幸福に溺れるキスを
「チョコレートってさ、キスの三倍幸せになれるんだって」
「なんだそれ」
そういう効果があるんだってと言うアストルフォに、あまりにも信用できないだろ都市伝説とかその手の話なんじゃないかと返せば、チョコレートの成分はそういう働きがあるんだって、ちゃんとした証明もあるんだから嘘じゃないもん、とムッとした顔で返される。
「嘘だって思うならさ、ローラン確かめて来てよ」
「確かめるって、どうやって」
ローランには確かめてくれる人いるでしょ、実地で確かめてきてよと言って渡されたのは、可愛らしいハート型のチョコレートの容器だった。
「それで、わざわざ来たんすか?」
呆れた顔に声が重なり本気かと問われるので、貰った物に罪はないだろと綺麗なチョコレートの粒を差し出せば、それはそうっすけどねえと端の一つを取って口へ運ぶ。
「食べ物の効果とか、栄養素とか、あと食べて得られる反応っていうの、それと実際の行為を比較するのは、なんつーか間違ってるだろ」
「俺もそうだと思う」
単純に比較されるのもいやだし、雰囲気を作ってキスまで持っていった労力がこんな一粒に負けるってな、それが実実だとしても受け入れ難い。でもチョコレートに罪があるわけじゃないから、せっかく貰った物だしきみと楽しもうと思ったんだけど、迷惑だったかと聞けばそこまで言ってないと首を振る。
「っていうか、アストルフォなりに気を使ってくれたんじゃねえの?」
「気を使うって、なんのために?」
「いやバレンタインなんで」
チョコレートを贈るのは日本の風習らしいけど、恋人たちの日だっていう認識は世界共通となれば、少しでも雰囲気を楽しめってことなんじゃないかと指摘されて、そういうものかと納得する。
恋人の祭りといってもその様相はそれぞれだろうけど、数あるイベントの中でも特に浮き足立った空気になるのは間違いない。確かにここ数日はなんだか騒がしかったけれど、女性が主体の祭事なんだろうと思って少し外れた感覚で見ていた。
確かにどっちかと言えば女性が主体だろうけど、国によって捉えかたは違うから性別の違いはどちらでもいい、というかおまえの身の回りにそんなものを超越するタイプがいるんだから、気にしたら終わりじゃないか。そう言いながら部屋の戸棚から小さな箱を取り出すと、ほらと差し出された。
「えっ?」
「いや、だからバレンタインでしょ」
おまえよりも長くここで過ごしてるんで、季節の行事はおよそ体験してるから、立場上やっぱり用意しておこうと思ってと、目を逸らしながら小声でつぶやく。
「貰っていいのか?」
「そのつもりで用意してたんで」
大した物じゃねえよ、あんまり物に執着するタイプじゃないのは知ってるし、そういう相手にお菓子は確かに向いてるなって思って、用意しただけで。
「手作りなのか?」
「一応、なんかそういう空気だったんで」
マスターがサーヴァントやスタッフ全員に贈ってくれるから、材料の準備や力仕事を手伝って、お菓子作りの智恵を借りたのだと。流石に失敗した物を渡すわけにいかないし、最低でも食べられる物じゃないとまずいだろ。
「なんだか照れるな」
もったいなくて食べられないと言えば、気にせずさっさと食べろよ、そもそも長期保存できる素材じゃないからと注意されて、もったいない気はするけど仕方ないと包みを解いて、中に入っていた球状のチョコレートを取りあげる。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
大袈裟だと笑うけど、自分のために作ってくれたというのは思っている以上に嬉しい、文化として廃れない理由はそういうのもあるんだろう、感情の問題なんだろうなと思いながら甘い菓子をゆっくり楽しむ。できるだけ長く楽しんでいたいのに、溶けるまでは思った以上に早い。
