと見つめているでしょう、枯れてもそこに夏の明るさを見出せる人がいるんですよ」
それくらい知っといて下さいと言わんばかりの顔で俺を見つめ、それからねと呆れ顔でテツは続ける。
「ひまわりの花言葉は『あなただけを見つめる』と『熱愛』です」
「は?」
「鈍感でロマンもなにもない青峰君には、きっと絶対に通じませんよと念を押して言ったんですけどね。
良かったですね、愛されてて」
呼び止めようとした俺の声を無視して、ではまたと言うとテツはさっさと言ってしまった。
思い返すのは部屋に飾られている二つのひまわりだ、一方はまだ元気に咲いている。もう一方はさっき初めて枯れているのだと知った。
なんで男に花なんだよ、と相手の感性を少し疑ったわけだが……。
「んな告白で、誰が気付くんだよ」
呆れてものも言えないって、こういうことか。
これに関しては、悲しいことにテツの助言は正しい。んな遠回しな方法で、お前の感情なんて気付くもんか。あるいは、気付かなくってもよかったとか思ってたのかもしれない。あいつなら、そう思ってそうだ。
でも、見ているだけで幸せだ……なんて、ありえねえだろ。
「つーか、言われなくても幸せにしてやるつーの」
初めて、夏の終わりのひまわりを嫌いじゃないと思った。
盛大に遅れてるってことくらい知ってますよ!
一応、当日だって大声でこっそりとおめでとうを呟いてましたし、お祝いしたい気持ちだけは高ぶっていましたが書くスピードがそれに追いついてくれなかったんです。
星座、好きなんですよ。
2013年9月2日 pixivより再掲