「それで、キスはしないのか?」
ほらと軽く舌を出して誘われるので、そんな急にするものじゃないだろと言えば、なんだよ逃げるのかとむすっとした声で返される。別に逃げる気はないけど、今かと聞かれたら違うだろう。
「なあローラン」
珍しく甘えるようにしなだれかかってくる相手に、ちょっと違和感を覚えて大丈夫かと顔を覗きこむと、トロンとした熱っぽい目で見返してくれるので、なんだか雲行きが怪しいなと思う。
部屋に戻って来たところまでは普通だった、じゃあ他に考えられる物はと彼に差し出したチョコレートの容器を取ると、蓋の内側になにか文字が書いてある。
「愛の神による、堕落と快楽のチョコレート?」
これを持って来た仲間がどんな考えで差し出してきたのか、後でしっかり問い詰めることを心に決めて、とりあえずこれ以上の被害が及ぶ前に蓋をして、不審な物を食べさせた自分の不注意を反省する。
「ローラン」
「ああごめん、ちょっと自分の不注意を恨んでた」
きみが悪いわけじゃないんだと、自信を失いかけているように見えた恋人を抱きあげて、膝の上に座らせるとややあってから肩に頭を預けて、猫のように擦り寄られる。うん普段と違ってあまりに真正面からの甘え、心臓が飛び出しそうになるもギリギリで耐える。
「キスしねえの?」
「きみがいいんなら、するけど」
怒らないよなと確かめると、おまえが言い出したんだろうがとムッとした口調で返される。
「キスするより、チョコ食うほうが本当に幸せなのか、確かめるんだろ」
ほらと無防備なまでに晒されているので、ここまでされて乗らないのはダメかと腹を括り、頬へ触れるとくすぐったそうに喉を鳴らして笑い、ややあって目を閉じるので重なるようにキスをする。
彼の唇は薄いけれど柔らかくて触れ合わせると心地いい、すぐに離れようと思っていたのに、珍しく積極的な相手から舌を伸ばして俺の唇を突いてくるので、我慢ができるわけもなく逃さないように捕まえて、深いキスに変える。
「んっ、ふぅ」
ぐちゅりと口の中から水音が響く、チョコレートの味がする舌は美味しい、普段よりも物理的に甘いキスに徐々に熱があがっているのを感じる、このまま永遠に続けていたい気もする。
そろそろ息が限界になってしまったのだろう、ふうと苦しそうな声をあげるので離せば、目の前には赤く染まった恋人の顔がある。
「どうだった?」
キスとチョコレート、どっちのほうが幸せと舌足らずな言葉でたずねられて、そんなのキスのほうが嬉しいに決まってるだろと、わかりきってた回答をすれば、満足そうに頷く。
「恋人がいる相手に、こういうの聞くほうが野暮じゃないか?」
「嘘だったら許さねえけど」
こういうときに嘘はつかないと言えば、おまえはそういう奴だよなと小さく笑われる。
「なら、もっと幸せになれることしようぜ」
「えっ」
それはと身構える俺の目の前で、そばに置いてあったチョコの包みから一粒取りあげると、一口で口へ含むと再びキスをしてくる。
「んむっ!」
招き入れられた口の中で溶けたチョコレートが舌に触れる、先ほどよりも味の感覚ははっきりしているけど、先程よりもずっと甘くて痺れるような感覚に溺れそうだ。ふわふわした視界の先で、楽しそうにキスを深めてくる相手の後頭部を押さえると、急な動きにびくりと震えるものの、無視して蹂躙するように口の中を荒らして回る。
ついさっき食べるのがもったいないって自分で言ったとおり、このまま永久に離してやれそうにないな、なんて欲望に支配されそうな脳内の片隅で考える。口の中は二人分の熱で熱く燃えて、どろどろに溶けて消えるはずの甘さが永遠に残っている、唾液が混ざるだけ飲み干せずに溢れかえっていくのかもしれない、でもここで手放すのはあまりに惜しい。
このまま全部、食べてしまってもいいのかな、なんて。
押し倒す力に一切の抵抗を見せない相手に、あんな一粒でこんな効果が出るなんて女神の力は恐ろしいと思う、少しだけ罪悪感が爪を立ててくるものの、ここまでされて待ったは聞けないと、唇を離して乗りあげる形になった相手の顔を覗きこめば、相変わらずとろけた表情のまま僅かに微笑み返す。
「美味かった?」
「おまえな」
なにを言っても仕方ないのかもしれない、けど最初からわかっていたことだから、ちゃんと教えておかないと。
「今の俺には、おまえがそばに居てくれることが一番幸せだぞ」
「ははっ、満足してなかったら殴ってる」
「なにか言うことないか?」
「んーと、昨日はお楽しみでしたね?」
違うと同僚の頭に拳骨を落とせば、痛いじゃないかローランのバカと涙声で叫ぶので、バカはおまえのほうだと声を荒げて返す。
「アーちゃん今度はなにやったんです?」
ちょっと怪しい食べ物を渡してきてと内容をぼかして伝えると、なんだよせっかくのバレンタインだからラブラブな一夜を提供してあげたんだろと、むすっとした顔のまま返す。
「いや、それが余計なお世話だと言って」
「マンドリカルドってば一緒にチョコ作ったはいいけど、流石に男からは恥ずかしくて渡せないなんて言うからさ」
ちょっといい雰囲気になったら流れで渡せるってと背中押したけど、納得してなさそうだったし、それならもう一歩あと押しが必要かなって。
「俺から渡せば、向こうもくれるだろうって?」
「貰えなかったの?」
いやちゃんとくれたけど、それなら普通のチョコレートでよかっただろ、なんであんな刺激物を渡したんだ、というかどこから持ってきてあんな物と聞けば、愛の神さまのお墨つきだったらご利益あるかなって思って、お楽しみだったのは本当なんだろとケロッとした笑顔で言いやがるので、もう一度拳にもの言わせて黙らせる。
「マンドリカルド王が朝からお姿が見えないのは、そういう」
「ちょっと待て、誤解だ」
あまりの羞恥で死ねるってつぶやいて以降、霊体化したまま顔を合わせてくれないだけで本人はちゃんと元気だ、精神的にはほぼ虫の息かもしれないけど。
「だって二人とも見ててなんかもどかしいんだよ」
相手に対して及び腰っていうか、変なところで臆病というか、そういうとこあるじゃん。そもそも知らない仲でもあるまいし、今になって遠慮もなにもいらないじゃんと言うアストルフォからの指摘は、真っ直ぐなだけに無駄に心に刺さる。
「第一やることヤってる仲なんだったら、今更そんな羞恥心なんて持ってるだけ無駄なんじゃないの?」
「おまえいい加減にしろよ」
恋人の持つ羞恥心のカケラでも彼に移植できないだろうか、こいつも頭のネジがぶっ飛んでるタイプだから、真っ当になるかはわからないけどさ。
「まあでもスイートなバレンタインだったんだろ、チョコレートでキスの三倍気持ちよくなれたわけだし」
「その話はもういいから!」
本当か嘘か怪しい言葉に乗せられて、うっかり渡してしまった自分にも非があるのは認めるものの、言い出した本人にしても信じてなさそうだしキスのほうが気持ちいいだろ、普通に考えてと返すとその話なんですがねと、ブラダマンテが声をあげる。
「成分的には正しいみたいだけど、ダークチョコレートならってことで」
カカオに含まれる成分が関係するので、砂糖やミルクといったもので味を甘くまろやかにするほど、どんどん効果は薄れていくはずでと続く。
「じゃあまた結果はわからないじゃん」
今度ビターチョコで試してみろよと言う相手に、三度目の拳骨をお見舞いした。
あとがき
去年の夏頃に思いついて「チョコレートネタはバレンタインに取っておけ」と温存していたので、なんとか当日に間に合ってよかったです。
2023-02-14 Twitterより再掲